♰Chapter 17:癒冠のアングストハーゼ

八神が港湾の調査に出ている頃。



――……



水瀬邸の周囲では徹底した防衛網が敷かれていた。

いまだかつて洋館の敷地に侵入できた者はいない。

それはひとえに複雑に構築されたアーティファクト結界のおかげである。

結界に登録していない人間は全て洋館に辿り着く前に別の道に通じてしまうのだから。


「まさか素直に朱音が私兵を貸してくれるとは思わなかった」


水瀬の感想は耳に装着したEAによって、東雲に伝えられる。


”別にあんたのためなんかじゃないわよ。ほんとは嫌味の一つ二つでも吐いてやろうかとも思ったけどやめたわ。前回あんたの相棒を危険に晒した自分への罰。そう思って今回だけ特別に何も言わずに私兵を貸してやったのよ”


決して素直には認めない。

それでも水瀬は感謝していた。


「ありがとう」

”……だからそういうんじゃないって言ってるでしょ? まあいいわ。それでそっちはどういう状況なわけ?”


水瀬は洋館から街並みへ一本道で下れる坂を歩いていた。

周囲には油断なく警戒を張り巡らせ、異常があれば即座の戦闘も辞さない。

洋館の敷地は内外問わず、東雲から借り受けた私兵が警戒にあたり、洋館には様々な魔術的罠が仕掛けてある。


「洋館の防衛は侵入の糸目さえ思いつかないと思う。貴方の私兵は周囲を巡回しているし、私は予測襲撃地点の坂を下っているわ」

”あんた一人だけで?”

「ええ」

”……損な性格してるわ”

「ええと、どういう意味?」

”いーやなんでもない。それじゃあたしも任務あるし……無事に帰れるといいわね”


東雲なりの不器用な心配の言葉は水瀬に伝わっている。

通信はそれきり途絶える。


夜気に包まれた人気のない道。

あまり使われなせいか、道路は舗装された当時のまま身綺麗に保たれている。

ガードレールの外側を見ればぽつぽつと人家の燈火。

もう少し行けばすぐに都心の高層ビル群が目に付くようになる。

明かりの一つ一つにその数だけの物語が広がっている。


「八神くんもきっと大丈夫」


魔法使いは言葉を重んじる。

言葉に力――いわば言霊が宿るから。

だからこそ大規模な魔法を行使する際には基本的に詠唱が必要となる。

省略する場合もあるとはいえ、言葉の力は大きい。


水瀬のこの場合は、詠唱を成さない言霊――いわゆるおまじない程度のもの。

現実の起こりに何ら干渉しないが心を軽くする気休めの。

ふとこの手のおまじないが得意な魔法使いの顔を思い出す。


「ちゃんと効くおまじないを教えてもらっておけばよかったかもね」


夜景を目に焼き付けた水瀬はそっと目を瞑る。

それからそっと首のチョーカーに触れる。


首元で調整されていた血液の量が格段に増える。

同時に魔力回路が歓喜によって拡張し、魔力が全身に満ちる。


木々のざわめきが聞こえない。

いつの間にか坂道の中腹に大型の犬がよだれを垂らしていた。

ただの犬ならばそれでいい。

だがそれは異様に紅い目を爛々と滾らせ、瘴気を纏っている。


それは普通ではなく、異常であった。


「こんばんは。言葉は分かるかしら?」

”グルるるぅぅぅ……”


意思の疎通は不可能。

知性も理性も感じ取ることはできない。


「そう。悪いけれどここから先は通せないわ」


濃密な『死』の気配。

そこに存在するだけで体感気温は数度低下する。

宵闇の守護者に相応しい漆黒を基調にした大鎌。

その刃は紺碧を照り返す。


”がぅぅぅぅぅぅううう!!”


その気配に怯えることなく獣は坂を駆ける。

その速度は並の獣より早い。

左右に不規則に進路に揺さぶりをかけるたびに瘴気が揺れる。

捕捉しづらくはあるが、彼女にとって目くらましは意味を成さない。


「――!」


鋭い気合と共に振られる大鎌。

それは獣の牙に難なく受け止められる。

強靭な顎が二度と離すまいとでも言うように牙を突き立てる。

だがその行為は水瀬の前には命取りだ。


「これでチェックよ」


大鎌から青みがかった魔力が漏れる。

それから構わず再度大鎌を振り切った。


”がぁぁぁぁ……!!”


