第20話 水したたる若様

本邸から帰った翌日の午後、庭を横切っていた日鞠は、髪を束ねていたリボンが取れかかっているのに気づいた。


立ち止まり、しっかり結びなおそうと一度リボンを外したのだが、ちょうど風が強く吹いて、日鞠の手からリボンをさらっていった。


「あっ」


日鞠は走って追いかけた。


ひらひらと空へ舞い上がったリボンは、池のほとりにつながれていた小舟の舳先に引っかかって動きを止めた。


しかたなく、日鞠は舟に乗り込んだ。


すだれのかかった縦長の荷物が底板に置かれていたので、踏まないようにそっと足を下ろしたが、それでも舟はぐらぐら揺れた。


へりに手をかけ、身を乗り出してリボンをすくい上げると、日鞠はほっと息をついた。


数少ない持ち物の中で、たった一つの装身具である。


丁寧に小さく丸めて胸元にしまい、陸へ戻ろうと片足を上げたところ、荷物がむくりと大きく動いた。


「日鞠か?」


「きゃっ」


急に声をかけられ、日鞠は姿勢をくずした。


足元がぐらりと揺れて、背中から倒れそうになったが、体を打ちつける寸前、荷物にかかっていたすだれの下から両腕がさっと伸びてきた。


荷物かと思いきや、舟に横たわっていたのは咲夜である。


「咲夜様っ?」


「おい、揺れるから動くな!」


一喝され、日鞠はぴたりと動きを止めた。


抱きかかえられたまま身を固くしていると、次第に舟の揺れがおさまってきたので、日鞠はそろそろと咲夜から体を離した。


「ありがとうございます、助かりました」


「おまえはまた何をやってる」


「リボンを飛ばしてしまって……咲夜様は、なぜここに?」


「最近ずっと部屋の中にこもってたからな。たまには外で過ごしてみたくなった」


確かに咲夜は本邸にいた間、部屋からほぼ一歩も出ていなかった。


「お邪魔してしまいましたね。すぐにどきますので」


「ちょっと待て。俺も部屋に戻る」


咲夜はそう言って先に立ち上がると、陸にぽんと飛び移り、日鞠にむかって手を差し出した。


「案外そそっかしいからな、おまえは」


「そんなことは」


「あるだろ。さっきも」


日鞠はぐっと言葉につまった。


助けられたばかりなので、反論しても今は信ぴょう性があまりない。


ありがたく咲夜の手を右手でつかむと、なにやら胸元でもぞもぞと変な感触がした。


「え、なにっ!?」


びっくりして空いていた左手で着物の襟もとを広げると、中から蛙がびょんと飛び出し、咲夜をめがけて大きく跳躍した。


「うわっ」


驚きの声をあげた咲夜の額を一蹴りしてから、蛙はポチャンと池に帰っていったが、咲夜に半分体を預けていた日鞠は、再び舟の上でぐらぐらと姿勢をくずした。


咲夜が思いっきり日鞠の手を引いたが間に合わず、ボシャンと大きな音をたてて、二人仲良く池に落ちた。





池はそれほど深くはなく、濡れそぼった状態で地面に這い上がると、日鞠と咲夜はその場でぜぇぜぇと息をついた。


「くそっ、蛙め」


「咲夜様、大丈夫ですか」


座り込んだまま隣の咲夜に顔を向けると、咲夜は日鞠を見て、なぜか突然大きな声で笑いだした。


「おまえ、その頭」


笑いながら咲夜が指さしたので、なんだろうと頭に手をやると、大きな水草が頭にひっついていた。


はずしても、咲夜はまだ笑っている。


そんなに変だったのだろうかと思ったが、日鞠にも笑いが伝染してしまい、よくわからないまま大笑いしているうちに、ようやく笑いの発作が二人ともおさまった。


「すっかり濡れちゃいましたね。替えの着物、お部屋にお持ちしますね」


ほぼ同時に立ち上がりながら咲夜にそう言うと、咲夜は何か言いかけて、急に日鞠から顔をそむけた。


「俺の着物より、自分のを先になんとかしろ」


それだけ言って、咲夜は先に行ってしまった。


どうしたのだろうと不思議だったが、自室に戻って鏡を見た日鞠は、自分の姿に驚愕した。


濡れて着物が透け透けである。


声にならない悲鳴をあげながら、日鞠はしばしの間うずくまって悶絶していた。

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