第25話 成長期の若様
「おまえ、俺に隠れて何かこそこそやってないか」
咲夜の部屋にお茶を運んだ日鞠は、咲夜から不意にこんな言葉をかけられ、危うく湯飲みを落としそうになった。
「な、なんのことでしょう?」
「母さんがおまえを連れ出して何度も出かけてるだろ。あの人、ああ見えて仕事の虫だぞ。毎回デートだのなんだのと言ってるけど、本当にそうなのか?」
咲夜がじいっと日鞠を見つめた。
「い、いやぁ。私にはなんとも……」
日鞠は精一杯笑顔を取り繕ったが、そんなもので納得するような咲夜ではなかった。
わざわざ立ち上がって日鞠の目の前に移動し、顔をのぞき込んできた。
「視線が泳いでるぞ。ちゃんと俺の目を見てはっきり答えろ」
視線の圧に耐えられず、思わず後ろに腰を引いて距離を取ろうとすると、咲夜は疑念を深めたのか、ますます顔を近づけてきた。
日鞠の腹筋と背筋では反り腰の体をこれ以上支えられない、となった時、すぐ後ろのふすまが開いた。
「おや。取込み中だった?」
「桐生院先生!」
助かった、とばかりに日鞠は手をついて立ち上がった。
「お出迎えもせず、申し訳ありません」
「いいよ、そんなに気にしなくて。手一杯だったんだろうし」
桐生院が咲夜に目を向けると、咲夜が不機嫌そうな声を出した。
「人の部屋に、というか人の家に勝手に入ってくるな」
「いつもの往診ですよ。それに立ち往生してたら管理人さんが中に入れてくれたんだよ。じゃあ診察を始めようか」
桐生院が咲夜に気づかれないよう日鞠にそっと目配せした。
日鞠は部屋を出ると、大きく息を吐き出した。
危ないところだった。
もし咲夜にうっかり口を滑らそうものなら、いろいろとバレてしまう。
アンジュに協力することを決めた日鞠は、今日までの間に、病院でさまざまな検査や血液採取を何度か行っていた。
アンジュがそれをこれから解析するのだという。
うまくいくかは調べてみないとわからないので、咲夜にはまだ何も話せない状況だった。
小一時間ほどすると、診察を終えた桐生院が台所に顔をのぞかせた。
ちょうどお茶の準備ができたところだったので、いつもの客間に案内すると、桐生院が日鞠にも座るよう勧めた。
「アンジュ先生から青空さんの外国語の勉強を手伝ってあげてほしいって頼まれてるんだけど、もう少し詳しく話を聞かせてもらってもいいかな?」
日鞠は以前アンジュと交わした会話を思い出した。
ホテルの喫茶店で話した時、もし日鞠がアンジュに協力すれば、今の仕事とは別で報酬を支払う、とアンジュからは言われていた。
そこで後日電話でアンジュに協力を申し出た際、日鞠は報酬の代わりに「外国語を教えてほしい」と頼んでみたのだ。
アンジュは最初驚いていたが、日鞠が「外国語で書かれた料理本を読めるようになりたいんです」と打ち明けると、親身になって話を聞いてくれた。
「そういうことならもちろん協力するわ、ヒマリ。でも報酬は別で受け取ってちょうだい。あとレクチャーの方法については少し考えさせて」
アンジュからはそう言われていたのだが、実際には桐生院が教えてくれるということなのだろうか。
日鞠が事情を説明すると、桐生院は納得した様子だった。
「アンジュ先生は数か国語しゃべれるけど、勉強して身につけたというより、育った環境で自然と話せるようになっていたタイプの人だからね。僕は後天的に学習して身につけたクチだから、たしかに青空さんに教えるなら僕のほうが向いてるかもしれない。ちなみに外国語の勉強をするのはまったく初めて?」
「はい」
日鞠は緊張気味にうなずいた。
「じゃあまずは基本的な文法から始めるのがいいのかな。一応教材はいくつか見繕って持ってきてるんだ。僕のお古で申し訳ないんだけど」
「そんな。ありがとうございます」
日鞠は頭を下げた。
それから今後の学習の進め方について話をして、往診の後に桐生院が日鞠に授業を行い、毎回宿題を出す。
その宿題を次の往診日までに日鞠がこなし、わからなかった部分は桐生院が説明してから次に進む、という形になった。
この日はやり方だけ決めるのかと思ったが、桐生院はさっそく一項目だけ授業をしてくれた。
必死に説明を聞いていたが、宿題をこなせるかどうか、まったく自信はなかった。
そんな日鞠の不安を見抜いたのか、帰り際に桐生院は日鞠にこんな助言をくれた。
「焦っちゃだめだよ。勉強も治療と同じ。人と比べないで、粘り強く取り組んでいこう」
「はい」
日鞠はもらった教材をぎゅっと胸に抱いた。
桐生院を見送って母屋の中に戻ると、咲夜が玄関前の廊下に立っていた。
「ちょうど今、桐生院先生がお帰りになりました」
そう言って咲夜のそばを通り過ぎようとすると、咲夜が壁に手をついて日鞠の行く手をふさいだ。
え、と思って咲夜を見ると、咲夜は鋭いまなざしを日鞠に向けていた。
「どうして診察が終わって一時間以上も経ってから桐生院が帰るんだよ。やっぱり何か隠してるだろ」
すっかり先のやりとりを忘れていた日鞠だったが、持ったままの教材をつい反射的に背中の後ろに隠した。
「今、後ろに隠したのはなんだ」
「な、なんでもありませんよ」
ハハ、と笑いながら、咲夜にふさがれていないほうへ壁に沿って横向きに足を踏み出そうとすると、今度はそちら側を咲夜がドンとかかとでふさいだ。
着物を着ているせいもあり、大変にお行儀の悪い格好になっている。
文字通り咲夜に体で囲われた日鞠は、これ以上くっつけられないというくらい体を壁にぴたりと寄せた。
教材を見られたら、咲夜に問い詰められて、芋づる式に洗いざらい吐かされてしまいそうである。
互いの息がかかりそうなくらい至近距離まで追い込まれた日鞠だったが、ふとあることに気づいた。
「咲夜様、もしかして背が伸びましたか?」
「え?」
「ほら、だって前より目線が高くなってますもん」
以前も咲夜のほうが身長は高かったが、見上げた時の首の傾斜はもう少し緩やかだったはずだ。
もしかしたら咲夜は成長期真っ盛りなのだろうか。
急に別の話題を持ち出されて咲夜は驚いたのか、壁についていた手と足を下ろした。
心なしか表情もちょっと嬉しそうである。
その一瞬の隙を逃さず、日鞠は脱兎のごとく逃げ出した。
「あ、待て。話は終わってないぞ」
「夕食の準備がありますので! お話はまたその時に!」
日鞠はなりふり構わず台所へ駆け込み、手にしていた教材を棚に隠した。
後できっとまたいろいろ聞かれるだろうが、物的証拠を押さえられるよりはマシなはず、と思うことにした。
それにしても、新しいことを始めるのがこんなにも大変だったとは。
勉強する内容も難しそうだし、千里の道も一歩から、どころか、万里の道になりそうだ。
やはり無謀だったかな、と弱気になりかけたが、いやいや、と日鞠は首を横に振った。
まだほんの始まったばかりだ。
それに自分でやると決めたのだ。
できるかどうかはさておき、とりあえず弱音を吐くのはもう少し後からでも遅くはない。
日鞠は両手で頬をぱちんと叩き、己にハッパをかけた。
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