✞Prologue

♰Chapter Pro:姫咲楓の心音

甘味、塩味、酸味、苦味、うま味。

多くの人間が感じ取ることのできる五つの味。

その感覚はどれもこれもわたしには理解することができない。


肉はゴム、魚は粘土で、野菜は小石や砂利。

焼いても、煮ても、蒸しても、生でも、どんな過程でも結果は同じ。

人間なら楽しめる”普通の食事”がわたしには楽しめない。


吐くような苦痛を得るだけの、ただの、作業。

呑むような虚無を得るだけの、ただの、消費。


”普通の食事”は人間としての理性を保つことはできるが、怪物としての理性を保つことはできない。

だから”異常な食事”が必要だった。

そうしなければ日に日に強くなる飢餓の光に焦がされてしまうから。


生への執着がなければとっくに壊れていただろう。


人間としての自我と化け物としての自我とがせめぎ合いながら、生きること。

それはまるで生き地獄を孤独に進むこと。


「――――」


縋るように握られた銀製の十字架は『救済』と『苦難』の象徴だ。


自分が、死にたくても死ねない。

――本当は死にたい。


自分を殺したくても殺せない。

――本当は殺してほしい。


そんな自らの破滅願望をこれは打ち砕き、さらに強烈な願望を思い出させる。


細かい亀裂が刻まれた正面の姿見が自分を映す。


髪はぼさぼさ。

肌はかさかさ。

手足の爪には土や砂。

何より霞んだ桃色の瞳が深紅に変質しつつある。


「……醜い」


人間でもなく、化け物にもなり切れない愚者。

あるいは世界の法則から摘まみ出された異端者。


ここは真夜中の工場地帯。

巨大な煙突から龍の吐息のように巻き上がる白煙。

ごぅんごぅんと心臓の音のように脈を打つ機械の音。


わたしはその一角――倉庫に置かれた鉄盤の上に座っていた。

騒音でしかないはずの工場の音は今では子守唄同然だ。


すん、と小さく呼吸する。


鉄扉の隙間から鉄錆と油の臭い。

そして数日ぶりの怪物としての理性を保つためのご馳走であり、犠牲者の匂い。


「――敬愛するしゅよ。願わくば小さな救いがありますように」


掠れた、小さな声。

祈りの言葉はこれから恐怖と激痛と恍惚に満ちる命に対してのもの。


赦されざる罪はいつかの裁きとなり。

生きる理由を果たしたとき、この身を破滅に導いてくれると信じて。

そう、望んで。


十字架が切られる。


生暖かい風紋を残して少女は消えた。

わずかなのち、倉庫の鉄扉には紅蓮の小花が咲き誇った。

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