第10話 宝城家の人々<桐生院のメモ1>

宝城ほうじょう製薬。


世界有数の製薬会社で、薬の企画開発、研究、製造を一環して行っている。


その本社ビルの最上階にある社長室では、都心の大眺望を背にして社長の宝城理人りひとが席に座り、すぐそばに専務で跡取り息子の宝城玲司れいじが立っていた。


「薬を拒否、だと…?」


玲司は信じられないという顔つきで、宝城親子の前に立っていた桐生院を見やった。


「あのバカはいったい何を考えているんだ」


「さぁ? 私にもさっぱり」


桐生院が正直に答えると、玲司の秀麗な顔がピクリと痙攣した。


「ちゃんと説明したのか」


「しましたよ。途中までは納得してくれていたんですけどね。やっぱり飲むのはやめる、と急に言い出して」


「途中まで納得してたなら最後まで説得しろ! 主治医だろう!」


「無茶言わないでくださいよ。咲夜くんの一度言い出したら聞かない頑固な、失礼、意志の強い性格は、お二人のほうがよくご存じでしょう。だからお忙しいのは百も承知でご相談にうかがったんです。主治医の言葉は聞かなくても、愛する家族の説得なら耳を傾けてくれるかもしれない」


桐生院の言葉に、玲司は苦虫をかみつぶしたような表情になった。


「桐生院、それはもしかしなくても嫌味か?」


「まさか。本心ですよ」


桐生院が満面の笑みで答えると、玲司は小さく舌打ちした。


こうして怒っている時の顔は、弟の咲夜とそっくりである。


玲司はさらに何か言おうとしたが、それまで黙っていた理人が玲司を制するように口を開いた。


「咲夜が治験を拒否したなら、先生の言うとおり我々家族が説得にあたるべきだろう。主治医に強要されたとなると、法的にも倫理的にも問題がありすぎる。すまないが玲司、おまえが別邸に行ってくれ。私はこれから出張でしばらく身動きがとれない」


「しかし私が話したところで、咲夜が素直に言うことを聞くとは思えないのですが。むしろ余計反発しそうな気がします」


「もし説得にも応じないようなら、多少強引でも構わない。連れ戻せ」


玲司はそれ以上反論せず、「承知しました」とうなずいた。


理人は桐生院に目を向けた。


「これでよろしいか、桐生院先生」


「はい、ありがとうございます」


すると理人は目をすっと細めた。


「ではここから先は咲夜の主治医としてではなく、わが社の研究員として話をする。咲夜は希少な症例だ。治験では徹底してデータを収集しろ。妙な手心を加えないよう、薬の開発責任者にも伝えておくように」


理人の口調は淡々としていたが、有無を言わさぬ響きがあった。


「了解です」


桐生院は笑顔こそ崩さなかったものの、内心やりすぎたかな、と思っていた。


咲夜の説得に二人をうまく使うつもりが、逆に理人に釘を刺されてしまった。


役職が上でも年下の玲司はうまくあしらえるが、さすがに理人相手ではそういうわけにもいかないらしい。


おまけに開発責任者のことにまで言及してくるとは。


社長室を出た後、桐生院はなんだかどっと疲れてしまった。


研究や臨床の仕事とはまた別の疲労感である。


よその家庭の問題はただでさえ繊細な話題なのに、あの家族はそれぞれ背負っている立場や事情が複雑すぎる。


桐生院はふと咲夜の世話係の少女のことを思い出した。


往診に訪れた際、彼女が疲れたような表情をのぞかせる瞬間が何度かあったのだが、こんな心境だったのだろうか。


あの利かん坊をなだめたりあやしたりしている彼女に比べれば、自分の気苦労はまだ楽なほうかもしれない。


彼女、名前はなんだったっけ、と桐生院はビルの廊下を歩きながら思い出そうとした。


エレベーターを待っている間もうーんと頭をひねり、到着音がポーンと鳴った瞬間、桐生院は「あ」と思い出した。


「そうそう、青空さんだ。青空日鞠さん」


日鞠の名前をつぶやきながら、桐生院は誰もいないエレベーターに軽やかに乗った。

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