第27話 若様に言えないこと
採寸中に部屋を飛び出した日鞠は、ものすごい速さで庭を横切っていた。
さっきのは事故だ。
日鞠も咲夜もどちらも悪くない……はずだ。
だけど咲夜にあんな顔を見せられ、おまけに香りがいきなり強く漂ってきたので、つられて日鞠も動揺してしまっただけだ。
火照った顔を両手で押さえながら、桐生院が以前「ストレスが強くなると香りがきつくなる」という意味合いのことを言っていたのを思い出した。
立ち止まり、自分の胸を見下ろしてみる。
「…………」
咲夜は日鞠の胸に触ったのがストレスに感じるほど嫌だったのだろうか。
どうにも納得のいかない気分で離れに向かって歩ていると、「青空さーん」と大声で呼び止められた。
裏口の外から佐々木さんが手招きしていたので、日鞠は近づいていった。
奥さんに頼まれていた採寸の件かと思ったが、そうではなかった。
「さっき青空さん宛に病院から電話があったんだ。妹さんの件でと言っていたから、すぐに知らせたほうがいいと思ってね」
日鞠は目を見開いた。
電話は佐々木さんの家にあるので、かかってきた用件はすべて佐々木さんに取り次いでもらう形になる。
病院からの電話ということは、風佳に何かあったのだろうか。
「電話、今からお借りしに行ってもいいでしょうか」
「もちろんだよ。すぐにかけてあげなさい」
妹の事情はあらかじめ伝えてあったので、佐々木さんは親身になってうなずいてくれた。
病院に電話をかけた後、日鞠は呆然としながら屋敷に戻った。
とりあえず仕事をしなければと頭では理解しているのに、自分が何をしているのかまったくわからない。
おぼつかない足で母屋の廊下を歩いていると、後ろから「おい」と咲夜の声がしたので足を止めた。
「さっきのことだけどな」
咲夜は言いにくそうに話し始めたが、日鞠はまだ心ここにあらずの状態だった。
咲夜が何か話そうとしているのに、言葉が頭に入ってこない。
日鞠が返事もせずに背中を向けたままつっ立っているだけなので、咲夜も不審に思い始めたようだった。
「おい、聞いてるのか」
「はい」
「聞いてないだろ」
「はい」
「…………。とりあえずこっち向けよ」
のろのろと振り返ると、咲夜が息をのんだ。
「おまえ、泣いてるのか?」
「え?」
日鞠が顔に手を触れると、頬に涙の筋ができてきた。
自覚した途端、目に涙が盛り上がり、こぼれ落ちてくる。
「すみませんっ」
日鞠は両手で顔を押さえると、咲夜の前から走り去った。
「……泣くほど嫌だったのか? 俺に触られたの」
そうつぶやいて咲夜が己の手のひらをまじまじと見つめたことなど、日鞠は知る由もなかった。
外に飛び出し、涙で視界が曇ったまま闇雲に走っていた日鞠は、どん、と派手に何かにぶつかった。
「うわっと。って、日鞠ちゃん!?」
日鞠は前を歩いていた颯太に激突し、派手に尻もちをついた。
「大丈夫っ?」
颯太は担いでいた仕事道具を地面に下ろすと、日鞠に手を差し出した。
のろのろとその手をつかむと、颯太は手を引っ張って日鞠を立たせた。
「どうしたの。もしかして俺にぶつかってどこか怪我でもした?」
日鞠が泣いてるのを見て颯太が慌てた。
「ち、ちが。そうじゃないんです……」
泣かないように話そうとして、日鞠の声が上ずった。
「い、妹が……もうすぐ、退院できるかもしれないって……」
そこまで言うと、日鞠はもうそれ以上話すことができず、代わりに大声で泣き出してしまった。
みっともないとわかっているのに、嗚咽が止まらない。
颯太は日鞠の肩を抱き寄せると、子どもをあやすような手つきで背中をゆっくりたたいてくれた。
「そっか、よかったね」
頭上から優しい声が聞こえてくる。
「ず、ずびばぜん」
颯太の胸元がぬれてぐしょぐしょになってしまっていたが、ちっとも涙が止まらない。
こんなふうに泣いたのは久しぶりで、涙腺が壊れておかしくなっているみたいだった。
いい加減、泣き止まないといけないのに。
さっき咲夜を驚かせたまま逃げ出してきてしまった。
まだ治療中の咲夜には、聞かれても泣いてる理由を言えない。
だから泣き顔も見せられない。
日鞠は一生懸命に涙を止めようとしていたが、そのすぐ近くの木陰に咲夜がずっと立っていたことなど、やはり日鞠は知る由もなかった。
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