第5話 若様のテスト

「それじゃあ日鞠さん、頑張ってくださいね。私が申し上げるのは筋違いかもしれませんが、咲夜様のこと、どうぞよろしくお願いします」


そう言って、八重が屋敷を去ってから三日後――。


「で、どうして日鞠ちゃんはげっそりやつれてるの? やっぱ仕事大変?」


庭で挨拶ついでに颯太と立ち話をしていた日鞠だったが、颯太からの鋭い指摘に「ハハ」と乾いた笑みをもらした。


「そんなにひどい顔してます?」


「うん。すげー疲れた顔してる」


颯太の言うとおり、日鞠はたしかに疲れていた。


ただし肉体的にではなく、精神的にである。


咲夜に日鞠を解雇する権利はないと知って一安心したものの、そばで働くのはやはり緊張を強いられる。


しかもここ数日、咲夜は不機嫌なのか、見るからにピリピリとした様子だった。


「慣れてきたら少しは楽になるかと……」


そう答える間にも、思わずため息が出そうになる。


「まぁ元気出しなよ。風に春の気配が混ざってきたから、もうすぐここの庭も見頃だよ」


颯太はいかにも嬉しそうな表情である。


たしかにここ数日、朝の空気が少しぬるんできているのは日鞠も感じていた。


春になって暖かくなれば、妹の体もきっと楽になるはずだ。


頑張るぞ、と日鞠は自分に活を入れて仕事に戻った。


しかし、なかなか思いどおりにはいかないのが現実である。


咲夜の昼食を用意し、食べ終わった頃合いを見計らって膳を下げに居間へ戻ると、咲夜はあまり食事に手をつけていなかった。


日鞠は思わず咲夜に尋ねた。


「あの、お口に合わなかったでしょうか?」


「別に。食べる気がしなかっただけだ」


咲夜は素っ気なく答えた。


でも、と言いかけて、日鞠は口をつぐんだ。


咲夜は壁にもたれて本を読んでいて、話しかけてくるな、と言わんばかりの態度である。


仕方なく、日鞠は黙って膳を片づけた。


八重から咲夜の食欲には波があると聞かされてはいたが、今日は朝食もほとんど食べていなかった。


もしや日鞠の料理の味つけに問題があるのではないかと、どうしても気になって悩んでしまう。


咲夜の体のことを考えれば、なおさらだった。


せめて少しでも何か口にしてもらえないかと考えて、八重の作ったお菓子がまだ残っていたのを思い出した。


小麦粉をこねて作った焼き菓子で、クッキーというのだそうだ。


口に入れるとほろほろとほどけて甘い味が広がっていく。


あれならお茶を飲むついでに食べてみる気になるかもしれない。


昼食を片づけ、しばらく経ってから日鞠はお茶の用意をして居間に向かった。


玄米茶とクッキーを盆に載せ、ふすまの外から声をかけた。


「咲夜様。お茶をお持ちしました」


部屋の中に気配はあるのだが、返事はなかった。


茶も不要なのか、と日鞠が気落ちしながら台所に引き返そうとした瞬間、部屋の中でどさりと物音がした。


「咲夜様?」


やはり返事はなかったが、嫌な予感がしたので今度はふすまを開けると、中で咲夜が倒れていた。


「咲夜様っ」


日鞠が慌てて近寄ると、咲夜はしんどそうにまぶたを持ち上げ、日鞠をじろりとにらんだ。


「許可なく近づくなと言ってあるだろう」


「そんなこと言ってる場合ですか」


日鞠はあきれた。


言いつけに背く気はなかったが、体調不良となれば話は別である。


こういう時のために日鞠が世話係として雇われているのであって、ここですごすごと引き下がれば、それこそ職務怠慢で解雇されかねない。


日鞠は咲夜の額に手を当てた。


咲夜はぎょっとしたように目を見開いたが、日鞠はさほど気にせず、払いのけられる前に手を引っ込めた。


「熱はなさそうですが、しばらく横になってください。お布団敷きますね。窓は閉めますよ」


案の定、開いたままの障子窓に手をかけると、咲夜は声を荒げた。


「やめろ。空気がこもるだろ」


「でも今開けっ放しにしておくのは」


春めいてきたとはいえ、山奥のせいか風に当たるとまだ少し肌寒い。


「もう知ってるだろ、俺の体のことは。大量の薬と体の中のバケモンのせいで、風邪はひかないし体温はいつも一定だ。それより甘ったるい匂いのせいで、頭がガンガンする」


咲夜はそう強固に主張したが、風邪をひかないからといって、体を冷やしていいはずがない。


日鞠も譲るつもりはなかった。


年下と知ったせいか、妹の世話をしている時と同じような気分にもなっていた。


妹はおとなしい性格で、これほど自己主張は激しくなかったが、それでも時折ぐずつくことはあった。


看病とは忍耐だ。


