第13話 若様への口移し

咲夜の部屋を出た日鞠は、下げてきた朝食のトレイに、薬の包み紙がきれいに折りたたまれた状態で置かれているのに気づいた。


咲夜はいつも朝食後に薬を服用しているが、飲み終えた後の包み紙はくしゃりと小さく丸めてしまう。


まさか食事を抜いたせいで、一緒に出した薬まで飲まなかったのだろうか。


慌てて咲夜の部屋へ戻ろうとすると、ちょうど玲司がこちらに向かって廊下を歩いてくるところだった。


週末で仕事が休みなのか、スラックスにラフなワイシャツの私服姿である。


目が合ったのに無視して走り出す訳にもいかず、日鞠は焦る気持ちをおさえながら、壁を背に姿勢を正して視線を床に落とした。


玲司は日鞠の前で立ち止まった。


「咲夜の様子はどうだ」


おそらく玲司は、咲夜の反抗的な態度が改まったかどうかを知りたかったのだろうが、今はそれどころではなかった。


「それが、今朝は毎日常用している薬をお飲みにならなかったみたいで」


「なに?」


日鞠が握っていた未開封の薬を見せると、玲司は眉をひそめて、すぐに大股で歩き出した。


咲夜の部屋のドアをノックせずに開け、そのまま中へ入っていく。


日鞠も小走りで玲司の後に続いた。


咲夜は先ほどと同じようにベッドの上で横になっていたが、いきなり入ってきた二人の姿を見て、あからさまに嫌な顔をした。


玲司は構わずベッドに近づくと、咲夜の着ていた浴衣の襟をつかんで体を無理やり起こした。


「なにしやがるっ」


咲夜は怒鳴ったが、玲司は無視し、つかんでいた襟をばっと広げて浴衣を脱がせた。


咲夜の上半身が露になり、日鞠は目を見開いた。


白い肌に、花びら模様の赤い湿疹が広がっている。


素人目で見ても、ひどい状態であるのがわかった。


咲夜は玲司の体を押しのけると、浴衣を羽織りなおした。


「申し訳ございませんっ。私の落ち度です」


日鞠は咲夜と玲司に頭を下げた。


薬を飲み忘れると大変なことになると、桐生院にも一番最初に注意されていたのに。


わかったつもりが、きちんと理解していなかった。


玲司は日鞠を振り返り、一喝した。


「薬を管理して、この阿呆にきちんと飲ませるのがおまえの仕事だぞっ。遊ばせるために雇ったわけじゃない」


日鞠は言葉もなかった。


玲司は大きく息を吐き出した。


「……もういい。執事長のところへ行って、電話で桐生院に今すぐここへ来るよう連絡してもらえ」


「は、はいっ」


日鞠は大急ぎで執事長の部屋へ行き、事情を話して電話で桐生院のことを呼び出してもらった。


「これからすぐに出発されるとのことです。会社から直接向かわれるそうなので、間もなく到着されるかと」


電話で桐生院と話した執事長は、受話器を置くと日鞠にそう教えてくれた。


執事長の言ったとおり、桐生院は四半時しないうちに到着した。


玄関の外で待ち構えていた日鞠が、咲夜の部屋へと案内する。


歩きながら、日鞠は桐生院に状況を説明した。


あらかた聞き終えた桐生院は、ぼやくようにつぶやいた。


「良かれと思ってやったんだけど、全部裏目に出ちゃったかなぁ」


「申し訳ありません。私がもっとしっかり先生の言いつけを守っていたら……」


日鞠は唇をかんだ。


「違うでしょ。きちんと薬を飲む言いつけを守らなかったのは咲夜くん。生真面目なのはいいけどね、責任をしょい込もうとする必要はないんだよ。それにまだ症状を直接確認してないからはっきり断定できないけど、咲夜くんの具合が悪化したのは、薬を一回飲み忘れたからというより、過度のストレスが急にかかったせいだと思うんだよなぁ」


ちょうど咲夜の部屋の前に到着したので、二人の会話はそこで中断した。


ノックして中に入ると、玲司はまだ部屋に残っていて、ベッドの死角にある椅子に腰をおろしていた。


「遅い」


「勘弁してくださいよ、専務。休日に呼び出されて、文句も言わずに急いで駆けつけたというのに」


「休日関係なしにいつも研究室にいるだろうが。こっちは部屋の私物化を容認してるんだ。とやかく言われる筋合いはない。それよりさっさとあれの容態を確認しろ」


「はいはい、承知しました」


桐生院は咲夜のベッドに近づいた。


「咲夜くん、ちょっと診させてもらうね」


咲夜は返事をしなかったが、玲司の時のように抵抗したりはしなかった。


日鞠は部屋の片隅から診察の様子を見守っていた。


桐生院はしばらく咲夜の体に触れたり、本人に質問したりを繰り返した後、玲司に視線で合図を送った。


二人して咲夜のベッドから遠ざかると、桐生院はやや声を落として話し出した。


日鞠は盗み聞きするつもりはなかったが、立っている場所が近かったので、二人の会話が聞こえてきた。


「思っていたより咲夜くんの容態が悪いです。いったん症状を鎮静化させないと、このまま一気に悪化する可能性もあります。ただいつも服用している薬では効きが弱いかもしれない。例の新薬を試したいんですが、咲夜くんはあれから納得してくれましたか?」


