第17話 寝室にて

玲司が『誰も近づくな』と命じたアンジュの部屋では、久しぶりに夫婦の熱い会話がかわされていた。


「どうしてあなたがここにいるのよ!」


「ここは俺の家だ」


「だって出張中でしょ!」


「残念だったな。予定を早めて帰ってきた」


「裏切ったわね、レージっ……」


アンジュは長男が自分ではなく理人の味方をしたことに歯がみした。


「そんなに俺と顔を合わせるのが嫌か」


「当然でしょ。あの時、絶対に許さないって言ったはずよ」


アンジュは理人をにらみつけた。


玲司の婚約者が咲夜の香りに我を失い、あやうく取り返しのつかない事態になりかけたことがあった。


すんでのところで大事には至らなかったが、婚約は破棄。


痛ましい出来事だったが、アンジュを激怒させたのは、その後の展開だった。


理人は相手側の親と取引をし、娘の不祥事を黙殺する代わりに、宝城製薬に有利な条件で業務提携の話を進めたのだ。


「あの件は玲司も納得している。むしろ相手に貸しを作ることができて、結婚するより役に立ったと本人は考えているようだぞ」


「玲司が納得しても、あなたは納得しちゃダメでしょう! それに咲夜の気持ちはどうなるのよっ」


「なにがそんなに気に入らない。俺が息子たちのことで悩みもしなかったとでも? 俺が判断一つ間違えれば、従業員が路頭に迷いかねない。咲夜には辛い経験だったろうが、逆にいつ何時でも警戒を怠ってはいけないという教訓になった」


アンジュはかっとなって理人の顔を引っぱたいた。


この男と話していると、どうしても理性より感情が勝ってしまう。


理人は顔色一つ変えていないというのに。


どうしてこんな男と結婚してしまったのだろう。


人生振り返れば、見えてくるのは山のような後悔と失敗ばかりだが、中でも理人の存在はその山の頂で燦然と黒光りを放っている。


もちろん息子二人はアンジュにとってかけがえのない宝物だが、それとこれとは話が別だ。


「気は済んだか?」


理人は叩かれた拍子に顔からずれた眼鏡を外しながらアンジュに尋ねた。


眼鏡のフレームを折りたたんでスーツのポケットにしまう仕草さえ、アンジュのことをいらいらとさせる。


そう、この男は、どんな時でもなすこと全てがちまちまと細かかった。


「……こんなんで済むわけがないでしょう」


アンジュは理人をにらむと、部屋に広げていた荷物をかばんの中にしまい始めた。


「おい、なにをしている」


「今日はここに泊まるつもりだったけど、やっぱりすぐに出てくわ」


「こんな時間にか。外はもう暗い。やめておけ」


「冷血漢のそばにいるよりはマシ」


「アンジュ!」


理人がアンジュの手首をつかんだ。


突然の大声に、思わずアンジュの体が硬直する。


「君は俺に心がないと、本当にそう思っているのか? 君がいなくなって、傷つかなかったとでも?」


理人がじっとアンジュを見つめた。


本当に、頭にくる。


理人にも、自分にも。


絶対に許すものかと思っていたのに。


今この瞬間も許してはいないのに。


なのにどうして、私のこの両腕は、目の前の男を抱きしめようとしているのだろうか。


両手を握りしめて必死に衝動をこらえていると、理人に体ごと引き寄せられ、抱きすくめられた。


アンジュの体の芯が熱く震える。


それでもとっさに口をついて出たのは、体の反応とは真逆の言葉だった。


「ちょっと離しなさいよっ」


「嫌だ」


そう言って、理人はますますアンジュのことを強く抱きしめてくる。


本当にいまいましい。


アンジュはうなった。


「怒るわよ」


「嘘だ。君が本当に嫌がることはしないが、今は嫌がる振りをしているだけだろう」


かっとなって、もう一度理人を引っぱたこうとしたが、今度は片手であっさり止められた。


「どうして止めるのよっ。ぶたれないさよっ」


「断る。一度目のは甘んじて受け入れたが、これはただの八つ当たりだ」


本当の本当に頭にくる。


一昔前だったら、悔しくて涙を浮かべていたかもしれない。


今は死んでもそんな醜態をさらしたりはしないが。


理人はアンジュの耳元に顔をよせた。


「君がいない間、君のことを想わない日は一日とてなかった。アンジュ、愛してる。今も昔も、そしてこれからも」


そうささやくと、そのまま唇をアンジュの首筋へと滑らせた。


アンジュの口から、思わず熱い吐息がもれる。


だからそばにいるのは嫌なのだ。


この男と話していると、どうしても理性より感情が勝ってしまう。


アンジュは理人を抱きしめ返すと、そのまま絡まり合ってベッドの上へ倒れこんだ。

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