第六話 世界について

 公園には花がたくさん咲いているけれども、ぼくはどの花にどんな名前がついているのか、ほとんど知らないな。

 そんなことを考えながら、公園に向かう。

 昨日はなんとか、お母さんに外出がばれなかった。

 今日もたぶん、大丈夫だろう。

 青空がきれいだ。


「ぎゅっとしてもいいかな?」

 公園の長椅子に座っていた首領は、ぼくにたずねる。

 それは最初に会ったときに聞いた言葉。

 もちろんぼくは「うん」とうなずく。

「ありがとう。今日は良い天気だね」


 首領に抱っこされることが、ぼくは好きだった。

 強すぎないちょうどよい感じの力だし、それにじんわりと首領の体は暖かい。ぼくの肌が冷たいからだろうか、その熱が心地よい。

 きっと「離して」と言えば、すぐに離してくれるだろう。なぜかそんな確信があった。本当に短い間に、ぼくは首領を信頼したようだった。

 10年後の今から思えば、なんて奇妙な関係性。

 10年前のぼくは、なんて不可思議な日々を送ったのだろう。


「私はいくつもの世界を支配してきた」

 首領は唐突にそう言った。

「失敗もたくさんあったけれども、成功もあった。ヒーローたちをすべて倒し、星のあちこちに私の旗を立てたときは、たまらなく嬉しかった。私に付き従ってくれた配下のみんなには感謝してもしきれない。私の誇りだよ」

「どうして首領は、世界を支配しようと思ったの?」


 ぼくは首領に聞いてみた。だって前に言っていたではないか。支配とは、とてもむずかしいことだと。そんなむずかしいことを、どうして首領は繰り返し行おうとするのか。

 そんなにも、世界というのは魅力的なのか。


「そうだね……うん、いろいろあるけれども、やっぱりこれだな。私にとっては、これだ。他の色を塗り潰そうとした時に何が起きるか見てみたかった」

「それは、どういうこと?」

「私はね、どう言い訳しても結局はいじめっ子なんだ。他の子が描いた絵に自分の絵具をぶちまけてしまうんだ」

「それはたしかにいじめっ子だ」

「で、もちろん喧嘩になる。私のやっていることはこれの繰り返し。でもね」


 首領はぼくを強く強く抱きしめる。ちょっと痛かった。けれど、それを止めようとは、思えなかった。

「私が塗り潰そうとした絵の色は、そう簡単には消えなかった。色は、いつだって、自らの色を取り戻そうとする」

 色の反抗。世界の反抗。

 世界とは、強いものなのか。


「取り戻し方は多種多様だね。闇を否定するだけじゃなく、一部を受け入れるやり方だってある。大事なのは、どれだけ己の色を未来に残せるか。そして、どれだけ己が今この瞬間生きていると叫べるか」