「してない。が、ちょうどいい機会だ。新薬はあるか」


「念のため持ってきましたが」


桐生院がいつも往診時に持ち歩いている診療用の鞄から、小さなケースを取り出した。


蓋を開けると、小瓶が数本入っている。


玲司はそのうちの一本を手に取ると、咲夜に近づいていった。


「咲夜、飲め。いつまでもおまえのわがままに付き合うほどこっちは暇じゃない」


玲司が小瓶を差し出すと、咲夜は冷笑を浮かべただけだった。


「ならいつもみたいに放っておけよ。俺の顔なんか見たくないだろうに」


「そうできるなら、そうしている」


玲司は苛立たしそうにため息を吐き出した。


咲夜の顔があきらかに強張ったのが、日鞠の位置からも見て取れた。


桐生院も額に手を当てている。


いつまで経っても薬を飲む気配を見せない咲夜にしびれを切らしたのか、玲司は小瓶の栓を抜くと、咲夜の口元に近づけて無理やり飲ませようとした。


「なにすんだよっ」


「うるさいっ。保護者の命令だ。飲めっ」


「いつからおまえが俺の保護者になったんだよっ」


咲夜が手を振り払うと、玲司が手にしていた小瓶にぶつかった。


小瓶はそのまま床に落ち、中身の薬がカーペットの上に流れ出した。


桐生院が日鞠の隣で「ひいっ」と短く絶叫した。


玲司も目をむいた。


「大馬鹿者がっ。この薬にいったいどれだけの人員とコストがかかっていると思っているっ」


玲司は怒鳴ると、片手を大きく振り上げた。


まさか平手打ちか、と日鞠は慌てて咲夜を見た。


この調子だと、兄弟で殴り合いの喧嘩に発展するのではないかと思ったのだが、予想に反して、咲夜は微動だにせず、なぜかとても冷静な顔をしていた。


日鞠はとっさに叫んだ。


「玲司様っ」


突然の大声に驚いたのか、玲司は腕を振り上げたまま動きを止めた。


「玲司様。咲夜様にお薬を飲ませればよろしいのですね」


「そうだが」


憮然と答えた玲司の顔には、当惑と苛立たしさの両方が浮かんでいた。


日鞠は今度は桐生院へと体を向けた。


「先生、そちらのお薬を一ついただけますか」


「あ、はい。どうぞ」


桐生院から新しく小瓶を受け取ると、日鞠はベッドに近づいて、咲夜と玲司の間に割って入った。


「おい。いったいどういうつもりだ」


「咲夜様に薬を飲ませるのが私の仕事だとおっしゃったのは、玲司様、あなたです」


そう答えると、日鞠は咲夜に顔を向けた。


「咲夜様。失礼します」


先に断ってから、日鞠は小瓶の栓を抜いて、中身の液体を口に含んだ。


ずっと怪訝そうにこちらを見ていた咲夜の顔を引き寄せ、そのまま口を開かせると、日鞠は咲夜に薬を口移しした。


「!?」


咲夜の驚きが全身から伝わってきたが、日鞠は動かなかった。


ごくり、と咲夜の喉が嚥下すると、日鞠はようやく咲夜から唇を外した。


「あれま」


しーんとしているせいか、桐生院のつぶやきがはっきりと聞こえた。


咲夜は、あぜんと日鞠のことを見つめていた。


何が起きたか理解が追いつかない、という顔をしている。


日鞠は手のひらを開くと、そのまま咲夜の頬に向かって打ちつけた。


パシッ、と威勢のいい音が部屋に反響する。


「…………はぁ!?」


咲夜が頬を手で押さえて怒りの声をあげたが、日鞠は気にしなかった。


というより、日鞠も怒っていた。


「咲夜様っ。どうして自分を粗末にするようなことをするんですか。しっかりなさいませ!」


思わずそう口走った後、日鞠ははっと我に返った。


周囲を恐る恐る見回すと、玲司が日鞠のことを凝視している。


まずい。それも非常に。


今さらながら日鞠は気が遠くなりかけた。


色々とやらかしてしまった気がするが、後悔してももう遅い。


今度こそ本当にクビになるかもしれなかった。

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