第34話 若様の病室で
心配停止した咲夜を発見してから三日後。
本邸からやってきた執事長に、日鞠はクビを言い渡された。
それを聞いても日鞠にはなんの感情も湧かなかった。
「今までお世話になり、ありがとうございました」
そう答えた声さえ、自分のものではないように、どこか遠くから聞こえてくるように感じられた。
「大丈夫ですか。これから行く当てはありますか」
自分のことを案じてくれている執事長に対して、日鞠はどうにか微笑みらしきものを浮かべてうなずいた。
風佳の治療の目途は立っている。
治療代に充てるため前借りしていた給金については返納の必要はないとのことだったので、それなら実家のある集落に戻っても慎ましく生活していけるはずだった。
それよりも日鞠が気にかかっていたのは、咲夜のことだった。
「あの、咲夜様のご容態は」
執事長は黙って首を横に振った。
「そう……ですか…………」
日鞠は畳の上に倒れている咲夜を見つけた時のことを思い出した。
慌てて駆け寄り咲夜の体を揺さぶったが、反応はなく、肌が異常に冷たかった。
すぐに佐々木さんの家に走って桐生院に連絡をすると、ほどなくして搬送用の緊急車両が到着し、咲夜は病院に運ばれていった。
それから今日までの間、自分がどうやって過ごしていたか、日鞠は完全に記憶が飛んでいた。
ただ、ずっと咲夜の青白い顔がまぶたに焼きついていて、片時も離れなかった。
執事長が帰った後、日鞠はのろのろと身の周りの物を整理して荷物をまとめると、佐々木さん夫婦の家へお別れの挨拶をしに寄った。
二人とも顔を曇らせ、佐々木さんは駅まで車で送っていこうと言ってくれたが、日鞠は丁重にそれを断った。
本当は颯太にも挨拶をしたかったが、いなかったので代わりに佐々木さんに言づてを頼み、日鞠は屋敷を後にした。
麓までの長い坂道を下ると、日鞠が向かった先は駅舎ではなく、咲夜の搬送先の病院だった。
以前、桐生院から念のためにと名前と所在地だけは教えられていた。
市街地を走る路面電車を何本か乗り継ぎ、病院の受付で面会を申し込むと、夕方の面会時間の終了前だったが、日鞠は面会を断られた。
「特別病棟の患者様なので、許可のある方以外は面会できません」
せめて最後に一目だけでもと思い、病院を訪れた日鞠だったが、それもかなわなかった。
もしこのまま、自分が知らないうちに咲夜にもしものことがあったら。
そんな想像をしてしまい、足が綿を踏んでいるような心地で受付から出口に向かって歩いていると、正面玄関の大きな扉の所で、思わぬ人物と出くわした。
「玲司様」
日鞠が頭を下げると、玲司も立ち止まった。
「咲夜の見舞いに来たのか」
「はい…お会いできませんでしたが」
玲司は口をつぐむと、日鞠のことを試すようにじろりと眺めた。
「一緒に来るか? 人工呼吸器をつけて意識はない状態だが」
日鞠は咲夜の青白い顔を一瞬思い出したが、すぐにうなずいた。
解雇されたので、これが咲夜に会える最後の機会だった。
「ついてこい」
日鞠はきびすを返すと、速足で歩き出した玲司の後を追った。
エレベーターに乗って地下二階まで下り、警備員の立っている扉を抜けると、そこは日鞠が知っている他の病院とはどこか様子か違っていた。
通路に患者や家族の姿はなく、座るための椅子や壁の絵なども見当たらず、ひたすら無機質な空間だった。
黙って玲司の後ろを歩いていた日鞠だったが、途中、玲司はすれ違った白衣の男性に話しかけられた。
白衣を着ていたが、どうも医者というより研究者のような風情だった。
仕事の話なのか、しばらく立ち話が続きそうだったが、玲司は一度話を中断すると、日鞠に話しかけた。
「咲夜はまっすぐ行って角を右に曲がった手前の個室にいる。先に行って中に入っていていい」
「わかりました」
日鞠は玲司から教えられたとおりの場所まで来ると、扉の取っ手を回したが、中から声が聞こえたので、ぴたりと動きを止めた。
「咲夜くんの組織から抽出したろ過液を青空さんに注射して、もしそれで彼女が免疫を獲得できればあるいは」
「馬鹿なこと言わないで! まだ分泌毒素の致死量も確認できていない状況で、それは絶対に認められない。もしヒマリが感染して発症したら、取り返しのつかないことになる」
桐生院とアンジュの声だった。
「でも急がないと咲夜くんの命が。それに彼女は咲夜くんに対して耐性があります。数万倍の濃度に希釈して微量から始めれば」
「わかってる。でもそれだと時間が……」
二人とも、苦渋に満ちた声で議論をしていた。
日鞠は音を立てないようにそっと扉を閉めると、通路を引き返した。
角を曲がった所で、歩いてきた玲司とぶつかりそうになった。
「なんだ、先に入ってなかったのか」
「玲司様。ろ過液を注射して免疫を獲得って、どういう意味でしょうか」
玲司はけげんな顔をした。
「誰からそんな話を聞いた。桐生院か?」
