第11話 若様のお兄様
うららかな春の日の午後。
庭の花は色とりどりに咲き誇り、草木も風にそよいで緑輝いていたが、洗濯物を干す日鞠の顔はどんよりと曇っていた。
なにも仕事がきつかったわけではない。
いや、もちろん仕事は相変わらず大変だったが、それ以上に日鞠の気を滅入らせていたのは、先ごろ咲夜が試験薬を唐突に拒否した一件だった。
桐生院は日鞠のせいではないと言ってくれたが、考えれば考えるほど、やはり日鞠は自分にも原因があるように思えてならなかった。
もし最初から咲夜の脈を上手に取れていたら。
待っている間に咲夜の気が突然変わったりはしなかったかもしれない。
竿に洗濯物をすべて干し終えると、日鞠は右手で自分の左手首の脈に触れた。
あれから三日経つが、手持ちぶさたになると、つい自分の脈を触ってしまう。
回数を重ねるうちに、脈をとらえるのが次第にうまくなってきていた。
今さらできても遅いのだが。
ため息をつきかけ、日鞠は慌てて頬を両手でパシッと叩いた。
暗い顔をしていると福が逃げていく、と桐生院にも言われたではないか。
咲夜の気分が変わるのはそれほど珍しいことではないし、もしかしたらまた不意に新しい薬を飲む気になるかもしれない。
気持ちを入れ替えて建物の中へ入ろうとすると、門の外から物音が響いてきた。
颯太や管理人さんのように、仕事でよく出入りする面々は庭の裏口を使用する。
もしや桐生院が来たのだろうかと思ったが、事前にそのような連絡はなかった。
それに桐生院がやって来たにしては、なにやら騒々しい。
いざそちらに向かってみると、入ってきたのは日鞠の見知らぬ男性だった。
見るからに仕立てのいいスーツをすらりと着こなし、背後にはガタイのいい男たちを四名従えていた。
「どちら様でしょうか?」
日鞠は先頭に立っていたスーツの男性に声をかけたが、男性は質問に答えなかった。
「咲夜はどこにいる」
「失礼ですが、咲夜様のお客様ですか?」
男性は日鞠をちらりと一瞥した。
「見ない顔だな。説明している時間がもったいない」
そう言うと、男性は敷地の中を突き進んでいった。
後ろの四名もぞろぞろとそれに続いていく。
慌てて日鞠は追いかけた。
「あ、あの、ちょっと!」
呼び止めたが、男性は長身で歩幅が大きい上に、とてつもなく速足だった。
追いつくどころか引き離されないよう、日鞠は走り出す一歩手前の状態だった。
男性は母屋の中に上がり込むと、居間のほうへ歩いていった。
咲夜がどこにいるのか知っている、と言わんばかりの迷いのない足取りである。
いったい誰なのだろうか。
誰か知り合いに似ているような気もしたが、答えが出る前に、男性は止める間もなく居間のふすまをスパーンと開いた。
「久しぶりだな、咲夜」
咲夜はいつもどおり部屋で読書中だったが、スーツの男性を見た途端、表情がみるみる険しくなっていった。
「何しに来た、玲司」
「呼び捨てにするな。兄上かお兄様と呼べ」
咲夜は鼻先で嗤ったが、日鞠は思わず二人の顔を見比べた。
ぱっと見でわからなかったが、言われてみると、二人とも顔立ちがどことなく似ている。
「相変わらずやりたい放題らしいな。薬を拒否したと桐生院が泣きついてきたぞ」
玲司の言葉を聞いて、咲夜が毒づいた。
「あの会社のイヌめ」
桐生院が「諦めるつもりはないから」と口にしていたのは日鞠も覚えている。
ということは、玲司なるスーツの男性は、桐生院に頼まれて咲夜に新しい薬を飲むよう説得しにやってきた、ということになるのだろうか。
日鞠は玲司に対してあまりいい第一印象を持っていなかったが、俄然、心の中で応援し出した。
咲夜の毒舌と悪態に負けず、どうか頑張って説得してほしい。
けれど日鞠の願いも空しく、兄弟の会話は剣呑さを帯びていく一方だった。
