花守の少女
かなた
第1話 とんでもない若様
(なんでこんなことになったんだっけ……)
給金のいい仕事の募集があるのを知って面接を受けに行ったのが一週間前。
とあるお金持ちのご令息のお世話係で、住み込みの仕事である。
少し変わった面接だったが、数多くいた応募者たちの中から幸運にも選ばれて、その場で即採用となった。
それからドタバタと身の回りの様々な手続きを済ませ、気合を入れて今日から新しい職場で働き始めたわけなのだが、お世話をするべき若様は日中見かけないまま前任者から細々としたことを教わり、つつがなく一日を終えようというところで、日鞠は初めて会った青年に押し倒されていた。
まったく訳がわからない。
ただ若様の部屋の寝床を整えに来ただけだったのに。
いきなり部屋に現れた青年に「お前は誰だ」と詰問され、きちんと答える間もなく敷いたばかりの布団の上に転がされた。
ここにいるということは、おそらく彼こそ日鞠の仕える相手なのだろう。
月明りしかない暗い室内でも、一目でそれとわかるほどの冴え冴えとした美貌の持ち主である。
体つきはほっそりとしていたが、押さえつけられた手首も、両ひざではさみ込まれた胴体も、日鞠が逃れようともがいてみせても、びくともしなかった。
少しはだけた着物からのぞく胸元から首筋には、風で舞い散ったような花びら模様が、入れ墨のようにくっきりと浮き上がっていた。
そしてなにより、この周囲に漂う、むせかえるような芳香――。
その香りに覚えがあり、日鞠は一週間前の面接会場での出来事をふと思い出した。
志望者たちは大きな部屋に全員入れられて、面接が始まるのをしばらく待っていたのだが、急に部屋の中に煙が充満して、その場は大騒ぎになった。
扉は外から鍵がかかっていて出ることかなわず、誰もが袖やハンカチで口元を押さえた。
そのうち日鞠を除く全員が酩酊状態に陥り、中には服のボタンを外したり、持っていた扇子で火照った顔をあおぐ者が続出した。
日鞠は近くにいた女性を介抱しながら、なんだかマタタビを与えられた猫の群れの中にいるような錯覚を起こしたが、それからしばらくして換気扇がゴウゴウと音をたてて作動し、部屋の中に面接官たちが入ってきた。
面接官たちは、なぜか全員マスクで顔を覆っていた。
「皆様、大変に申し訳ございません。部屋の空調に故障があったようです。念のためこれから皆様を医務室へとご案内させていただきます」
面接官の一人がそう告げ、部屋の中にいた志望者たちは部屋の外へと案内された。
日鞠も人の流れに乗って外に出ようとすると、面接官に「あなたはこの部屋に残ってください」と言われ、一人だけその場にとどめられ、いろいろと質問をされた。
後から振り返るとそれが面接だったわけなのだが、志望動機や職務経験などについてはほとんど聞かれず、先ほどの煙を吸い込んだ時の体調や感覚についてばかりしつこく尋ねられた。
まったく違和感がないわけではなかったが、別に支障をきたすほどでもなかったので、素直にそう答えると、面接官たちはマスクをつけたままうなずき合い、日鞠はその場で合格を言い渡された。
なので、その面接の時の煙のことは強く印象に残っているのだが、今、目の前から漂ってくる芳香は、その時の煙と同じ香りがした。
しかも組み敷かれた体の自由を取り戻そうと抵抗すると、相手がそれを許すまいとして互いの体がさらに密着し、香りがますます強く漂ってくる。
あの時と同じ香りだけど、まったく同じではない。
日鞠は香りを吸い込んでいるうちに、頭がくらくらしてくるのを感じた。
体が急速に熱を帯び、目がうるんで涙がこぼれそうになる。
そんな日鞠を美しい若様は黙って冷然と見下ろしていたが、その冷たいまなざしに、日鞠の中でふつふつと怒りが湧いてきた。
雇われの身だろうと、我慢できることとできないことがある。
日鞠は己を叱咤し、まだ自由のきく首から上を思いっきり持ち上げた。
ごつん、という鈍い音と共に日鞠の頭部に鈍痛が走る。
体を押さえつけていた力が緩み、すかさず日鞠が尻もちをついたまま後退すると、若様も布団の上で尻もちをついていた。
どうやら頭突きがきれいに決まったらしく、若様はあごに手を当てて顔をしかめていた。
その様子を見て日鞠は大いに留飲が下がったが、若様にじろりとにらまれたので、慌てて日鞠は立ち上がり、ぴょこんと頭を下げた。
「新入りで勝手がわからず、大変に失礼しました。おやすみなさいませっ」
早口でまくしたてて部屋を飛び出し、使用人が寝起きする離れの建物に向かって走った。
広い庭園をつっきりながら、自分はとんでもない職場に来てしまったのではないかと日鞠は後悔しかけたが、すぐにぶんぶんと首を横に振って弱気を追いやった。
辞めるわけにはいかないのだ。
病弱な妹の治療代に充てるため、給金を前借りしたのだから。
あんな非常識な若様の一人や二人くらい、妹の体のことを考えればどうってことはない。
そう自分を励ましながら、はたと「もし若様に明日の朝一番にクビを言い渡されたらどうしよう」という点に思い至り、来て早々まんじりともできずに一夜を明かす羽目になった。
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