日鞠はあいまいにうなずいた。
「少量の毒素を繰り返し注射すると、注射を打たれた実験動物の中には、毒素に対して免疫を獲得する個体が現れる。その個体の血清は、症状を引き起こす毒素を解毒することができる」
「それって……」
「中毒症状を発症した患者にとっての特効薬だ」
日鞠は息をのんだ。
玲司が咲夜の病室に向かったので、日鞠もその後に続いた。
玲司は躊躇なく扉を開けて中に入ったので、先ほど聞こえていた喧々諤々の議論はぴたりとやんだ。
「レージ。それにヒマリも」
アンジュは日鞠に微笑んでみせたが、その顔はひどくやつれていた。
「ずいぶんと変わった組み合わせですね」
桐生院もほとんど寝ていないのか、目の下が墨を塗ったように黒ずんでいた。
「入り口の所で会ったから連れてきた。別に構わないだろう」
桐生院と玲司が話している間、日鞠はふらりとベッドに近づき、咲夜の顔をじっと見つめた。
体中に管をつながれた咲夜の姿は、予想以上に日鞠を動揺させた。
『泣くほど嫌か?』
――怖かったけど、嫌じゃなかった。
『私が咲夜様の気持ちを理解できなくても、たとえ咲夜様が私のことを突き放したくなったとしても、おそばにいます。独りにはしません』
そう自分で約束したのに、きっと一番離れてはいけない瞬間に、日鞠は約束を違えてしまったのだ。
『頼むから一人にしてくれ』
記憶の中の咲夜の声が、日鞠を責める。
思わず咲夜から目をそむけると、ベッド横の台の上に、銀のトレーに置かれた注射器を見つけた。
注射器の筒には、赤い液体が入っている。
風佳の経験があったので、日鞠はそれが咲夜から採血したばかりの注射器だと察しがついた。
ほとんど無意識のまま、日鞠はトレーへ手を伸ばした。
「ヒマリっ、あなた何をっ」
アンジュの声に、桐生院と玲司が同時に日鞠を振り返った。
「来ないでくださいっ」
日鞠がトレーからつかみ取った注射器の針先を向けると、三人はその場で凍りついたように動きを止めた。
「可能性はゼロじゃないんですよね……?」
日鞠は三人の顔を順番に見渡した。
「青空さん、まさかさっきの会話を聞いて」
桐生院がどこか焦ったように上ずった声を出した横で、玲司が盛大な舌打ちをしていた。
「ヒマリ、落ち着きなさい。今すぐその注射器を置いて」
アンジュがベッドの反対側から、いつになく強い語調で日鞠をいさめた。
「青空さん。それをこっちに渡して」
桐生院も片手を差し出しながら、慎重に少しずつ近づいてくる。
日鞠もじりじりと後退し、やがて後がなくなり、背中が部屋の隅の壁についた。
その瞬間、日鞠は周囲に向けていた注射の針先を思いっきり自分の左腕へと突き立てた。
「ヒマリっ」
アンジュが悲鳴のような声をあげた。
桐生院がとっさに日鞠に近づいて注射器を奪い取ったが、筒の中身の血液は全て注入した後だった。
日鞠はその場で膝をついて、頭を下げた。
「お願いします、どうか咲夜様の薬を作ってください」
「なんて馬鹿な真似をっ……」
桐生院のつぶやきが、水を打ったように静まり返った病室の中で大きく響いた。
日鞠はそのまま動かず床を見つめ続けていたが、急激に意識がもうろうとしてきた。
体が崩れ落ちそうになったその時。
「これは一体なんの騒ぎだ」
聞き慣れない声に顔を上げると、本邸で一度だけ見かけたことのある男性が立っていた。
「リヒト。あなたどうしてここに」
アンジュはやや驚いた口調だった。
「時間が少しできたから様子を見に寄っただけだ。それより玲司、状況を説明しろ」
玲司は理人になにやら話していたが、日鞠は体が熱で浮かされたようになっていて、よく声が聞き取れなかった。
「お願いします。どうか咲夜様の薬を…………」
日鞠は手をついて理人を見上げながら、そうつぶやくのが精いっぱいだった。
理人は感情の読み取れない目で日鞠のことを見下ろしていたが、やがて後ろにいる他の三人に顔を向けた。
「責任者が三人もいて、なぜぼんやりと立っているだけなんだ。一秒たりとも時間は無駄にするな。ここは戦場だぞ。ほんの一瞬の遅れが命取りになる」
理人の声に、一番最初に反応したのはアンジュだった。
「……言ってくれるじゃない」
アンジュは部屋に備えつけの電話の受話器を取ると、どこかへ指示を出し始めた。
桐生院と玲司も動き出し、にわかに部屋の中が慌ただしくなる。
「ありがとう……ございます…………」
日鞠は理人に頭を下げた。
「言っておくが、責任は取れんし約束もできないぞ」
「はい……」
うなずくと、もう日鞠はそれ以上腕で体を支えていられなくなった。
意識が混濁し、視界が暗転していく。
――風佳、勝手なことしてごめん。許して……
心の中で謝ると、そのまま日鞠は意識を手放した。
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