第2話 若様の言いつけ

翌朝、日鞠は目の下に隈をこさえた状態で母屋の台所に立っていた。


使用人用の離れの建物は二階建ての洋館だが、若様が生活している母屋は和風の平屋造りになっている。


趣のある外観だが、中の設備はすべて最新式で、調理の時に薪で火をおこす必要もない。


やかんで湯を沸かしていると、勝手口から初老の小柄な女性が入ってきた。


「あら、日鞠さん。おはようございます。早いですね」


「おはようございます、八重やえさん」


日鞠は頭を下げた。


八重はここで十年ほど働いているそうだが、都心で暮らす息子夫婦のもとに身を寄せることになり、それで日鞠が後任として採用されたらしい。


今週末に出立するので、それまでの間に日鞠に仕事を引き継ぐ予定となっていた。


一緒に朝食を準備して居間で若様の膳を整えていると、八重が思い出したように「あら、いやだ」と口にした。


「お薬を持ってくるのを忘れてしまいました」


「お薬?」


日鞠が聞き返すと、八重が説明してくれた。


「お医者様が特別に調合した薬を朝食の時に必ずお出しする決まりなんです。日鞠さんにその置き場所を説明しようと思っていたのですが、うっかりそのまま台所を出てきてしまって」


「じゃあ私が代わりに若様を起こしておきましょうか? 八重さんは先にその薬を取りに行かれてください」


「あら、大丈夫ですか?」


はい、と日鞠はうなずいた。


昨晩、布団を敷いた時に、若様とは一応の面識はある。


それに薬は飲み忘れると大変だ。


「じゃあそうさせてもらいますね。後から薬箱の場所は説明しますので」


八重はそう言って、居間を出ていった。


日鞠は若様が寝ている部屋のふすまの前で膝をつくと、深呼吸してから中に声をかけた。


「おはようございます。そろそろ起床のお時間です」


しばらく待ってみたが、寝室からはなんの反応もない。


何度か呼びかけても返事がなかったので、日鞠はそーっとふすまを開けた。


中からひんやりとした空気が流れてきて、思わず身震いする。


布団の上で若様が丸まっているのが見えたので、日鞠は迷った末に布団へ近づいた。


「おはようございます」


控えめに呼びかけたが、やはり反応はない。


布団からのぞく顔に目をやると、白磁のようになめらかな肌がバラのように上気し、さながら眠り姫のようである。


このまま額縁におさめて眺めていられそうな美しさだが、なんだか様子が変な気がして、日鞠は思いきって若様の肩を軽くゆすってみた。


着物と布団が、露を含んでじっとりと冷たくなっている。


日鞠ははっと顔を上げた。


庭に面した障子窓から外気が流れ込んできている。


季節は早春だが、朝晩はまだ冷える。


まさか窓を開けっぱなしにして寝たのだろうかと若様を見やると、若様はちょうど目を覚ましたところだった。


「誰だ、おまえ。八重はどうした?」


若様は日鞠のことを覚えていない様子である。


怒るべきか拍子抜けするべきか迷うところだが、若様が薬を服用中と知り、日鞠は自然と妹に接している時のような心持ちに切り替わっていた。


「八重さんは薬を取りに行きました。ほら、起き上がってください。布団も着物もすぐに取り換えませんと。体が冷えて風邪をひいてしまいます」


そう言っても、若様は不機嫌そうに眉間にしわを寄せるだけだった。


「うるさい。俺に構うな。明け方になってようやく眠れそうになったっていうのに」


「そういうわけには。風邪を甘くみてはいけません。もしこじらせたらどうするんです」


すると、布団にはりついていた若様が不意に背中を起こし、日鞠の手首をつかんだ。


体のバランスが崩れ、空いていた片手をとっさに床につくと、日鞠の手のひらに温かい何かが触れた。


なんだろうと視線を下に向けた日鞠は、さぁと青ざめた。


そちらの経験はまったくないが、自分が男性の触れてはイケナイものに触れてしまっていることだけは理解できた。


硬直しかけたが、何事もなかったかのように振舞わねばと、日鞠はゆっくり手を引こうとした。


が、その手も押さえつけられた。


こいつ変態か、と真っ赤になった顔を上げると、若様はいとも涼やかな表情のまま、笑みさえ浮かべてこう言った。


「俺よりおまえのほうが熱がありそうだな。大丈夫か」


日鞠は絶句しかけたが、きっと相手をにらみ返した。


「手をお放しくださいっ」


今度は怒りで顔を赤くしていると、若様はしげしげと日鞠を見つめた。


「おまえ、昨日の頭突きの奴か」


青空日鞠あおぞらひまりですっ」


やけっぱちで答えると、若様は日鞠をさらに引き寄せ、耳元でこうささやいた。


「いいか、新入り。よく覚えておけ。一つ。俺に許可なく近づくな。一つ。部屋の風通しはよくしておけ。ご心配いただかなくても、この程度の気温じゃ俺は風邪をひかない」


どういう意味だろうと日鞠の頭に疑問符がいくつも浮かんだが、そこへ薬箱を持った八重が寝室の外の廊下を通りかかった。


「あら、咲夜さくや様。おはようございます。珍しいこと。まだ起きていらっしゃらないかもしれないと心配していたのですが。そちら、私の後任の日鞠さんです」


「今、本人の口からも名前を聞いた」


いったいどういう神経をしているのか、若様は日鞠の両手首を押さえつけたまま、八重と会話をしていた。


日鞠は八重に背中を向けている位置だったので、どうか八重さんに見えてませんようにと祈りながら身を固くしていると、若様は急に日鞠を突き放して立ち上がり、居間へと移動した。


「日鞠さん。お布団の片づけ、お願いしますね」


そう言って、八重も居間へ移動する。


放心状態で布団を片づけながら、自分にあの若様の世話役が本当に務まるのだろうかと日鞠は先が思いやられた。

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