第9話 若様の脈拍

「最近どう? 前に来た時は、クビになるかもって心配してたけど」


診察に訪れた桐生院が、玄関から母屋までの道すがら、案内していた日鞠に話しかけてきた。


「まぁ……なんだかんだでどうにかやってます」


「はは、その顔は苦労してそうだねぇ。でも大したもんだよ。こんなに長く続いてるなんて」


「長くって、まだ勤めてひと月ほどですが」


「十分十分。これまで八重さん以外、誰一人として一週間以上はもたなかったから」


「そうなんですか?」


「咲夜くん、他人に対してすごく警戒心が強いからね。そうならざるをえなかったっていうのもあるんだろうけど。僕にも完全には心を開いてくれてないし。いやぁ、君が身持ちの堅い我慢強い子でよかった」


日鞠は、咲夜が以前『桐生院の話を真に受けるつもりはない。俺が最終テストしてやるよ』と言っていたことを思い出した。


いつも他人を警戒しないといけないというのは、いったいどんな気持ちなのだろう。


日鞠は、仕事とはいえ自分ばかりが咲夜に対して忍耐を強いられているような気がしていたが、咲夜も日鞠にはうかがい知れない様々な感情を背負い込んで生きているのかもしれない。


誕生日の一件以来、日鞠は恥ずかしいやら腹立たしいやらで人知れず多大なストレスを抱え込んでいたが、桐生院の話を聞いて、ようやく自分本来の平常心を取り戻すことができたような気がした。


桐生院を咲夜のいる部屋まで案内すると、日鞠はその場をすぐに離れようとしたが、桐生院に「ちょっと待って」と呼び止められた。


「今日は新しい薬の話があるから、君も一緒に聞いてくれる?」


「あ、はい」


日鞠は部屋の隅に腰を下ろした。


「なんだよ、その新しい薬って」


あぐらをかいて座っていた咲夜が、いかにも胡散臭そうな口ぶりで質問した。


「咲夜くんの寄生植物の力を一時的に弱めることができる薬。まだ試薬品の段階だし、効果は未知数だけどね。試してみる価値はあると思う。もちろん、君の同意があればだけど。どう?」


咲夜はしばらく無言だった。


日鞠は迷うことなんかないのに、と思ったが、咲夜はなかなか返事をしなかった。


「その薬、誰が作ったんだ?」


長めの沈黙の後、咲夜にそう問われた桐生院は意表を突かれた様子だったが、それも一瞬のことだった。


「たぶん君の想像してる人」


桐生院がそう答えると、咲夜は大仰そうに息を吐き出してから、ぼそりと一言だけ「飲む」と答えた。


日鞠は二人のやり取りの意味がよくわからなかったが、咲夜の答えを聞いた桐生院は、あきらかにほっとした表情をしていた。


「いやぁ、よかったよかった。実は断られたらどうしようかと思ってたんだよ。じゃあさっそく説明を始めるけど」


桐生院は携えていた鞄から小瓶を取り出した。


「この瓶に入っている薬を夕食後に飲むこと。いつもの薬も継続して飲み忘れないようにね。まずは五日間。量は少なくしてあるけど、体調に異変を感じたらすぐに服用をやめて僕に連絡を。無事に飲み終わったら、六日目にまた往診に来るから。オーケー?」


