言わぬが花

蔦田

言わぬが花

 クシュン、と起きざまにくしゃみが出た。躰の内から飛び出た音に驚いて、ぱちぱちと目を瞬かせてしまう。テレビの電源を落としたようにぷつんと突然目が覚めたような感覚にどうにももったいない気分になりながらも、枕元のスマホを見れば時刻は朝の八時、起きるにはちょうどいい時間だった。ベッドから抜け出そうともぞりと身を捩ると、隣からううんと唸る声がする。

「ん、おはよ……」

「おはよう。ごめんね、起こしちゃった?」

「ううん、ちょうど起きかけてたところ……」

 寝ぼけまなこを擦りながら優くんがこちらを見つめていた。起き抜けの少し掠れた声が耳朶を擽ることに気を取られていると、伸びてきた腕が私の頬に手を添え、少しかさついた唇が私のそれに一度、ごくあっさりと触れた。そのまま私の目と鼻の先でにへらと笑って、瞼がゆっくり重みに負けて、手から力が抜けて落ちる。随分浮かれているようだわ、と少し呆れ、しかし満更でもない気分になりながら、聞こえてきた小さな寝息をそのままに私は寝室を後にした。

 洗面所の鏡の前で、私は両手で自分の頬を包んでみる。柔らかい手のひらとしっとりとした指の感触。彼の指は少し硬くて暖かかった。

 やっぱり、違う。


「ねえ、遥ちゃん、聞いてる?」

 呼び声にハッとして肩を揺らすとテーブルに腕が当たって、食器が擦れてカチャリ、高くてざらついた悲鳴が上がる。ごめん、ぼうっとしてたと呟くように声に出しながら彼に視線を向ければそこには少しむっとした顔。それから、少し冷めたバタートースト、湯気の出ていないコーヒーの入ったお揃いのマグカップ。その少し奥にある白い花瓶に活けた小ぶりの黄色いミモザは、一週間前はふわふわとした小さく丸い可憐な花が華やかだったが、少しずつ乾いて色褪せてきて、いくつかの花は力尽きて落ちていた。

「最近なんだか心ここにあらずって感じ。まさか、俺に隠し事でもしてる?」

「ええ? そんなことないよ」

 そんなことない。

 ああ、でも。視線を右上に彷徨わせながら考えると、ふと思いつく。

「もしかしたら、少し疲れているのかも」

「そっか、確かに一緒に住み始めてまだ二週間経ってないし、慣れないよね……。変なこと聞いてごめんね」

「ううん。というより、優くんはむしろ新婚生活に浮かれすぎ」

「だって毎朝顔が見られるのが新鮮で」

 気まずげに頬を掻くのを見ながら、マグカップを両手で持ってぬるくなったコーヒーをごくりとひと口飲みこめば、溶け損ねたインスタントコーヒーの粉がどろりと黒く固まって底に沈んでいた。

「ああ、そうだ。今日午後から薫と会うから帰りは少し遅くなるかも」

「わかった」

 彼はうなずくと大きく口を開けて、残りのトーストを頬張った。

 私はそれを見て、知らず息を吐く。

 ……ごめんね、嘘をついた。ほんとうは隠している。引っ越してから、ここ最近、不思議な夢を見続けていることを。


 気がつくと花の香りの中にいる。白粉のようにほんのり甘く、蜂蜜のようにとろりと絡む、優しい香りではあるが、私の躰を抱きすくめるかのように纏わりつくそれはあまりに濃密で噎せ返るほどだった。それから肌をなにかがふわふわと擽っていることに気づき、ああどうしてか目を瞑ったままだった、と思った瞬間、目を開けてはいけないよ、と囁く声がして、私はそれを甘受している。きっとこの空間は明るいのだろう、瞼越しにも柔らかな光が感じられて恐ろしいとは思わない。そのままただジッとしていると、たぶん、人の腕が伸びてきて、私の頬をすこし冷えた手が包み、さらりとした肌質の親指がすすすと優しく頬を撫でる。すらりとした指に猫でも撫でるかのような動きで顎下を擽られ、こそばゆくてくすくすと笑ってしまうが、慈しむかのようなそれが随分心地よくて、どうしたものかと困ってしまう。されるがままになっていると、その手は顔を離れて私の左手を取って、手の甲から薬指までをそうっとなぞり、手を握ろうとするように少し力が籠められる。そして、そこで、夢は終わる。

 日が経つにつれだんだんと花の香りが薄くなっている気がするが、まだ夢の中であの声に逆らって目を開けたことはない。

 そんな夢を、見続けている。



 喫茶店の窓硝子から昼下がりの陽光がうらうらと差し込んでいる。メニュー表を睨みながら迷いに迷ったケーキは、欲張って二個食べることにした。特別好きなものは、どちらかひとつしか選べないなんて我慢できないから。薄い輪切りのオレンジがのったガトーショコラと、りんごのタルト。ガトーショコラをひと口食べれば、オレンジの爽やかでほろ苦い香りと濃厚ながら上品な甘さが口の中に広がった。

「今朝もね、優くんが私の頬に触れたときに、ああ、あの夢の手はもう少し撫でるような感じで、ひんやりして気持ちよかったな、なんて比べちゃったの。夢なのに温度も感触も匂いも何もかもがあまりにも鮮明で忘れられなくって。彼に不満があるわけじゃないのに」

