第16話 若様のご両親

検査の翌日、咲夜は一日中憤っていた。


朝、試薬の検査も終わったから別邸に帰ると宣言し、玲司にすげなく却下されたせいだった。


「なにが『わがままを言うな。こちらにも都合というものがある』だ。そっちの都合しか考えてないくせに」


日鞠が夕食のトレーを下げにきた時も、咲夜はまだ文句を言っていた。


怒りすぎは体によくない。


「玲司様にも何かお考えがあるのかもしれませんよ」


日鞠は咲夜の怒りを和らげようとしてみたが、その一言は火に油を注いだ。


「あいつの肩を持つなっ。もう十日もこっちにいるんだぞ。十分だろ。父親が出張から戻ってくる前に絶対にここを出ていってやる」


咲夜の父親を日鞠はまだ見たことがない。


今は出張中で不在だと聞いているが、咲夜はよほど父親に会いたくないのだろうか。


玲司ともあまり仲がよさそうではないし、日鞠が心配してもしょうがないのだが、やはり気になってしまう。


すると階下で物音がして、使用人たちが外から人を出迎える気配がした。


「玲司様がお帰りになったみたいですね」


日鞠の言葉を聞いて、珍しく咲夜は自ら部屋を出ていこうとしたが、血気盛んにドアを開けようとしたところで、先に誰かが部屋の中に飛び込んできた。


「サク―っ」


女性が叫びながら咲夜に抱きついた。


咲夜は後ろにたたらを踏むと、驚愕の表情で女性を見つめた。


「母さん!? どうしてここにいるんだよ」


咲夜の言葉に日鞠も驚いて女性を見つめた。


黄金の髪に陶器のような肌を持つ、美しい人だった。


以前、奥様が屋敷を出ていったという話はちらりと聞いていたが、外国人ということまでは知らなかった。


奥様は咲夜を腕から解放すると、流暢な日本語で話し出した。


「キリューインに試薬品のサンプルを渡すために、ちょっと前から近くに来てたの。そしたらちょうどあの人が出張でいないっていうじゃない? レージに連絡して確認したら、代わりにサクがいるって聞いたから飛んできちゃった」


母子の邪魔にならないよう、日鞠はそっと部屋を出た。


もしかしたら玲司は母親と咲夜を会わせようとして、別邸に帰ると言い張る咲夜の要求をはねつけていたのだろうか。


咲夜は絶対に認めないだろうが。


それにしても、実際の奥様が想像していた人物とはかなりかけ離れていたので、日鞠は驚いていた。


ちょっと冷たい感じのする上流階級の貴婦人なのかと思いきや、先ほど見た奥様は快活で愛情深い印象を受けた。


正直、どこか冷めている咲夜と玲司の二人の母親と言われても、あまりピンとこない。


咲夜の部屋を出て、しばらく他の仕事を手伝っていると、家政婦長から奥様の部屋にハーブティーを運ぶようにと言われた。


「奥様があなたに運んでほしいっておっしゃったのよ。お願いできるかしら」


咲夜の世話に徹するようにという玲司のご下命により、日鞠がこうやって用事を頼まれることはほとんどなかったが、頼まれた仕事をすることに関してまったく異存はない。


なぜ奥様に指名されたのかは不明だったが、厨房で用意されたポットとカップを持って、日鞠は奥様の部屋へと向かった。


ドアをノックして声をかける。


「アンジュ様。お茶をお持ちしました」


家政婦長からは「ご本人には決して『奥様』と言わないようにね。その呼び方を嫌がられるから。アンジュ様と名前でお呼びして」と注意されていた。


「どうぞ」と返事があったので部屋の中へ入ると、アンジュは鏡台の前でイヤリングを外していた。


日鞠はテーブルの上でハーブティーの用意をしながら、ちらと顔を上げると、鏡の中でアンジュと目が合った。


にこりと微笑んだその顔は、咲き誇るバラの花のように美しい。


咲夜の美貌は間違いなく母親譲りのものだろう、と納得してしまう。


アンジュは鏡台の前からテーブルに移動すると、日鞠の淹れたお茶に口をつけた。


「ありがとう。とってもおいしいわ」


アンジュの笑顔に、日鞠は思わず顔が赤くなりそうになった。


「さっきサクの部屋で会ったわね」


「はい」


日鞠がうなずくと、アンジュから意外な提案があった。


「ちょっとだけおしゃべりしていかない?」


日鞠は目を丸くしたが、正面の席に座るよう勧められて腰を下ろすと、アンジュは部屋に元々あった別のティーカップにわざわざ日鞠の分のハーブティーを注いでくれた。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


