♰Chapter 24:徘徊する屍者
暖かい夜だった。
じっとりと汗ばむような湿気とのっぺりとした温度。
月は陰ることなく煌々と地上を照らしている。
そんな間もなく日付が変わりそうな頃合い。
女吸血鬼は静謐に満たされたショッピングモールにて、人の血を啜っていた。
――じゅるじゅる。ぴちゃぴちゃ。
普通の人間が見聞きすれば吐き気すら覚えるほどの凶悪な状況。
吸血されている女性にすでに息はなく、為されるがままに弄ばれる。
「――ふふふ、この子は当たりだったかしらね。なかなか美味しかったわ」
骨と皮だけになった死体を残すと立ち上がる。
深紅の瞳は吸血行為を行った後だとなおのこと爛々と輝いている。
「でもこれは飢えをしのぐ程度のもの。ご馳走とは言えないわ」
次なる獲物を近場から連れ込もうと思案する。
――願わくば若く、美しく、穢れを知らない無垢の女性。
吸血鬼の力はそのままそれまでに取った食事の質と量で決まる。
もちろん生まれつきの才能も多分に関わるが、それも食事次第で覆すことが可能だ。
「あら……?」
そこで女吸血鬼は気付いた。
自分の領域に不心得者が侵入したことに。
「男……それに女もいる、かしら。どちらも美味しそうな香り――でも嫌いな香り」
清純な血液の匂いに混じる無数の血の匂い。
それは周囲に散らしていた
「どうせなら軽く遊んであげようかしら」
ふふふ、と暗闇に不穏な笑みが響いた。
――……
「匂うな」
「っ……そんなに匂うかしら……?」
何を驚くことがあるのか、水瀬は手の甲を嗅いでいる。
形のいい鼻が小さく動く。
その様子からようやくオレは両者の齟齬に気付いた。
「ええとだな。返り血の匂いじゃなくてこのショッピングモールがきな臭いという意味で言ったんだ」
「そ、そういうことね」
水瀬は自身の勘違いを恥じるようにスカートの裾を払う。
誤魔化し方は下手だがそれも愛嬌だろう。
それに屍者の血液は浴びたとしても次の瞬間には灰に変わっている。
匂いも残りようがないし、少なくともオレには感じ取ることができない。
目的地のサンセットモールに到達する百メートル手前から徐々に影に包まれた屍者が多くなってきていた。
青々と茂る街路樹の葉陰から現れる蝙蝠のような存在や、地下駐車場から湧き出してくる犬のような存在。
陸空を満たすように続々と集まってくる敵性個体をオレと水瀬で着々と制圧していた。
蝙蝠は超音波での索敵、高速振動による不可視の音波攻撃を、犬は牙と爪による単純な攻撃を仕掛けてくる。
蝙蝠の方が厄介ではあるが音波攻撃の命中精度はさほど良くない。
最初こそ喰らって眩暈を起こしたが、すぐに立て直せる程度のものだ。
数は多いが一個一個は総じて脅威にはならない。
恐らくは魔法使いを想定したのではなく、一般人を標的にした雑兵だ。
苦もなく場を制圧するとモールの入口までやってきた。
モールの入口である自動ドアはすでに施錠されている。
完全に営業時間を外しているのだから当然と言えば当然だ。
それだけではない。
入口の硝子にはべっとりと粘着質な肉塊が張り付いている。
まるでこねくり回した粘土のようだ。
おかげでモール内がどうなっているのかは見通せない。
「人外の”屍食鬼”がいるからには盟主の予知は正解だったみたいね。でもこれは防壁……かしら? 敵が拠点にしているならどこかしらの入口は解放されていると思っていたけれど……この分だと他も締め切られているでしょうね」
「そうだな――」
どくん。
どくん、どくん。
よく見れば網状の肉塊で構成された壁が脈打っているようにも感じる。
規則的に明滅し、拡縮を繰り返す。
「……動いたな」
「……動いたわね」
オレと水瀬は顔を見合わせて気持ち悪さを共有する。
生き物ではないことは確かだ。
だが心臓の鼓動のような印象を受けるのも事実。
「ここでこうしていても埒が明かないな。水瀬の固有魔法でどうにかできるか?」
「やってみるわね」
大鎌で一閃。
硝子と肉塊が青い軌跡に粉砕されるがその奥にも別の肉塊が網のように張り付いていた。
「私の固有魔法で死を与えることができるのは『一撃』に付き『一つ』まで。これが何重にも張り巡らされているなら魔力の浪費になってしまうわ」
ここでの大きな魔力消費は好ましくない。
本番前の練習に全力を使い切るようなものだ。
オレは少し考えてから犬の屍食鬼が出てきた地下駐車場を思い出す。
「なら地下駐車場から行ってみるはどうだ? この建物の構造ならモール内直通のエレベーターがあるはずだ」
「試してみる価値はありそうね」
すでに屍食鬼の新たな増援はない。
移動するなら今がチャンスだ。
「ねえ、八神くん」
ふと水瀬は四階の高さに視線を誘導する。
「あそこに人影が見えないかしら?」
見れば確かに人影らしきものが手を振っている。
オレたちが気付いたことを確認するとモール内に消えていった。
「……薄気味が悪いな」
まるで不出来な三流ホラー映画の中に迷い込んでしまったようだ。
「早く来て、と言わんばかりの挑発だものね。この機会を逃せば拠点を移されるかもしれない。相手がその気でいるうちに急いだほうがよさそうね」
「ああ」
地下にも数体の人外屍食鬼が残っていたが難なく撃破。
エレベーターホールに到着するとまずは非常階段扉を確認する。
「……ここも上と同じだ。何かが詰まっていて開かない。恐らくはあの肉塊だろうな」
「頼みの綱はこのエレベーターということね」
