第三話 暗黒について
次の日。
この日もぼくは公園へ行き、首領と会った。
首領は同じ長椅子に座り、同じ白と黒の服。
もうお決まりというやつなのだろう。
「はい、むぎゅー」
これもお決まり、だ。
膝の上。首領の胸が背中にあたる。ふにっと柔らかい。
「ふあ」
「うん? あくびなんてして。眠たいのかな?」
「昨日の夜、妹がうるさかったんだ」
ぼくと妹は同じ部屋で寝起きをしている。
ベットは二段ベットで、上がぼく、下が妹。
まだ5歳の妹は、夜に一人でトイレに行くことができず、いつもぼくを起こして同行させているのだ。
「なにが怖いんだろう。一人でいけばいいのに。そしたらぼくは眠っていられる」
「きみは一人で夜のトイレに行けるんだね」
「もちろん」
「それはすごい」
そうだろうか。すごいとは思えない。
ぼくにとって、夜の闇は恐怖の対象ではなかった。
ただ単純に暗いだけ、見えにくいだけではないか。前進するのが面倒くさくなるだけではないか。その程度にしか考えられなかった。
「いやいや、そう考えられることはすごいことだよ」
そうなのだろうか。よく、分からない。
「よし! それじゃあ、ほかのみんながどうして暗いのが怖いのか、考えてみようか」
夜が怖い理由。今まで考えたこともなかった。
首領は話を続ける。
「まず一つ目。お化けが怖いから♪」
お化けの話なのに、なんだか妙に楽し気だった。
「お化け、お化けか。お化けに驚かされたら、たしかにびっくりするかも」
おどろおどろしい存在が急に出て来るのだとしたら、たしかに闇というのはビクビクしながら警戒すべき対象、なのかもしれない。けれど。
「でも、お化けに会ったことないよ、ぼく」
それは大抵の人間にとってそうなのではないだろうか。お化けを見たことはなんてない。
テレビ番組などでお化けを扱ったものはよくあるが、その中でも本当に事実なのかという点については、ぼかされる。たぶんほとんど作り話なのだろう。
「お化けはいるかもしれない。でも、本当に襲われた人は知らない。だから、ぼくも一生お化けに会うことはないんじゃないかな」
そうであるならば、お化けを恐れて常に夜を怖がり続けるというのは、無駄なことなのではないだろうか。
「まあ実際にお化けはいるんだけどね」
「え」
「それでもきみがいま言った通り、お化けに会うことはめったにない。普通の人が会うことは、ほとんど一生ない。だからお化けはあくまで可能性の問題だということになるね」
可能性の問題というと闇夜に潜む犯罪者もそうかもしれない、と首領は続ける。
「犯罪者はお化けよりもずっと多くいる。実際に警戒しなくてはいけない。襲われたら、怖い。でも闇夜の中に常に犯罪者がいる、というわけじゃないよね。いない可能性の方が大きい」
みんな頭ではそう理解しているのだろう。それでも『もしかしたらいるかもしれない』と思ってしまう。
「そこで、二つ目。『分からない』が怖い」
ああ、そうか。なにか具体的にこれが怖い、ではなく、『もしかしたら』が怖いのか。
得体のしれないモノが潜んでいるかもしれない、その可能性が怖いのか。
「ああ、でも首領」
「なにかな」
「暗いところに隠れているのが、みんな怖いっていうのも変じゃない? もしかしたら楽しい何かが隠れているかもしれないよ」
考えてみればそうだ。
闇から飛び出してくるのは、おいしい料理を持ったコックさんかもしれない。
おもしろいお笑い芸人さんかもしれないし、漫画家さんかもしれない。
なにが言いたいのかと言うと。
怖い可能性だけではなく、楽しい可能性だってあるのではないだろうか?
「……ふふふふふ」
何故だろうか。急に首領の抱きしめる力が強くなった。楽しそうに、笑っている。
「いいことを言ってくれるね、きみは。いやはや嬉しいですよ、私は。まあ、それはさておき。確かに楽しいという可能性があるとしたら、怖いという可能性は、どうしても薄まってしまうよね。じゃあ、何なんだろう。何が暗闇のほんとうの怖さなんだろう」
ここでぼくは、奇妙なイメージを持った。
夜、一人でトイレに行くとき。
すぐ隣にある闇が。
ぼくに語り掛けてくる。
「それは『自分がとても大きいものに吞まれてしまうのが怖い』だよ」
首領は言葉を続ける。
「闇は、大きい。途方もなく、大きい。どこまでいっても闇は闇であり、限りがない。そんな大きな存在の前に、一人で立つとき、人は自分がまるで吞み込まれてしまったような感覚を覚える。もう逃げ出せないのではないかという感覚を覚える」
闇自体がとてつもなく巨大な怪物である、とでも言うのだろうか。
「そうかもしれないね。怪物は人間を呑み込む。そして、呑まれてしまった人間は、自分が自分なのか、それとも闇の一部なのか、分からなくなる」
「分からなく、なる」
「光の中にいれば、人は己の存在を確かめることが出来る。でも、暗黒に喰われたのならば……闇に溶けていく」
首領は、言った。
「それは闇による完全なる支配だ。自分と他者を同じにするという支配だ。暗黒とは、他者を征服する存在なんだ」
「ねえ、首領は自分のことを暗黒の支配者って言ったよね。首領も何かを、征服するの」
「私は暗黒そのもの。もちろん、呑み込むよ」
パンッ!
その時、首領が手を叩いた。
「さて! それじゃ今日も魔法を見せてあげよう。今日は影の魔法だよ」
魔法か。
楽しみだ。
「よーく、私につかまってるんだよ? ちょっとあぶないところに今からいくからね」
「どこへいくの?」
笑みを浮かべながら首領は一言。
「影の中、だよ」
風景が一変する。
いや、風景が消滅した。
あたり一面が暗くなったのだ。また、空の色を変えたのかと思い、上を向く。
そこには円形に区切られた穴があった。
陽光がその半径一メートルほどの穴からしか、届いていない。あとは四方八方が、闇だ。
「あの穴から降りてきたんだよ。ゆっくりと沈んでおります」
降りてきた? 沈んでいる?
確かにぼくはいま首領に抱きかかえられながら、ゆっくりとこの空間の下へ向かって降りている、そんな感覚がする。
海の下へ潜るように、沈んでいる。
「いま私たちは影の中にいるんだよ」
「影の中?」
「私たちが座っていた長椅子にかかっていた木陰。その中へダイブしてみました!」
「影って入れるの?」
果てのない闇が広がっている。まるで深海だ。息は出来るけれども。
「影の中にはね、いろんな生き物がいるんだよ。ほら、あそこ!」
首領が指さしたほうを見る。上方の穴から差し込む光で、なんとか、見えた。
「わあ」
驚いた。びっくりした。
目の前にクジラがいた。
確かあれはザトウクジラではないだろうか。そのように見える。
ぼくらの周りを、ゆっくりと泳いでいる。
物珍しそうに、ぼくらを見ていた。
「サメやプレシオサウルスなんかもいるかなと思ったんだけど。残念ながらちょっと見当たらないね」
そんなものまでいるのか。
公園の木陰の中に。
クジラは、ぼくらを見ることにすぐ飽きたらしい。悠々と泳ぎ去っていく。
闇の彼方へ、楽しく自由に泳いでいく。
「暗闇は怖い、けどね」
首領はぼくに言った。
「きみがさっき言った通り、楽しいこともいっぱいあるよ」
確かに、そうだ。
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