第37話 疾走する若様
颯太から手紙を預かった翌日、さっそく咲夜は汽車とバスを乗り継ぎ、とある停留所に降り立っていた。
その停留所は日鞠の実家がある集落の入り口に位置し、周囲一帯は抜けるような青空と四方の山々に囲まれていた。
停留所から手紙の住所への道順がわからなかったが、誰かに尋ねようにも人が一向に見当たらないので、とりあえず目の前の一本道を歩き出した。
咲夜の住む別邸も人里離れた山の中腹にあるが、ここはさらに緑が濃い。
日鞠が咲夜と近くで接しても正気を失わなかった理由が、この場所を訪れてなんとなくわかった気がした。
こんなに濃い緑の空気の中で育ったのなら、咲夜の香りをちょっとくらい吸い込んだところで、たいしたことはなかったのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていたが、しばらく経っても左右に田畑が続くばかりで、人家はおろか人っ子一人見当たらない。
さすがに不安になってきたが、ちょうど右前方で交差している遠くのあぜ道に人影らしきものを見つけた。
後ろ姿がどんどん遠ざかっていくので、咲夜は速度を上げて人影を追った。
「おいっ」
あぜ道を曲がったところで咲夜が大声で呼びかけると、人影は立ち止まり、鼻歌をやめて振り返った。
十代前半の少女で、いきなり声をかけられて驚いたのか、黒目がちの目をまん丸に見開いて咲夜のことを見つめていた。
咲夜はこれ以上驚かせないよう、少女の数歩手前で立ち止まった。
「道を尋ねたいんだが。青空日鞠の家を知ってるか?」
相手を警戒させないように注意したつもりが、少女は咲夜のことをますます凝視した。
「お兄ちゃん、誰?」
きれいな声に警戒心をありありとにじませている。
誰、と聞かれて、咲夜は答えに詰まった。
元雇い主、と答えるべきなのだろうか。
いや、正確には咲夜が給金を出して雇ったわけではない。
元主人……いや、これもなんか違う。
適当な言葉が思い浮かばず、咲夜は苦し紛れに颯太の手紙をかばんから取り出し、免罪符のように少女の面前に掲げた。
「俺は別に怪しい人間じゃない。これを届けに来たんだ」
少女は手紙をためつすがめつ見ていたが、急に何かに気づいたように、ぱっと咲夜の手から手紙を抜き取った。
「颯太お兄ちゃんからの手紙だ!」
そう叫んだ後、少女は小首をかしげながら咲夜を見上げた。
「もしかしてお兄ちゃん、颯太お兄ちゃんのお友達?」
「そ…そうだ。俺は颯太の友達だ」
「お姉ちゃんともお友達?」
「そ…そうだ……」
かなりぎこちない答え方だったが、少女はそれで納得したらしく、大事そうに颯太の手紙を懐にしまうと、先ほどまでとは打って変わって好意的なまなざしを咲夜に向けた。
「うちまで案内してあげる」
そう言うと、少女は弾むような足取りで軽やかに歩き出した。
咲夜は隣を歩きながら、少女に尋ねた。
「おまえ、日鞠の妹か?」
「うん。風佳だよ。お兄ちゃんの名前は?」
「咲夜だ」
風佳は人懐っこい性格なのか、道すがら、咲夜によく話しかけてきた。
「今ね、お姉ちゃんが作ったお菓子を叔母さんの家に届けて帰るところだったんだ」
「お菓子?」
「うん。お姉ちゃん、奉公先から帰ってきてから、いろんなお菓子作ってくれるの。難しい本を見ながらすごく考え込んで作ってるけど、とってもおいしいって近所でも評判なんだよ」
「そうなのか……じゃあ、元気にしてるんだな」
咲夜の言葉に、風佳は顔を曇らせた。
「うん……でも時々、元気がないように見えることがあるんだ。昨日もこっそり布団の中でため息ついてたし」
それを聞いた咲夜は、まさか自分の血液を注射した後遺症ではなかろうかと不安になった。
しかし、風佳の見解は違っていた。
「きっと奉公先のご主人様にいじめられて帰ってきて、心の傷がいえてないんだよ」
「日鞠がそう言ったのか?」