「わかりました。それじゃあ窓は時々換気のために開けるので、今は閉めさせてください。その代わり、うちわで風を送りますから。ほら、どいてください」


日鞠は咲夜が反論する前に、立ち上がって布団を敷き始めた。


それから台所にあった酢飯用のうちわを取って戻ってくると、咲夜は布団の中に入っていた。


口論するのが面倒になったのか、障子窓もきちんと閉めてある。


本当に具合が悪いらしい、とかえって心配になってくる。


ここ数日不機嫌そうに見えたのも、体調のせいだったのかもしれない。


桐生院に今すぐ連絡したほうがいいのだろうかと迷ったが、とりあえずしばらく様子を見てから決めることにし、壁の近くに腰を下ろした。


咲夜が寒くならない程度にうちわであおいでいると、そのうち部屋の中にふわりといい香りが立ち込めてきた。


ただし理性を失う類のようなものではない。


それよりも、うららかな春の日差しに包まれて、体いっぱいに春の息吹を吸い込んだ時のような心地がした。


颯太から春の話を聞いたせいかもしれない。


ここしばらくずっと張りつめていたせいもあり、日鞠は思わずまどろみかけた。


「おい」


鋭い声にはっとし、とろんとしていたまぶたを力いっぱい開くと、咲夜が布団の中からこちらをじっと見つめていた。


「おまえ、今眠りそうになってただろ」


「も、申し訳ありません。つい、うとうとしてしまいました」


日鞠は失態を取り返そうと、パタパタとうちわで再びあおぎ始めた。


「やめろ。髪が乱れる。そんなに強くなくていい。それよりもう少し近くに寄れ」


そう言われたので、日鞠は膝で数歩ほどにじり寄った。


咲夜は日鞠の動きを黙って観察していたが、再び口を開いた。


「もう少し近くに寄れ」


言われたとおり布団の端まで近づくと、咲夜はまだじっと無言で日鞠を見つめていたが、やがておもむろに口を開いた。


「おまえ、本当になんともないのか?」


日鞠は咲夜が何を言っているのかすぐにはわからなかったが、先日の桐生院の話を思い出し、ぶんぶんと首を縦に振ってうなずいた。


「ちっとも。これっぽっちも。まったくなんともございません!」


日鞠としては咲夜に安心してもらいたい一心だったのだが、どういうわけか、日鞠の答えを聞いた咲夜は、一瞬だけ面白くなさそうな顔をした。


「へぇ。なるほど。たしかに大丈夫なのかもね。桐生院も自信満々だったし」


「はい。先生からもテストして問題なかったと太鼓判をいただいております。だからどうか大船に乗ったつもりで」


今はゆっくりご養生ください、と言うつもりが、咲夜が突然日鞠の腕をつかんで体を引き寄せたので、言葉が尻切れとんぼになった。


「あの、咲夜様?」


「桐生院の話を真に受けるつもりはない。俺がテストしてやるよ」


そう言って、咲夜は日鞠の顔を自分の胸元に押し当てた。


離れようとすると、咲夜は日鞠の頭をますます押さえつけてくる。


前にも思ったが、細いのに腕力はある。


布団の上で隠れて筋力でも鍛えているのではないか、と疑ってしまいそうだ。


「どんな感じだ」


日鞠の耳元で咲夜がささやくように言った。


距離が近いと、香りも濃くなる。


むせ返るような、春の息吹。


「手をどけてください」


「テストだぞ? きちんと答えるまでだめだ」


日鞠はまた頭突きを食らわせてやろうかしらと思ったが、先ほどはたしかに具合が悪そうだったので、ぐっと我慢した。


忍耐忍耐、と心の中で唱えながら、正直に答えたほうが早く解放してもらえそうだと日鞠は判断した。


「実家の……裏庭に積んであった藁と同じ匂いがします」


日光を十分に浴びた藁を思い浮かべながら、日鞠は答えた。


近くにいると、思わず顔をうずめたくなるような、そんな幸せな太陽の香り。


日鞠としては誉め言葉のつもりだったが、腕から抜け出して咲夜の顔を見ると、咲夜はなにやら不満げな顔をしていた。


「この俺が枯草と同じだと?」


もしかして咲夜は藁をよく知らないのだろうか?


日鞠は説明しようかと思ったが、咲夜はぐいと日鞠を押しのけると、こちらに背を向けて布団に寝転がった。


「もういい。さっさとあおげ」


「え、それじゃあ私、もしかして合格ですか? そういうことですよね!?」


「うるさい」


不機嫌そうな咲夜の声に、日鞠は結局どっちなんだろうと考え込みながら、咲夜が寝息をたてるまで、ずっとそばにつき添っていた。

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