牙が砕け散る。

死を成す大鎌にあらゆるものは意味を喪う。

知性があればそれを理解することもできただろうが、獣は訳も分からず悶絶している。


口内を傷付けた以上、その生き物は近く必ず死を迎える。

それが彼女の固有魔法であり、暴走が危惧される由縁であるのだから。

苦しませるのも不本意なので、とどめを刺そうと大鎌を構えたとき、ありえない現象を目の当たりにする。


「『癒冠の血盟クラティオ・ネクサス』」

「嘘……」


――牙が再生されていく。


魔法には回復系統のものが存在しない。

通用魔法しかり、固有魔法しかり。

疲労を軽減したり、暗示による精神の強化はある。

それでも傷の完全な治癒を成す魔法はない。

まして死の固有魔法を当てられたばかりなのだ。


そうであるのに目の前の、これは。


「まずい……っ!」


不可解な事象を前にして行動を停止してはならない。

水瀬は完全な再生が成される前に仕留めようと再度の攻撃を仕掛ける。

だがそれは中断を余儀なくされる。


「――来ないのか、人間」


黒い霧が螺旋状に渦巻き、人を象る。

肌は蒼白で血の気は全て紅の瞳に持って行かれたよう。

男の出現と同時に犬型の獣は姿を消した。


「その姿――」


かつて見た屍食鬼と特徴が似通っている。

ただ違うこと――それは顔も身体も造形は整っており、その点での醜悪さはないということだ。


「ああ、これか? 獣の形じゃ敵わないと判断したまでだ。にしても」


青い魔力をチラつかせる大鎌を見て頭を掻く。


「その大鎌は脅威だな。直感だが直撃したら即死だろ。牙だけで助かったぜ。ったく化け物じみた人間と遭遇したもんだ」


自らの鋭く尖った牙を抜いて見せる男。

どうやら大鎌の一撃は牙だけを犠牲にして免れていたようだ。

だがそれだけでは説明が付かない。


口内を傷付けていなかったのだとしても至近距離で死の気に当てられたはず。

即死と言わずとも一日と経たずに命が尽きるほどの残滓は浴びたはずなのだ。

だがそれでも眼前の男は不敵に笑って見せる。

何らかの異能が働いていたことは確定的だ。


不躾に睨みつけられても水瀬は動じない。

不測の事態に直面してもすぐに頭を切り替えることが生き延びることに繋がるから。


「貴方こそ獣から屍食鬼になるなんて――いえ吸血鬼かしら。随分と芸が多彩なのね」

「驚いた。人間ごときに屍食鬼だけでなく吸血鬼の存在も知られているのか。これも屍食鬼が増えた弊害ってやつか」


吸血鬼は大きな溜息を吐く。


「貴方が屍食鬼を増やしていると見てもいいのかしら?」

「俺が? くく……あーはっはっはっはっは!!」


馬鹿笑いをする吸血鬼に水瀬は動揺する。


「悪い悪い。あまりにもおかしなことを言うものだから笑ってしまった。いいか、人間。奴らは基本的には自律してるんだ。俺みたいな吸血鬼になりたての存在が屍食鬼に何か命令したところで言うことなんか聞きやしないさ。ま、例外があるとすりゃ屍冠ガダヴァ・コロナくらいか」

「それは貴方以外にも吸血鬼がいるということかしら?」

「……久々のまともな会話で調子に乗って話過ぎたな。くくっ、まあいい。久々に活きが良い人間を喰えそうだからな」


自ら吸血鬼を肯定した男の爪が瞬時に伸びる。

三十センチ程度まで伸長したそれは鋭利な鉤爪だ。

先程までの牙とは比べ物にならないリーチ。


「行くぜ!」


わずか数メートルの距離を獣以上の速度で縮めてくる。

延長した爪は地面に火花を散らしながら振りぬかれる。


「くっ!」


――反動が大きい。

重さよりは速度を優先したノックバックを受ける。

空隙を見逃さず、逆手での爪撃。


水瀬はそれを身体を捻って避ける。

合間に土魔法で生成した石弾を三発撃ち込む。

いずれも直撃すれば人体を貫通するほどの威力が込められている。


「その程度俺には何の役にも立たないさ!」


宣言通り、振り払われた両爪の薙ぎ払いで木っ端みじんだ。

細分化された破片は背後の石壁を銃創のように傷つける。


「――三割、許可する!」


大鎌と爪。

幾度となく打ち合わせても埒が明かない。

水瀬は抑制していた固有魔法の一部を開放する。


「なんだ? さっきよりも存在感が増した――⁉」


――キィン。


縦に振るわれた大鎌は防御しようとした男の爪を丸ごと叩き切った。


男の表情が曇る。

さらに速度の上がった水瀬の動きは吸血鬼の知覚を超え始めている。

何度も打ち合わせるが、再生より破壊される方が早い。


「馬鹿な……! 硬玉より硬い俺の爪が‼」


防御する術を奪われた吸血鬼は青い軌跡を見る。


「チェックメイト」


どこまでも深い鬼火のような青瞳。

大鎌から溢れ出る碧海の魔力の欠片。

夜闇に散り咲く花弁のように。


吸血鬼は最後まで理解不能な人間の強さを前にしてようやく思い至った。

人間の世には埒外の存在がいることに。


「そうか。人間の上位存在――というやつか」


諦観と賞賛。

そして寂寞の気配。


静謐を取り戻した夜に一閃。

吸血鬼の再生能力ですら働かない完全なる『死』が与えられる。

散り際にかすかに男の口が動く。


「アングストハーゼ――俺の名だ――――」


色無き灰は塵となり風に攫われていく。


「なぜ、名前を……―――⁉ っはあ、はあっ……くっ……!!」


疑問などすっ飛ばすほどの激痛に、思わず心臓を抑え地に膝をつく。

固有魔法をたった三割、解放しただけでこの体たらく。

身体中を蝕む鋭痛が魔力回路を灼き切ろうと荒れ狂う。


「お願い……止まって……!」


小刻みな呼吸を強引に深呼吸へと切り替える。

鼓動を平常に、血流に酸素を。

徐々に収まってきた衝動に息を吐く。


「統制はできてる。でも五割を超したら私の身体は――」


固有魔法の限界を把握した水瀬は強引に嫌な想像を切る。

それから大鎌を魔力に帰し、EAを起動する。


「〔宵闇〕から状況報告。吸血鬼と目される男と交戦。結果、彼は死亡したわ」

”了解。宵闇の守護者のほかに敵影を見た人はいません。後ほど報告書をお願いします”

「ええ」


オペレーターに作戦終了を告げる。

実際に吸血鬼を名乗る男と交戦していた時間は小一時間にも満たない。

それでも疲労は丸一日駆け回っていたのと同じくらいに溜まっている。

だがこの短いようで長かった夜はようやく閉幕を迎えるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る