パネルを押し、光が点滅することを把握する。
次いで上部の階層表示が正常に動いていることを確認する。
――どうやら電源は生きているようだな。
「一応動きはしそうだな。だが他の入口が徹底的に潰されていた以上、この侵入経路は意図的に空けられていたと見るべきだ。内部や動作時に罠がないとは限らない」
「それでもそこに道があるなら進みましょう」
ちん、という到着音と共に鉄扉が開く。
警戒しながらも乗り込み、屋上を除いて最上階である四階のパネルを押す。
ささやかな駆動音と共に上昇する感覚。
「っ!!」「……なんだ!」
それからすぐに一階で不可解な揺れと共にエレベーターが停止した。
扉は中途半端に開き、一階を映している。
水瀬は躊躇わずに扉を粉砕。
オレたちは一階への侵入に成功する。
「八神くんの言うとおり、妨害はされていたみたいね」
「閉じ込められたり、地下三階まで叩き落とされなかっただけマシだな」
「……あまり笑えない冗談ね」
モール内は当然だが耳が痛くなるほどの静寂に満ちている。
昼間はあれほど人気に満ちているというのに、今はその真逆。
雰囲気も心なしかおどろおどろしい。
無言のまま警戒を高め、モール内を歩く。
まだ敵の気配を感じ取ることはできない。
ふと水瀬がオレを呼ぶ。
「……八神くん」
「なんだ?」
「つかないことを聞くけれど、貴方はお化けとか幽霊は信じないタイプ?」
「ああ、非現実的なものは全て信じていない」
その言葉に彼女はほっとしたように息を吐く。
「前にも話したと思うけれど、私はその……そういう類のものが苦手なの。だから近くにいてくれないかしら?」
「それは構わない。最低でも見える範囲にはいることにしよう」
「迷惑かけて、ごめんなさい」
申し訳なさそうに俯く彼女。
怖いものは仕方がないだろう。
「大丈夫だ。この程度は迷惑のうちに入らない」
ゆっくりとモール内の通路を歩く。
幸いにして一階から四階までが吹き抜け構造になっている箇所が多くあり、屋上硝子からの月明かりがある程度の視界を確保してくれている。
テナント全てをじっくりと見ていきたいのは山々だがそれはできない。
百五十店舗を超えるうえに各店舗内までは月明かりが届き切らない。
いちいち見て回るのも非効率だし、危険だ。
それに相手は挑発するように手を振ってきた。
あれは恐らくここまで来れるなら来い、という意思表示。
少なくとも相手の姿が見えた四階を目指すべきだ。
磨かれた床を歩く二人の足音。
静寂に響くそれだけの音。
――カツン。
「っ……⁉」
異様な音が響いたのち、水瀬と肩がぶつかる。
停止しているエスカレーターの上から落ちてきたのは十字架のキーホルダーだ。
「十字架、か」
恐らくはモールを訪れた客の落とし物だろう。
端っこにでも引っ掛かっていたものが何かの拍子に落ちてきたのだろうか。
「うぅ……」
水瀬はもはや人語を失いつつある。
大鎌を握る手にもかなりの力が入っており、それに縋っているのは明白だ。
「やっぱり光魔法で軽く明かりをたくか?」
「お願い……できるかしら?」
敵からすればオレたちの位置が把握しやすくなるため、付けていなかった明かりを十個ほど生成する。
懐中電灯よりもやや明るいくらいの燈火だ。
それらのうち一個を手元に残して他を全てモール内の周囲の通路に飛ばす。
まったく足りないが無いよりはましだろう。
外部から取り入れた魔力を魔法に変換する過程で魔力回路を使う。
その結果として魔力回路が摩耗し、赤熱する。
要するに短時間に魔法を頻発し続けることはできないのだ。
後々の戦闘も含めるとあまり無駄遣いはしたくない。
「多少視界は効くようになったか」
「ええ、少しほっとしたわ」
――カタン。
水瀬が悲鳴を上げるより先に彼女の肩に触れる。
「さっきの音と併せて二度はおかしい。上に何かいるな」
「何かって――」
どちゃっと不定形の何かが落ちてきた。
潰れたトマトのような造形。
腐り落ちた鼻に窪んだ眼窩。
両手両足は昆虫のような多足。
およそこの世のものではない死体の塊。
それがうねうねと気味悪く蠢いている。
「水瀬、苦手ならオレが――」
身体の側面を青い軌跡が通過する。
それも一度ではなく三度。
全て水瀬の固有魔法〔生命の破綻〕による必殺の斬撃だ。
肉塊は無残にも三度の死を味わい、動かなくなる。
「はあっはあっ……!」
技を繰り出した彼女の方もかなり辛そうだ。
「……本当に大丈夫か?」
水瀬は一度大きく深呼吸する。
気持ちを整えると力強く頷いた。
「もう大丈夫。何も問題はないわ」
「ならいいが無理はするなよ――!」
オレと水瀬はその場を後退する。
次の瞬間には先程の肉塊と造形は似ているが、明らかに動きが俊敏な敵影。
すでに水瀬に恐怖の色はない。
「こんなものが何体も徘徊しているってことか!」
「でも一体一体はそこまで強くないわ!」
水瀬が大鎌で肉塊の腕を切り落とす。
暴れ狂うそれはどろどろとした液体を周囲にまき散らす。
――床が異臭を放ちながら溶けている。
「酸!」
彼女の警告に回避行動を取る。
それからまっすぐに突っ込んでくる屍食鬼を短刀でいなした。
それは方向転換して再度の突進を仕掛けようとしてくる。
「ハアッ!」
大鎌の一閃。
瞬く間に灰になって消えた。
「一気に上に向かうぞ!」
「ええ!」
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