「そうじゃないけど、私が『どうして急に帰ってきたの?』って質問したら、すごく辛そうな顔してたもの。それに機嫌の悪くなる人だって前にお姉ちゃんも話してたし」
「へぇ……そんなこと言ってたのか、あいつ」
「うん」
風佳は大きくうなずいた。
「風佳はお姉ちゃんがこっちに帰ってきてくれて嬉しいけど、でもお姉ちゃん、やっぱりかわいそう」
風佳が姉を案じる様子は真剣そのものだった。
「おまえ、日鞠のことが大好きなんだな」
自分と玲司とは正反対の姉妹の関係性に、咲夜は不思議なものでも見ている気分だった。
「うん。お兄ちゃんは?」
姉のことを友達として好きか、と風佳は咲夜に問いかけていた。
奉公先での姉の人間関係に問題がなかったか心配だったのかもしれない。
きっと適当にはぐらかしてもよかったのだろう。
けれど考えるよりも先に咲夜の口が勝手に答えた。
「俺も好きだよ」
言ってから、咲夜は自分の言葉を反芻し、首をひねった。
なんでそんなことを言ったのだろう。
風佳は目を瞬かせると、急に黙りこくって歩いていたが、そのうち前方に一軒の家が見えてきた。
「あそこだよ」
茅葺き屋根の小さな家で、風佳は表の板戸を開けて中に入った。
咲夜は戸の前でいったん立ち止まった。
「お姉ちゃん、ただいまー」
「おかえりー」
久しぶりに聞いたその声に、咲夜の心臓がどくんと跳ねた。
奥から本人が顔をのぞかせたが、風佳の後ろに立っている咲夜を見て、日鞠はぴたりと動きを止めた。
「咲夜様……なぜここに?」
「お客さんを見つけたから一緒に帰ってきたんだよ。颯太お兄ちゃんからの手紙もあるよ!」
風佳が代わりに答えて、颯太の手紙を日鞠に元気よく見せた。
「久しぶりだな」
咲夜は以前と同じ感じでさりげなく挨拶をしたつもりだった。
しかし日鞠の反応は、咲夜が事前に想定したどのパターンにも当てはまらなかった。
「お姉ちゃん!?」
日鞠はくるりと咲夜に背を向けると、急に裏口から家の外に飛び出していった。
「お姉ちゃん、どうしたんだろ……」
風佳も姉の行動にあぜんとしていた。
いわんや咲夜をや、である。
「……あいつ、そんなに俺に会うのが嫌だったのか?」
咲夜とて、日鞠に大歓迎されると思ってやって来たわけではない。
いや、心の奥底ではほんの少しはそんなことを期待していなかったわけでもなかったが、しかしこれほど嫌がられるとは思っていなかった。
「お兄ちゃん、大丈夫……?」
風佳がなにやら気遣わしげに声をかけてきた。
「…………てやる」
「え?」
「絶対、捕まえてやる」
咲夜は顔を上げると、かばんを放り捨て、家の外を周って日鞠の後を追い始めた。
全速力で走っていると、前方の草むらに、走り疲れて息を切らしている日鞠の姿を発見した。
咲夜は追いつこうとしたが、日鞠は咲夜の姿に気づくと、再び走り出した。
咲夜の心臓はすでにはち切れそうだった。
無理したせいで大きくせき込んでしまい、その場で急停止すると、日鞠が慌てた様子で引き返してきた。
「大丈夫ですか!?」
そう言って、咲夜の背中をさすろうとしたので、咲夜はすかさずその手をつかんだ。
「捕まえ…たぞ……」
日鞠が「ひっ」と変な声を出して再び走り出しそうになったが、咲夜は握った手の力を決して緩めなかった。
「おまえ……人の顔を見るなり逃げ出すとは、いったいどういう了見だ……」
ぜえぜえ息をしながら咲夜がにらみつけると、日鞠は口をぱくぱくさせた。
そんな日鞠を見て、咲夜は自己嫌悪に陥った。
困らせるつもりはなかったのに、ただあの晩のことを謝りたくて来ただけだったのに、どうしてこうなってしまうのだ。
頭ではそう思っているのに、どうすればいいのかわからない。
手を握ったまま咲夜が沈黙していると、日鞠がぽそりと何か言葉をつぶやいた。
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