 なんて不実なんだろう。私は小さく溜息を吐く。

「こんなことまで何もかも話せる相手なんて、薫だけだよ」

 テーブルの向こうで、薫はへえ、と言いながら目を細めて私の話を聞いている。彼女の前に置かれたナッツ入りのチーズケーキは手が付けられていないままだった。

「彼との出会いも、愚痴も、惚気も、プロポーズの言葉まで、全部話してくれたものね」

「全部聞いてほしかったんだもの。でも、全部知ってるから結婚式で誰よりも先に泣いてたよね」

「だって、ほんとうに幸せそうな顔してたから、堪えきれなくって」

 ほんとうに、世界で一番綺麗だったの。攫ってしまおうかと思ったくらい。

そう言って悪戯に笑う薫の、薄らとそばかすの広がる白い頬に落ちた睫毛の影が震えているのが、あんまり綺麗で、思わず目を奪われた。それがなんだか気恥ずかしくて、誤魔化すようにりんごのタルトを口に運べばとろりとした甘酸っぱいりんごと香ばしいアーモンドクリームが舌に混ざり溶けて頬が緩む。

「優くんと愛を誓ったけど、それはそれとして薫は私の特別だからね」

 薫は一番大切な親友だから。

「あはは、嬉しい」

 私も遥のこと、いっとう好きよ。

「ねえ、それで、もしまた怪しまれても、こんな夢を見たってこと隠し通せると思う?」

「どうかなあ、昔から全部顔と態度に出ちゃうでしょう」

「そうなんだよね」

「あのね、秘密はいつか明らかになるの。だからそうなる前に、何でもないことかのように打ち明けてしまうのがいいんじゃない?」

「言っちゃうの?」

「そう。とはいえ全部言ってはいけないよ、一部分だけでいいの。でもそうすれば、堂々と後ろ暗いことなんて何もないように言えば、その奥の隠しておきたいことにはきっと誰も気がつかない」

 もし気づかれて明るみに出たら、そのときはもう流れに身を任せるしかないけれど。

 例えば? と私は問う。

「そうね、例えば、実はひんやりと冷たい腕がどこからか伸びてきて私の手を握る夢を見たんだよね……とかね」

 なるほど、と頷いて、忘れないように脳内で反芻する。

 ……それにしても。

「なんだか怖い夢を見たって話みたいになるね」

「ふふふ、冷たい手は亡霊のものなんだよ」

 未練があるんじゃない? と言って、薫はふざけたように肩をすくめた。

 未練。

 もしもそうだとしたら、随分と優しくて臆病な亡霊ね。

 ケーキにフォークを刺すと、カチャリ、金属と陶器が擦れる高い音が思いもよらず大きく響いた。

 その音でふと思い出したのは、食卓を彩るあの春色。

「そういえば先週届いたミモザまだ飾ってあるよ。好きな花だからすごく嬉しかった」

「突然送り付けちゃってごめんね、喜んでもらえたならよかった」

 覚えていないかもしれないけれど、とはにかんで薫は言う。

「高校時代、仲良くなってすぐのころ、私のそばかすを見てミモザみたいでかわいいって言ってくれたでしょう。そばかすがあるのが私、小さいころから嫌だったけど、嬉しくって。それからずっと好きなのよ」



 今夜もまた同じ夢を見た。噎せ返るほどだった甘い香りはやはり柔らかく薄まり、肌を擽るあのふわふわとした感触も霞のように朧気だ。この夢を見始めて、七日目。目を開けてはいけないよ、と、懇願のようにも唆すようにも取れる声音が私の鼓膜を揺らす。あのひんやりとした私を甘やかす指が、いつものようには触れてこず、名残惜しげに頬だけそっと撫でて離れたから、たぶん今夜が最後なのだろう。このまま川を渡って彼岸へ行くつもりでいる、そんな予感がした。だから私は。

 瞼に力を込める。

 睫毛がふるりと震える。

 秘密を明かせば夜が明ける。

 そうしたら。


 目の前には、優くんの顔があった。

「おはよ、寝言言ってたよ」

「えっ、うるさかった?」

「ううん、かわいかった」

 私の頬を少しかさついた暖かくて大きな手が包んで、そっと唇を落とす。

 落とそうとした。

 正確には、唇を隠すように持ち上げた私の手のひらに落とした。

「なんで駄目なの」

「まだ歯を磨いていないからイヤ」

「昨日は気にしていなかったのに?」

「今日は駄目な気分なの」

 許して、と手を彼の手に重ねて頬擦りする。気まぐれだなあと笑う彼を尻目に、するりとベッドから降り、スマホを掴んで寝室を飛び出した。

 

「ねえ優くん、昨日私に隠し事ないかって聞いたじゃない」

「うん、聞いたね。……え、もしかして」

 あるの?

 あるよ。

「実はね」

 ここしばらく冷たい腕が私に向かってそうっと伸びてくる夢を見て、どうしたらいいんだろうって考えていたんだよね。

「そ」

 そうなんだ……。

「環境の変化で、疲れてたんだよ、きっと」

 少し怯えたように腕をさすってそう言った。

 大丈夫、明日からはもう見ないから。

 硝子瓶の中のミモザを見ながら私はそう独りごちた。一週間かけてほの甘い香りは薄まり、柔らかな春の黄色は少しだけ色褪せ、ふわふわとしていた花は小さく縮んでしまったが、自然に綺麗なまま乾燥しきってドライフラワーとなっていた。それをそこに閉じ込めたのは今朝のこと。

 秘密を知ったからといって今までと全てが変わってしまうなんてことはないけれど、知らなかったころには二度と戻れない。でも、困ったことに、あるいは幸いなことに、戻れなくていい、なんて思っている。

「そうだ、今度の連休、薫と泊まりで旅行してきてもいい?」

「いいけど、ふたり、凄く仲が良いよね」

 なんだか妬けちゃうな、とおどけたように片眉をあげる。

 許してね。だって。

「優くんも薫も、私の特別なの」

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言わぬが花 蔦田 @2ta_da

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