「ん」


「ちょっと咲夜くん。本当に大丈夫なの? 心配だなぁ」


桐生院は嘆いていたが、ちょうど目が合ったので、心得ています、とばかりに日鞠は精一杯うなずいてみせた。


「よろしく頼むね……あ、そうだ。あともう一つ。全部君にお願いすることになっちゃうんだけど、咲夜くんの脈拍を毎日測って記録しておいてほしいんだ」


「脈拍?」


「そう。測ったことある?」


「いえ」


看護婦さんが妹の脈を測っているのを見たことは何度かあるが、やり方は知らない。


「まぁ口で説明するより、実際にやってみせたほうが早いか。もうちょっとこっちに来てくれる?」


手招きされて桐生院のすぐ隣へ移動すると、桐生院は日鞠の手を取り、手のひらを上に向けた。


「親指の下の手首の部分に、こうやって人差し指と中指と薬指の三本をそっと当てて、何回脈を打ったか一分間数える。試しにやってみようか」


「はい」


日鞠が自分の手首の上に三本指をのせると、桐生院は「君のじゃなくて、咲夜くんので試してみようか」と穏やかに指摘した。


確かに本番と同じ状況で試すほうが理にかなっている。


日鞠は自分の勘違いに少々顔を赤くしながら、咲夜の前に腰を下ろした。


「失礼します」


一言断ってから咲夜の左腕を取り、先ほどの桐生院の見本と同じように指先を手首の上に置く。


神経を集中させて脈を探すが、それらしき振動はなかなか伝わってこない。


しばらくして咲夜から手を放すと、日鞠は観念して桐生院のほうを振り返った。


「だめです。全然わかりません……」


「ごめんごめん。初めてだと難しいよね。そんな落ち込んだ顔をしないで。じゃあいったん僕ので練習してみようか」


「はい……」


日鞠は再び位置を移動して、差し出された桐生院の手首を取った。


「あ、そんなにぎゅっと押しつけなくても大丈夫。もう少し優しく触る感じで」


「こうですか?」


「あ、そうそう。そんな感じ。どう?」


「……あ。わかったかも」


「よし。じゃあ僕が時計で三十秒間カウントするから、脈拍数を測ってみよう」


「はい」


そして三十秒後。


「四十五回でした」


「かける二倍で一分あたり九十回か。うん、たぶんそれで合ってる。慣れればどんどん上達するはずだから。それでも脈が測りにくい時の方法がいくつかあって」


「おい、まだ待たせるのかよ」


「もうちょっと待ってて。咲夜くん、君のためにやってるんだから。えーと、どこまで話したっけ」


「脈が測りにくい時、までです」


「あ、そうそう。咲夜くんに手を握ったり開いたりを繰り返してもらうか、もしくは頸動脈で測るのでも大丈夫。こんなふうに」


桐生院が自分の首筋に指をあてた。


日鞠も同じように自分の首筋に触れてみるが、手首よりも測定するのが余計難しい気がした。


眉間にしわを寄せていると、桐生院が日鞠の指先を軽くつかんだ。


「たぶんもうちょっとこっちのほうかな」


桐生院に指の位置を直されると、日鞠はすぐに指先に自分の脈動を感じた。


「先生、すごいですね」


思わず称賛のまなざしを向けると、桐生院は苦笑を浮かべた。


「まぁこれが仕事だからね。じゃあもう一回咲夜くんの脈拍を測ってみようか」


「はい」


日鞠は移動して、咲夜の腕を取ろうとした。


が、咲夜がひょいと腕を動かしたので、日鞠の手は空を切る形となった。


「咲夜様?」


「やっぱりやめる」


「はい?」


「試験薬は飲まない」


「はい!?」


「咲夜くん、今なんて」


「薬飲むのに、こんなにダルいこと毎回やってられるかよ」


そう言うと、咲夜は立ち上がって、どこぞへと姿を消してしまった。


「そ、そんな。先生、どうしましょう」


日鞠は中腰になっておろおろと慌てた。


「あちゃー、へそを曲げちゃったか……」


桐生院も片手で顔を覆っていたが、やがて鞄を手に立ち上がった。


「とりあえず今日はいったん退くよ。患者に無理やり薬を飲ませるわけにもいかないしね」


「申し訳ありません、先生。わたしがもっとうまくやれていたら……」


「いや、たぶん下手を打ったのは僕のほう。ほら、さっきも言ったでしょ。そんなに落ち込んだ顔をしないで。福が逃げてくよ。僕もこれで諦めるつもりはないから」


一見すると桐生院は冷静な態度に戻っていたが、浮かべている笑顔には凄みが感じられてならなかった。

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