第10話 宝城家の人々<桐生院の職務レポート>

宝城製薬。


世界有数の製薬会社で、薬の企画開発、研究、製造を一環して行っている。


その本社ビルの社長室は高層階にあり、壁の一面がガラス張りになっているので都心の街並みが一望できる。


部屋では社長の宝城理人が大眺望を背に豪華な書斎机の前に座り、その隣に専務で跡取り息子の宝城玲司が立っていた。


「薬を拒否、だと…?」


玲司は信じられないという顔つきで、机をはさんで正面に立っている桐生院を見やった。


「あのバカはいったい何を考えているんだ」


「さぁ? 私にもさっぱり」


桐生院が正直に答えると、玲司の秀麗な顔がピクリと痙攣した。


「おまえ主治医だろ! ちゃんと説明したのか!」


「しましたよ。途中までは納得してくれていたんですけどね。やっぱり飲むのはやめる、と急に言い出して」


「そんなの途中まで納得してたなら、あきらめずに最後まで説得しろ!」


「無茶言わないでくださいよ。咲夜くんの一度言い出したら聞かない頑固な、失礼、意志の強い性格は、お二人のほうがよくご存じでしょう。だからお忙しいのは百も承知でご相談にうかがったんです。主治医の言葉は聞かなくとも、愛する家族の説得なら耳を傾けてくれるかもしれない」


桐生院の言葉に、玲司は苦虫を噛み潰したような表情になった。


「桐生院、それはもしかしなくても嫌味か?」


「まさか。本心ですよ」


桐生院が満面の笑みで答えると、玲司は小さく舌打ちした。


こうして怒っている時の顔は、弟の咲夜とそっくりである。


玲司はさらに何か言おうとしたが、それまで黙っていた理人が玲司を制するように口を開いた。


「先生のおっしゃる通り、咲夜が治験を拒否したというなら、我々家族が説得にあたるべきだろう。主治医に強要されたとなると、法的にも倫理的にも問題がありすぎる。すまないが玲司、おまえが別邸に行ってくれ。私はこれから出張でしばらく身動きがとれない」


「しかし私が話したところで、アレが素直に言うことを聞くとも思えないのですが。むしろ余計反発しそうな気がします」


「もし説得にも応じないようなら、多少強引でもかまわない。連れ戻せ」


玲司はそれ以上反論せず、「承知しました」とうなずいた。


理人は桐生院に目を向けた。


「これでよろしいか、桐生院先生」


「はい、ありがとうございます」


すると理人は怜悧な目をすっと細めた。


「ではここから先は咲夜の主治医としてではなく、わが社の上級研究員として話をする。咲夜は希少な症例だ。治験に際して妙な手心を加える必要はない。徹底してデータを収集しろ。治療薬の開発責任者にもそう伝えるように」


理人の口調は終始淡々としていたが、有無を言わさぬ響きがあった。


「了解です」


桐生院は笑顔こそ崩さなかったものの、内心やりすぎたかな、と思っていた。


咲夜の説得に二人をうまく使うつもりが、逆に理人に釘を刺されてしまった。


役職が上でも玲司は年下なのでまだうまくあしらえるが、さすがに理人相手ではそういう訳にもいかないらしい。


おまけに開発責任者のことにまで言及してくるとは。


社長室を出た後、桐生院はなんだかどっと疲れてしまった。


研究や臨床の仕事とはまた別の疲労感である。


よその家庭の問題はただでさえ繊細な話題なのに、あの家族はそれぞれ背負っている立場や事情が複雑すぎる。


桐生院はふと咲夜の世話係の少女のことを思い出した。


往診に訪れた際、彼女が疲れたような表情をのぞかせる瞬間がこれまで何度かあったのだが、こんな心境だったのだろうか。


彼女に比べれば、自分の気苦労はまだ楽なほうかもしれない。


なにせあの利かん坊のそばに二十四時間ずっとついていなければならないのだから。


彼女、名前はなんだったっけ、と桐生院はビルの通路を歩きながら思い出そうとした。


エレベーターを待っている間もうーんと頭をひねり、到着音がポーンと鳴った瞬間、桐生院は「あ」と思い出した。


「そうそう、青空さんだ。青空日鞠さん」


口ずさむように日鞠の名前をつぶやくと、桐生院は誰もいないエレベーターの中へと乗り込んだ。


自分の個室がある階のボタンを押すと、すぐにエレベーターが下降を始める。


がんばれがんばれ、と自分なのか日鞠に向けてなのか曖昧な応援の言葉をつぶやきながら、桐生院は停止したエレベーターから軽やかに降りた。

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