第29話 研究室の風景<桐生院のメモ3>

仕事の休み時間、桐生院は辞書を片手に洋書を読んでいた。


といっても、内容は仕事に関連する最新の研究データや論文ではなく、レシピ本だ。


なぜ桐生院がお門違いの本をわざわざ読んでいるかといえば、日鞠の外国語学習の動機が「レシピ本を読めるようになりたい」だからだ。


アンジュの持っていた本の中の洋菓子を作れるようになりたいらしい。


最初に本人からそう聞いた時、その洋菓子の作り方をアンジュに尋ねればいいのではないか、と桐生院は思ったのだが、日鞠の考えは違っていた。


『もちろん知っている人から直接作り方を教えてもらえばその料理は作れるようになるんですが、作り方が自分でわかれば、もっとたくさんの料理が作れるようになるかなと思って』


それを聞いて桐生院は「なるほど」と思った。


問題の答えそのものではなく、問題の解き方を身につけたい、というわけだ。


アンジュも日鞠のその考え方に共感したから、わざわざ自分に日鞠の家庭教師をするよう頼んできたのだろう。


件のレシピ本もアンジュは日鞠に譲ったそうだ。


もちろん桐生院にも日鞠を応援したい気持ちはあるので、レシピ本を日鞠からいったん預かり、こうして仕事の合間にちまちま読み進めて予習しているのだった。


料理の作り方は知らないが、きっと実験の手順書と似たようなものだろうと考えて気楽な気持ちで読み始めたところ、これがなかなか難しかった。


ガスバーナーを使った回数は多くても、ガスコンロの前に立った経験はほぼ皆無である。


料理の知識や専門用語を知らないので、単純な構造の文でもしょっちゅうつっかえてしまう。


調理や製菓の内容に特化した専用の辞書が必要かもしれない。


桐生院は時間を忘れて思わず没頭しかけたが、午後の始業を告げるチャイムの音で現実世界に引き戻された。


いけないいけない、と桐生院は本を閉じた。


机の上を見渡せば、本来の仕事が山積している。


本を置いて桐生院が手を伸ばしたのは、アンジュから送られてきた日鞠の身体検査に関する詳細な分析結果だった。


アンジュの肩書は宝城製薬が出資している研究財団の上級フェローであり、普段は都心から離れた研究施設に勤務している。


施設の近くに洋館を借りて通いのメイドを雇い、職場と家を往復する毎日だとアンジュからは聞いている。


桐生院と似たり寄ったりの生活だ。


ちなみに玲司の話によると、アンジュは宝城家を出ていく時、もし理人が研究施設や住まいに勝手に近づいたら即刻籍を抜く、と脅したらしい。


桐生院は既に何度も読んだ分析結果を読み返していた。


アンジュのにらんだとおり、日鞠の身体検査の解析によって、咲夜の特効薬を作れるかもしれない可能性は一つ見つかっていた。


けれどアンジュはその方法を決して選ばないだろうと桐生院は思っていた。


たとえ愛する咲夜のためであったとしても。


人を助けるために薬を作るのであって、薬のために誰かを犠牲にしたり危険にさらすようなことは決してしない。


アンジュから胸に刻まれた教えの一つだ。


やはり咲夜の治療はこれまで通りの方法で継続していくしかないだろう。


幸い、少し前に臨床検査を行った試薬については、症状を抑え込む効果があると本人の体で実証済みだ。


遅々とではあるが、前進はしているのだ。


咲夜もよく耐えている。


時々爆発はしているようだが、ただでさえ血気盛んな年頃だ。


桐生院個人としては、まぁ許容範囲だろうと思っていた。


近くでしょっちゅう爆発に巻き込まれている日鞠には気の毒な話だが。


桐生院はふと、アンジュは検査結果について日鞠にどう伝えるつもりなのだろう、と思った。


アンジュの性格からして、協力してもらった日鞠に対して、なんらかの形で結果を報告するはずだ。


咲夜の特効薬を作る可能性は見つからなかったと伝えるのか、それともありのままを伝えるのか。


いずれにせよ、特効薬を作る見込みがないと知れば、あの少女はたいそう気落ちするだろうと思われた。

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