第8話 若様の口ふさぎ
遅い昼食を終えて日鞠が台所で洗い物をしていると、管理人の佐々木さんが大量の荷物を抱えて勝手口から現れた。
屋敷が市街地から離れた場所にあるので、佐々木さんが定期的に買い出しに出かけて、必要な品物をこうして届けてくれるのだ。
帰り際に、佐々木さんが気さくな笑みを浮かべて日鞠に紙袋を手渡した。
「はい、これお土産。パウンドケーキって言うんだって。食べてね」
「ありがとうございます」
佐々木さんが帰った後で中身を確認すると、細長い焼き菓子が入っていた。
試しに端っこを細く切ってみると、切り口から洋酒の香りがして、断面には宝石のように色とりどりのドライフルーツが埋め込まれている。
なんとも美しいお菓子だ。
壁時計に目をやると、ちょうど咲夜に午後のお茶を持っていく時間だったので、日鞠はケーキを切り分けて居間に向かった。
「咲夜様。お茶をお持ちしました」
返事が聞こえたので中に入ると、咲夜は読書中だった。
日鞠が咲夜のそばに盆を置くと、咲夜は顔を上げてケーキの小皿に興味を示した。
「それ、どうしたんだ」
「管理人の佐々木さんにいただきました。『ぱうんどけーき』というお菓子だそうです」
咲夜は手を伸ばすと、ぱくりと一口かじった。
どうやら気に入った様子である。
その姿は、いつもの尊大な若様ではなく、ただの食べ盛りの男の子となんら変わりはない。
内心ほほえましく思いながら急須で茶を淹れ、咲夜に湯呑みを差し出した日鞠は、ぎょっとして叫びかけた。
いつの間にか咲夜の上半身がむき出しになり、陶器のような肌があらわになっていた。
胸には以前も目にした花びら模様が浮き上がっている。
真っ白な紙の上に桜吹雪を描いたようで、状況を忘れて思わず見惚れてしまいそうになったが、咲夜が帯までほどこうとしていたので、さすがに日鞠は大声を出した。
「咲夜様、何をなさってるんですかっ」
「何って、熱いから脱ぐ」
「駄目です、いけませんっ」
咲夜はうろんげな目をした。
「どうして」
どうして、と言われても、目の前で全裸になられては困る。
いや、そうではない。問題はそこではない。
咲夜の状態が明らかにおかしい。
熱いと本人も言っていたが、たしかに発熱した人間のように咲夜の顔が火照っている。
熱は出ないと豪語していたのに、と思ったが、日鞠はある可能性にはっと気づいた。
「咲夜様、もしかして酔っぱらってますか」
問われた咲夜は数秒停止し、首を横に振った。
「酔ってない」
いや、これは酔っている、と日鞠は確信を深めた。
酔っ払いが、酔ってないと主張する時とほぼ同じ目の据わり方をしている。
まさか隠れてこっそり飲んでいたのだろうか、と疑いかけたが、はたとケーキを切り分けた時に洋酒の香りがしたことを思い出した。
いや、でも洋酒といっても、ほんの香りづけ程度だ。
そんな少量で酔っぱらえるものなのだろうかと半信半疑だったが、咲夜の口にする物はすべて日鞠が運んでいる。
こんながらんどうの部屋で、酒瓶を隠し持っているはずもない。
ケーキ以外に思いつかなかった。
もしやとんでもなく酒に弱いのだろうか。
そんなことを考えている間に、咲夜は再び帯をほどこうとモゾモゾ動き出した。
「咲夜様、たんまっ。ストップ。ストーップっ」
必死に腕を伸ばして咲夜の動きを妨害すると、咲夜はあからさまに不機嫌な顔つきになった。
「おまえ、うるさい」
顔と同じくらい不機嫌そうな声がした次の瞬間。
(…………え?)
唇に柔らかな感触が押しつけられた。
何が起きたのかとっさに判断できないまま、ぐぐぐ、と咲夜の体が上から覆いかぶさり、日鞠は畳の上に押し倒された。
しかも酔っているせいなのか、咲夜の体からは、ねっとりと甘ったるい香りが発せられている。
吸い込むと、それだけで日鞠まで酩酊してしまいそうなほどの、濃い匂い。
鼻ではなく口で息をしようとしても、咲夜のせいでそれもままならない。
死ぬ。
ここにきて日鞠の思考はようやく覚醒した。
このままでは窒息して死んでしまう。
しかも畳と咲夜の両側から体を圧迫されているので、余計に苦しい。
必死に押しのけようとしても咲夜の体はびくともしなかったが、弾みで咲夜の体が横にころんと転がり、その隙に日鞠はどうにか咲夜の体を引き剝がすことができた。
咲夜は転がった後、そのまま気持ちよさそうにスヤスヤと寝息をたてている。
日鞠はぜぇぜぇと肩で呼吸しながら、乱れた着衣を整えた。
なんて人騒がせな若様なのだろう。
このまま咲夜のことは起きるまで放っておこうかと思ったが、酒に弱いのはただの体質であって、咲夜の落ち度ではない。
仕方なく日鞠は居間に布団を敷くと、ずるずると引きずるようにして咲夜の体を布団へ運んだ。
体力をほぼ使い果たして台所へ戻ると、置きっぱなしにしていた荷物の山が日鞠のことを出迎えた。
日鞠は長いため息をついた。
ぐったりしながら片づけていると、荷物の中に一通の封筒を見つけた。
佐々木さんは買い出しの時に郵便局にも立ち寄るので、そこで一緒に受け取ってくれたらしい。
差出人の名前が妹になっていたので、日鞠は急いで開封して文面に目を走らせた。
冒頭には「誕生日おめでとう」の文字が色鉛筆で書かれている。
「あ」
日鞠はようやく、今日が自身の十七歳の誕生日であることに気づいたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます