第3話 花嫌いの若様

「十六歳、なんですか……?」


八重に若様こと咲夜の年齢を教えられ、日鞠は衝撃を受けていた。


今は三月。


日鞠は四月生まれなので、もうすぐ十七歳になる。


あそこまで人を食った態度の人間をこれまで見たことがなかったので、咲夜のことを勝手に自分より年上だと思い込んでいた。


まさか年下だったとは。


「学校には行かれてないんですか」


日鞠はふと気になって質問した。


お金持ちのご令息は高等学校に進学するケースが多いが、咲夜の部屋には制服や鞄など学生の必需品が見当たらなかった。


邸宅も山中にあり、周囲には学校どころか人家さえまばらな環境だ。


「咲夜様は小さい頃から持病を抱えていらっしゃるので、学校にはずっと通われていないんです。以前ご実家で暮らしていた時は、家庭教師の方が教えにいらっしゃっていたみたいですね。蔵書をたくさんお持ちなので、今はご自分で本を読んで勉強していらっしゃるのかと。私もあまり詳しくはわかってないのですが」


八重の説明を聞いて、なるほど、と日鞠は納得した。


日鞠はほんの少し読み書きを教わった程度だが、それでも教室でみんなと一緒に教科書を声に出して読むのは好きだった。


本は高級品なので、読書なんて今は夢のまた夢ではあるが。


その後も日鞠は八重から細々としたことを含めて仕事を教わっていった。


備品をしまっている部屋があるというので、二人してその部屋に入ってみると、照明のスイッチを押しても明かりがつかなかった。


「あら、電球が切れちゃってるわ。颯太そうたくん、今日は来てるかしら」


「そうたくん?」


日鞠が聞き返すと、八重はおっとりとうなずいた。


「庭師の男の子です。気さくな子で、いろいろと手伝ってくれて。日鞠さんにも紹介したいですし、いるかどうか見に行きましょう」


日鞠と八重は庭に出た。


とにかく広い庭である。


母屋の南に位置し、大きな池には橋がかかり、小舟が岸につないである。


植え込みが多く、土地の起伏を利用して滝や小川も流れていた。


計算しつくされた自然美という印象だが、ぴしっと窮屈な感じはしない。


庭にはりめぐらされた小道は慣れないと迷路のようで、日鞠はきょろきょろしながら八重の後ろをついて歩いた。


ちょうど庭を半周したあたりで、八重が目当ての人物を見つけて声をかけた。


「颯太くん」


少し先で木の剪定をしていた青年がこちらを振り返った。


「あ、八重さんだ」


颯太はハサミを地面に置くと、人懐っこい笑みを浮かべてこちらへ近づいてきた。


短い髪を無理やり後ろで一つ結びにして、頭に手ぬぐいを巻いている。


颯太は八重の隣に立っている日鞠に目を留めた。


「あれ、新しい人?」


「そうなの。私の後任で来てくれた青空日鞠さん。日鞠さん、こちらさっき話した庭師の颯太くんです」


「よろしく!」


元気な青年である。


「こちらこそよろしくお願いします」


日鞠も颯太にぺこんと元気よく頭を下げた。


八重が電球の件を伝えると、颯太は快く引き受け、さっそく母屋まで移動して電球を交換してくれた。


「助かるわ。本当にいつもありがとうね」


「へへ。俺も八重さんにはいつもお世話になってたし。八重さんはいつまでここにいるの?」


「今週までだから、あと三日ね」


「そっか。寂しくなるなぁ。俺、今週はもう今日しか来れないんだよね。後でまた挨拶しに行くから」


そう言って颯太は庭へ戻っていった。


「なんだか気持ちのいい人ですね。颯太さん」


「そうなのよ。たしか十八歳だったかしら。頼りになるし、日鞠さんとも年が近いから、一緒に仲良く働いてください」


それを聞き、ここでうまくやっていけるのかと心配していた日鞠は、気持ちが少し明るくなった。




夕方になり、離れの外で干していた洗濯物を日鞠が取り込んでいると、颯太がやって来た。


「あ。えーと……日鞠ちゃんだ」


颯太は腕に新聞紙でくるんだ花束を抱えていた。


赤い椿の花である。


「きれいですね」


思わず感嘆の声をもらすと、颯太は口の端をにかっと上げた。


「庭に咲いてたのを剪定したやつなんだけど、きれいだから八重さんに渡そうと思って。お世話になったから感謝の印で。八重さん、中にいる?」


「はい。たぶんお部屋で荷物の整理をしてると思います」


「じゃあ上がらせてもらうね。あ、そうだ。はい」


颯太が花束の中から一本だけ枝を抜いて、日鞠に差し出した。


枝には、艶やかな花が三つ咲いている。


「少ないけど、これは日鞠ちゃんに。これからよろしくっていうお近づきの印で」


「わぁ、ありがとうございます」


日鞠と颯太は互いに和やかな表情を浮かべていたが、颯太はふと心配そうな顔つきになった。


「八重さんがいなくなった後、日鞠ちゃん一人なんだよね? 大丈夫なの?」


「管理人のご夫婦がすぐ隣に住んでいらっしゃいますし、なんとかなるかと」


「そっか。まぁ雇われたってことは、若旦那に耐性があるってことか。ごめんごめん、変なこと聞いて。俺とあんま年齢が変わんない娘さんに見えたから、ちょっとだけ気になって」


ベテラン八重さんから日鞠がきちんと仕事を引き継げるかどうか、颯太が心配してくれているのかと思ったが、どうも会話がかみあっていない感じがした。


しかし確かめる間もなく颯太は八重に挨拶をしに行ったので、日鞠もすぐにその話は忘れてしまった。




夕食後、日鞠は前日と同様に咲夜の寝室を整えていた。


布団を敷き、本人から言われたとおり、障子窓も開けて風通しをよくしてある。


また開けっ放しで寝たりしないだろうかと少し心配だったが、言いつけなので仕方がない。


用意が終わって部屋をぐるりと見渡すと、なんとなく殺風景な気がした。


本当に、なんにもない部屋である。


日鞠だって部屋に持ち物は少ないが、それよりもさらに少ない。


簡素の美学を追求しているというより、単なる空っぽの寂しい部屋、という印象だった。


床の間に置かれた空っぽの一輪挿しを見て、日鞠はふといいことを思いついた。


ぐずぐず残って部屋の主と不必要に鉢合わせたくはなかったが、今の時間帯は入浴中だと八重さんに聞いているので、急げば間に合うはずである。


日鞠は離れの自室に戻ると、颯太からもらった椿の枝先をぱちんとハサミで切った。


一輪だけ赤い花をつけている短い枝を手に、小走りで咲夜の寝室に戻ると、一輪挿しに椿を活けて水を足した。


もう一度部屋を眺めてみると、椿の花があるだけで格段に華やいで見える。


よし、と心の中でうなずき、ふすまを開けて出ていこうとしたところで、ちょうど部屋に入ってきた咲夜とぶつかりそうになった。


「申し訳ありません」


昨晩や今朝と同じ失敗をしないよう、日鞠はさっと体をよけた。


咲夜も驚いた様子だったが、特に何も言わなかったので、日鞠はほっとしてそのまま部屋を出ようとした。


が、しかし。


「ちょっと待て」


冷たい声が響いた。


なんだろうと振り返ると、咲夜が床の間を指さしている。


「あれはおまえがやったのか?」


「はい」


咲夜の顔がみるみる険しくなっていった。


何かまずかっただろうかと日鞠が動揺していると、咲夜は大股で床の間に近づき、椿の花をつかんで、花びらをむしり取った。


「勝手な真似はするな。俺は花がこの世で一番嫌いなんだ」


そう言って、手にしていた椿を日鞠に投げつけた。


花びらと枝が無残な姿で散らばっていく。


「片づけておけ」


そう言い残して、咲夜は部屋を出ていった。


言われたとおり、日鞠は布団の上の赤い花弁を拾い集めた。


枝も拾い、立ち上がる。


片づけはすぐに終わったが、部屋の中は先ほどよりも寒々しく感じられた。

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