第36話 若様の決意
病院で目覚めた咲夜は、倒れてからの出来事を桐生院から説明された。
日鞠の血清で一命をとりとめたこと。
さらにはこれまでの症状も劇的に改善し、もう外を自由に出歩いても問題ないということ。
そして日鞠は一度は言い渡された解雇を理人から撤回されるも、そのまま宝城家を去っていったということ。
桐生院から話を聞き終えた咲夜は、自分の体が快癒に向かっている喜びよりも、なぜ、という気持ちのほうが大きかった。
なぜ日鞠は命を危険にさらしてまで、咲夜のことを助けようとしたのか。
なぜ日鞠は解雇を撤回されたのに、仕事を辞めてしまったのか。
次から次へと湧いてくる大小の疑問を抱えたまま、咲夜は退院して別邸に戻った。
香りの問題がなくなったとはいえ、本邸に帰る気にはなれなかったのだ。
けれど別邸に足を踏み入れた咲夜は、しんと体が底冷えするような感覚にとらわれた。
もともと広くて人の少ない家だ。
なのに一人いないというだけで、ぽっかりと大きな空洞が生じてしまったように感じられた。
部屋の中にいると違和感に耐えられなくなりそうだったので、咲夜は庭に面した縁側に出た。
立ったまま遠くに目を向けていたが、意識は目の前の景色を素通りし、なぜか日鞠のいる記憶の中の日常風景ばかり思い起こされた。
あいつは今、どこで何をしているのか。
ぼんやり考えにふけっていた咲夜は、すぐ近くに人がいることに気づかなかった。
「若旦那」
いきなり声をかけられ、咲夜はびくりと体を震わせた。
週に何度か見かける庭師の青年である。
驚いて硬直している咲夜に構わず、相手はぐいぐい話しかけてきた。
「倒れたって聞きましたけど、退院できたんですね。よかったです」
「あ、あぁ。ありがとう」
そう答えながら、咲夜は必死に相手の名前を思い出そうとしていた。
ほとんど会話したことがないので、すぐには名前が出てこない。
なんと言ったか。
たしか日鞠が……「颯太さん」と呼んでいた気がする。
そういえばいつも楽しそうに二人で話してたな、と思い出し、咲夜はちょっとむっとした。
「日鞠ちゃん、元気にしてますかね」
「さあ…な……」
咲夜は一瞬、日鞠を解雇した宝城家の一員として颯太から暗に責められているのかと思った。
けれど颯太の様子を見る限り、そんな気配は微塵もない。
他人が自分に対して悪意を抱いているとまず最初に疑ってしまうのは、改めなければならない悪い癖だと咲夜にも自覚はあった。
「あいつ…俺になんも言わないで消えたから」
咲夜にしては頑張って会話をつないだのだが、自分の言葉がどこか言い訳じみて聞こえはしなかっただろうか、と咲夜はひそかに心配した。
世の中の人間は、どうして他人とおしゃべりするなどという芸当が当たり前のようにできるのか。
自分の知らない特殊訓練でも受けているのだろうか。
顔をこわばらせている咲夜に対し、颯太はなんの気負いもなさそうに口を開いた。
「あれ? 日鞠ちゃん、実家に戻ってますよ?」
「そうなのか?」
何も知らなかった咲夜は、まじまじと颯太を見つめた。
日鞠のやつ、こいつには自分の行き先を教えたのか、と思うと、どういうわけか先ほどまでの反省気分はいっぺんに消し飛んだ。
「あいつ、俺には大事なことを何も話さないからな」
思わず低い声でつぶやくと、颯太は不思議そうな顔をした。
「俺も日鞠ちゃんから直接教えられたわけじゃないですよ。妹の風佳ちゃんから手紙をもらって、それで知ったんです」
「妹?」
なんで颯太が日鞠の妹と手紙でやりとりしているのか、さっぱり理由がわからない。
咲夜が怪訝な顔をしたからか、颯太が説明をつけ足した。
「俺、風佳ちゃんが退院した日に、日鞠ちゃんを駅まで送り迎えしたんで。その時、友達になったんです」
それを聞いてまず咲夜が思ったのは、自分の知らない間に日鞠はまた颯太と二人で出かけていたのか、ということだった。
以前、もう俺を置いて他人と二人きりで出かけたりしない、と約束したではないか。
正確には咲夜がそう主張しただけで、実際に日鞠が咲夜に対してそういう約束をしたという事実はないのだが、咲夜はすっかり約束をしたものと信じ込んでいた。
第一、外出の許可を出したのは自分なのに、そういう報告は事前にも事後にもなかった。
やっぱりあいつ、俺には大事なことを何も話さないではないか。
考えているうちに、咲夜はだんだんとむかっ腹が立ってきた。
「……おい、庭師」
「なんです?」
「手紙が届いたってことは、日鞠の実家の住所もわかるよな?」
「はい。ちょうど風佳ちゃんに返信出そうと思ってたんで」
「俺にもその住所を教えろ」
「はい?」
「あいつには言いたいことも聞きたいことも山ほどある。このまま引き下がってたまるかよ」
「若旦那、もしかして直接会いに行くつもりですか?」
颯太は驚いている様子だったが、桐生院にはもう外を自由に出歩いて問題ないと言われている。
行きたい場所などない。
そう思っていたのだが、外に慣れるにはちょうどいい機会だ。
咲夜は奮起した。
颯太はしばらく黙っていたが、おもむろに懐から一通の封筒を取り出し、咲夜に差し出した。
「それ、投函しようかと思ってたんですけど、よかったら若旦那が届けてくれますか?」
受け取った封筒を確認すると、表面には姉妹二人の名前と共に、住所も書かれていた。
「わかった。……ありがとう」
「日鞠ちゃん、泣いてましたから」
「え?」
咲夜が聞き返すと、颯太がすぐそばの部屋を指さした。
「若旦那が倒れて日鞠ちゃんが屋敷を出ていくまでの間に、俺、そこの座敷で日鞠ちゃんが畳の上に座っているのを見たんです。あなたの着物を膝に抱きかかえながら、ずっと泣いてました。俺、どうしても声をかけられなくて」
颯太はどこか寂しそうな笑みを浮かべると、挨拶をして立ち去っていった。
咲夜は自分の首筋に指先で触れてみた。
心臓が血液を送り出す小さな振動が伝わってくる。
日鞠にもらった血が、今も全身を巡っている。
どうしても日鞠に言いたいことが、言わなければならないことがあるのだ。
たとえ日鞠がもう咲夜に会いたくないのだとしても、このまま引き下がるわけにはいかなかった。
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