「咲夜。つべこべ言わずに薬を飲め。俺はお前と違って忙しい」
「は。なら来なきゃいいだろ」
「俺だって来たくて来たわけじゃない。父上の命令だ」
「いい年して親の言いなりかよ」
「家の厄介者が、ずいぶんと偉そうな口をきくじゃないか。あの薬の開発にいくらかかっていると思っている。素直に言うことを聞いて、たまには誰かの役に立ってみせろ」
「薬を作ってくださいなんて頼んだ覚えはねぇよ。そんなに効果が知りたきゃ、自分で飲んでみればいいだろうが」
咲夜と玲司は互いににらみ合っていた。
ハラハラしながら成り行きを見守っていた日鞠だったが、ふと強い芳香が鼻をつくのを感じた。
咲夜に顔を向けると、なぜか咲夜の周囲だけかすみがかっている。
玲司もそれに気づいたのか、スーツのポケットからハンカチを取り出して鼻と口元に押し当てた。
「……本当に厄介者が」
近くに立っていた日鞠は、玲司がそうつぶやくのが聞こえた。
日鞠は咲夜の後ろの障子窓を全開にしようと足を踏み出しかけたが、それを見た玲司が日鞠の腕をとっさにつかんだ。
「今のあいつに近づくんじゃない」
「や、でも換気しないと……」
「何を能天気なことを言ってる。というかすぐに顔をふさげ」
玲司が苛立たしそうに日鞠に命じた。
気づけば玲司の背後に黙って控えていた男たちも、いつの間にか皆一様にマスクを口元に装着している。
「そいつに勝手に命令するな。俺の世話係だぞ」
咲夜が玲司にすごんだ。
「勘違いをしているようだがな、彼女は宝城家が雇っている。言うことを聞けないお荷物に、金を払ってまで専属の世話係をつけてやる理由はない」
そう言うと、玲司は日鞠の手首をつかんで歩き出した。
「え? あの」
「今日はもう帰る。今のあいつでは話にならん。君も来い」
どうすればいいのか困ってしまい、咲夜を振り返った日鞠は、ぴたりと動きを止めた。
「申し訳ありませんが、一緒には行けません」
日鞠の言葉に、玲司のこめかみがぴくりと波打った。
「さっきも言ったが、君の雇い主はあいつじゃない」
「はい。ですが私は咲夜様のお世話係として雇われ、給金まで前借りさせていただきました。役目を放棄して、咲夜様をお一人でここに残していくことはできません」
日鞠はきっぱりと言った。
先ほど振り返った時、咲夜は途方に暮れたような顔をしていた。
まるで見捨てられた子犬か幼子のように。
今、咲夜を一人にしてはいけない。
なぜかそう強く感じた。
咲夜はというと、不思議な物を見るような目つきで、日鞠のことをまじまじと凝視している。
玲司はつかんでいた日鞠の手首を離すと、これ以上ないというくらい苛立たしそうに大きくため息をついた。
「どいつもこいつも本当に手間をかけさせる」
玲司は後ろにいた四人の男たちに目配せをした。
それまで彫像のように立っていた男たちが、さっと動いて咲夜を取り囲んだ。
「おまえをこの敷地から出したくはなかったが、仕方がない。父上の命令だ。本邸に連れていく」
「はぁ!? ふざけんなっ」
咲夜はいきり立ったが、男四人に問答無用で取り押さえられ、ずるずると部屋の外へ引っ張り出された。
「ちょっと、乱暴はやめてください!」
日鞠が憤然と抗議すると、玲司は気に留めるどころか、こんなことを言い出した。
「おい、この女も連れていけ。本邸でも馬鹿の世話係は必要だからな」
咲夜を取り押さえていたうちの一人が、指示に従い日鞠のことも咲夜同様に引っ張っていく。
抵抗しようにもあっけなく門の外へと連れ出され、そこに停まっていた二台の車で咲夜と日鞠はどこぞへと連れ去られた。
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