 今の首領の声を聞いて、ぼくは思った。

「私の暗黒に負けない色彩を、これからも見ていきたい。いつまでも、いつまでも」

 これこそが『祈るような声』というものかもしれない、と。


「……さて、それじゃあ。今日も魔法を見せてあげようか」

 ぼくは空を見た。

 たまには。

 ぼくからリクエストしてみてもいいかもしれない。

「首領。ぼく空を飛んでみたい。できるかな」


 幼心にも、ちょっと幼稚かなという恥ずかしさがあった。

 でも、それでも。

 誰だって鳥に羨ましさを感じたことがあるはずだ。

「どうかな」

「いいとも!」

 首領は満面の笑顔で親指を立てた。


「よし! しっかりつかまっているんだよ」

「え、え」

 すぐに行けるのか。

「いくぞぉ!」 

 そう首領が言った瞬間。


 ふわり、と。

 浮遊感が生まれた。

 少しずつ、少しずつ。ぼくは首領に抱っこされたまま、空中に浮かび、上に上がっていく。


「わ、わあ」

「500メートルくらい上昇するよ」

「そんなにも」


 屋根を超え、電柱を超える。

 小鳥がぼくの顔のすぐ前を横切った。もうここは鳥たちの世界だ。

「もっともっと上に行くよ」

 鳥たちすら、見下ろすのか。


 あれは、ぼくの家の屋根だろうか。今あそこにはお父さん、お母さん、そして妹がいる。勝手に外に出たこと、ばれていないだろうか。

 小学校、図書館、駅前の商店街。見慣れた建物たちが、だんだん小さくなっていく。カラスの群れが、ぼくたちのずっと下を飛んでいる。


「はい、到着」

 高くて怖い、という感覚はなかった。

 地上500メートル。あっという間にここまできた。

「すごい」

 そんな言葉を、ふと口にする。

「どうすごいと思った?」

 首領がぼくにたずねた。


「いっぱいあるから、すごい」

 まず、たくさんの家がある。あの家の一つ一つに、人が暮らしている。彼らはどんな生活を送っているのだろうか。どんなことを考えているのだろうか。

 車がたくさん走っている。それぞれに種類があるはずだ。乗り心地もそれぞれ違いがあるのだろうか。

 家の近くに小さな神社があるなんて知らなかった。どんな神さまがいるのだろうか。

 ぼくの眼下にはいろんなものがある。それがどこまでも広がっている。

 

「さっきぼくの目の前を通った鳥の名前はなんだろう。あ、ぼくの小学校の屋上ってあんな感じなんだ。うん? なんであの家の屋根は虹色なんだろう?」

「夢中になっててかわいい~!」

「ねえ、首領」

「うん」


 ぼくは、首領に言った。

「いっぱいあるのが、世界なんだね」

 世界はこんなにも存在にあふれている。

 もっといろんなことを知りたいなと、ぼくは思った。










 






 


 次の日の朝。日の出の時刻。

 目を覚ました時に感じたのは、違和感。

 

 カーテンが閉まっているので、まだ部屋は薄暗い。それでも、二段ベッドの下に、なにか大きなものが落ちていることは分かった。

 なんだろう。昨日の夜にはなかったのに。

 ベッドからはカーテンが手に届く。

 ぼくは、カーテンを思いっきり開けた。


 赤い。

 部屋が赤い。

 あのときのトカゲよりも赤い。


 血だ。

 部屋は血に満ちていた。

 白かった天井はもう赤色のほうが多い。

 床は、血が水たまりをつくっている。

 そして、水たまりの真ん中に、それはあった。


 それはぐちゃぐちゃになっていた。

 頭部は原型をとどめていない。肉も、骨も、脳みそも、窮屈な元々の形を捨ててしまった。みんな辺り一面に飛び散っている。

 背中からは骨が生えていた。まるでステゴサウルスみたい。

 お腹が破れ、腸がはみ出ている。

 うつ伏せになった、ぐちゃぐちゃの、死体だ。


 死体はパジャマを着ていた。

 妹が昨日着ていたパジャマである。

 この死体は、妹だ。


 この瞬間、ぼくは全てを理解した。

 妹はとてつもなく高いところから落とされて、それでこんな風にぐちゃぐちゃになった。体の前面から落ち、風船のように破裂したのだ。

 天井に穴は開いていない。真上から落ちてきたのではない。

 部屋の中での、墜落死。

 これもまた、魔法によって行われた殺人である。

 

 日の出の光が強くなり始めた。

 雀の鳴き声はまだ聞こえてこず、本当に静かだ。

 妹の死体を、ぼくはじっと眺めた。

 もう妹は喋ることはない。死んだのだから。

 不思議なものだ。あんなに騒々しいやつだったのに。


 人間の体は死ぬと冷たくなるらしい。

 妹も冷たくなり始めているのだろうか。

 死体が光を浴びている。

 朝の光に、妹の熱が溶けていく。


 

 

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