アンジュはしげしげと日鞠のことを見つめていたが、やがて親しみのこもった口調で話し始めた。


「ヤエに手紙をもらってね。仕事をやめてサクのもとを離れることになったと連絡があったの。ヤエは私の代わりにずっとサクのそばにいてくれたから、新しい人がどんな人か気になってたのよ。ようやく会えて嬉しいわ」


「八重さん?」


「そう。彼女、以前はここの家政婦長だったの。でも咲夜が別邸に引っ越すってなった時、一緒についていってくれてね。体がつらくても、代わりの人が見つかるまでは辞められないって頑張ってくれてたから、残念だけど無理させるわけにはいかないじゃない? だからキリューインにハッパをかけて、後任の人を探してもらったのよ」


そんな事情があったとは。初めて聞く話である。


「キリューインは『逸材を見つけました』って自信満々だったし、ヤエの手紙にも『まじめで思いやりのある後任者が来てくれたので、これで安心して引退できます』って書いてあったんだけど、まさかこんなにカワイイ人だったとはね」


桐生院の話はさておき、八重がそんなふうに言ってくれていたとは。


日鞠はちょっと感動してしまった。


それからしばらく話をし、飲み終わった茶器を片づけて日鞠が退室しようとすると、アンジュから一つ用事を頼まれた。


「悪いんだけど、パジャマを持ってきてもらえるかしら? 慌てて来ちゃったから、用意がなくって」


「かしこまりました」


厨房に茶器を下げ、衣類係に頼んで寝間着の予備を用意してもらうと、日鞠は再びアンジュの部屋を訪れた。


ノックして返事があったので中に入ろうとすると、隣に見たことのない男性がぬっと現れた。


五十前後のスーツを着た男性で、横顔しか見えなかったが、思わず背筋を伸ばしたくなるような威厳があった。


「下がっていろ」


それだけ言うと、日鞠の代わりにアンジュの部屋へ勝手に入ってしまった。


閉じたドアの前で日鞠はあぜんと突っ立っていたが、「おい」と声をかけられ振り返ると、仕事帰りの玲司が立っていた。


「玲司様。今、アンジュ様のお部屋に勝手に人が入ってしまって」


「放っておいていい」


「でも見知らぬ男性を部屋に通してしまって大丈夫でしょうか」


日鞠は寝間着を持ったまま、おろおろと慌てていた。


「別に夫なら寝室に入ったところで問題ないだろう」


「え、夫?」


日鞠は思わず玲司に聞き返してしまった。


「俺と咲夜の父親だ。その寝間着も気にしなくていい。別に必要ないだろう。朝まで誰も近づけるなと執事長に伝えておけ」


そう言い残して玲司はさっさと立ち去ってしまったので、日鞠も回れ右して部屋の前から離れた。


期せずして、アンジュだけでなく、咲夜の父親にまで会ってしまった。


横顔を見ただけだったが、どちらかというと咲夜より玲司のほうが父親に似ているような気がする。


言われたとおり玲司の言葉を執事長に伝えると、有能な執事長は一瞬の沈黙の後、「わかりました」とだけうなずいた。


「咲夜様にもお父様がお帰りになったことをお伝えしたほうがいいでしょうか?」


ちょっと気になったので質問すると、執事長は重々しく首を横に振った。


「就寝前にわざわざ咲夜様を興奮させる必要はないでしょう。明日になれば自ずと明らかになるでしょうし。あなたも今日はもう休んで大丈夫です」


明日になれば自ずと明らかになる、とはどういう意味だろか。


よくわからなかったが、その場は「かしこまりました」とだけうなずいて、日鞠は自室に戻った。

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