第32話 歌とラムネと

窓辺の椅子で背もたれに体を預けてまどろんでいた風佳は、かくんと首が揺れた拍子に目を覚ました。


昼食を食べた後、うとうとしてしまったらしい。


風佳は椅子から立ち上がると、大きく伸びをした。


日鞠から「一人で外を出歩くな」と言われていたので、窓の外を眺めるくらいしかすることがなかったが、朝からずっと見続けていればさすがに飽きてしまう。


日鞠のそばにいられるのは嬉しかったが、日鞠は仕事があるので夜までは一人だ。


風佳は窓に向かって好きな歌を口ずさみ始めた。


療養中に一人でいると、空白の時間に押しつぶされそうになることが時々あった。


そんな時は歌を聞いたり歌ったりした。


そうすれば、不安や虚無感の沼に引きずり込まれずに済んだ。


風佳にとって、歌は希望の調べそのものだった。


無心のまま一曲歌い終えると、少しだけ開いていた窓の外から、パチパチパチと拍手の音が聞こえてきた。


誰だろう、と風佳は窓を大きく開けて顔を突き出した。


「あ、昨日のお兄ちゃん」


「きれいな声が聞こえてきたから、呼び寄せられちゃった」


窓のすぐ横の壁際に立っていた颯太は、にかっと笑った。


風佳はなぜかどぎまぎした。


「風佳ちゃんはまだしばらくここにいるの?」


颯太の問いかけに、風佳は慌てて首を横に振った。


「明日の午後、駅舎に叔母さんが迎えに来てくれるの」


風佳は日鞠に聞いたとおりに説明した。


駅舎までは管理人さんが買い出しに行くついでに送り届けてくれるらしい。


その管理人さんには申し訳ないことだが、車で送ってくれるのが颯太ではないと知って少しがっかりした気分になってしまったので、こうして颯太ともう一度会うことができて風佳は嬉しかった。


「そっか。俺、明日はこっちに来ないから、今日でお別れか」


颯太は残念そうに肩を落としていたが、急に何か思い出したように作業着のポケットをがさごそと探り始めた。


「あ、あった! はい、これあげる」


颯太が差し出した物を両手で受け取った風佳は、あ、と声をあげた。


「ラムネ!」


手のひらには、きれいな色の透明フィルムに包まれたラムネ菓子が数個置かれていた。


「最近の俺のお気に入りのおやつなんだ。本当はお花あげたいんだけど、今は切り花に向いてない花しか咲いてないんだよね。ハスとかスイレンとか」


颯太がいかにも悔しそうだったので、風佳はくすくす笑った。


「私、ラムネ好きだよ」


「そっか。そうだよね」


颯太は合点がいったように目を見開いていた。


「どうしたの、お兄ちゃん?」


「ううん、なんでもない」


颯太がとても優しそうな笑みをふっと浮かべたので、風佳は再びどぎまぎしてしまった。


「じゃあ俺そろそろ行くね。今度会った時は、風佳ちゃんがびっくりするような花束あげるから」


颯太は手を振りながら庭に戻っていった。


風佳も手を振り返し、颯太の姿が見えなくなってから窓を閉じた。


手の中にはもらったばかりのラムネ菓子がある。


一個だけフィルムをはがして口に入れると、ラムネの粒は舌の上ですぐに溶けて、甘酸っぱい味が口中に広がっていった。

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