第21話 ~あさきゆめみし~
外はすっかり明るくなっており、チュンチュンとスズメの鳴く声が聞こえる。
昨日の夜、長岡さんが助けに来てくれるまではヒドい大雨だったのに、今朝は晴れているようだ。
陽之助さんも、明け方はあんなに怯えて龍馬さんの腕の中で泣いていたのに、もうすっかり落ち着いている。
とても穏やかな朝だ。
「
「病弱だったの?」
陽之助さんが頷いた。
「家族からも周りの人からも、『剣術や柔術やったら出世出来れへん』言われとったんや」
そんなに体が弱かったんだ……。
確かに陽之助さんは、日の光をあまり浴びていないのか――とても色白だ。体も、優しく扱わないと折れてしまいそうなくらい、華奢な体格だった。
「それに、藩校に入る前に父上と
藩校は皆強制的に入学させられるもので、現代で言う小学校や中学校のようなものだ。
更に、陽之助さんはこう付け足した。
「紀州藩は、藩士の教育に力が入っとったんか――藩校が多いんや。特に、父上の全盛期やった頃の藩主・徳川治宝公は、藩士の教育に熱心なお方やった。せやさかい……コホッ……
藩校に入る前の幼い陽之助さんに、剣術の練習を始めさせる。そうすることで、藩校に入った後に人より早く上達させることが、彼のお父さんやお兄さん達の狙いだったんだろう。
それなのに家族や周囲の人達に、「剣術では出世出来ない」と言われてしまうなんて……。家族に認められたいと願い、健気に努力して来ただろう陽之助さんにとって、どれだけショックなことだったんだろうか?
きっと陽之助さんが言っていたように、病弱で女顔だということが原因で、彼はこれまでイジメを受けて来たんだ。
どんな風にイジメられていたのかな? 江戸で勉強していた頃は、ヤクザに絡まれたこともあったみたいだ。神戸海軍操練所でのイジメは、ヒドいものじゃなかったら良いけど……。
「本題に入るけど、坂本さんをお慕いするようになったんは、神戸海軍操練所に入ってから2年後くらいやった」
陽之助さんが龍馬さんと初めて逢ったのが、14歳の時。そしてその4年後――つまり、陽之助さんが18歳の時に京で再会し、彼は龍馬さんの誘いで神戸海軍操練所に入る。
彼が言う「神戸海軍操練所に入ってから2年後」というのは、陽之助さんが20歳、龍馬さんが29歳になった頃だろう。
「剣術が苦手やった
あの日、
陽之助さん、ずっと生きる意味を探していたんだ。尊王攘夷の志を掲げて、幕府を倒そうと熱くなっていた志士達に、付いて行けなかったんだ。
それに、講義に参加しなくて大丈夫だったのかな? 講師の人に怒られてしまいそうだけど……。
「陽之助さん、講義の間はどうしてたの?」
「……1人で……泣いとったんや」
陽之助さんが俯き、恥じらうように目を
泣いていた……!?
きっと陽之助さんは不器用で、人付き合いが苦手なんだろうな。
自ら殻を作って、誰も自分の内面に入って来ないように、自分に関わろうとする人を避け、そして拒絶する。だけど心の何処かで愛を求め、自分を必要としてくれる人を探しているんだ。
「1人で泣いとったら、塾頭の坂本さんが来られたんや。坂本さんは、泣いとった
あたしが今まで見て来た、クールで毒舌で孤高を保つ狼は、彼が弱さを隠す為の偽りの姿だったのだろう。誰かに愛されたいと願う、繊細で健気な小動物――それこそが、彼の本当の姿なんじゃないかと悟る。
陽之助さんが軽く咳き込んだ。
「坂本さんは……昔の事を思い出して泣いてしもた
数十分前、過去を思い出して泣く陽之助さんを、龍馬さんは優しく抱き締めていた。陽之助さんが龍馬さんに心を開いた9年前も、あの時と同じような感じだったのかな?
名家に生まれたが故に、心理的虐待の過去を持つ陽之助さんは、他人を避けようとして攻撃的な性格になってしまった。だけど龍馬さんに、その心の内に秘めた弱いところを受け止めて貰い、龍馬さんだけには素を見せられるようになったんだ。
「坂本さんは、ステキな夢を
日本がどうなっても良いと、未来を諦めていた陽之助さんだけど――ステキな夢を語る龍馬さんを見て、「付いて来い」と手を差し伸べられて、龍馬さんと共に日本を変えようと決意したんだろう。
「あの人は、
『唯一』という言葉が、胸に引っ掛かる。
陽之助さんにとって龍馬さんは、きっと誰よりも大好きで尊敬していて――だからこそ、ゼッタイに失いたくない人なのだろう。
あたしも、そんな存在になりたい。大好きな陽之助さんが、あたしが居ることで安らぎを得てくれるなら、それはきっと何より嬉しいことだ。
今なら、陽之助さんの龍馬さんへの
全てを捧げたいと思う程、陽之助さんは龍馬さんに救われたんだろう。
あたしが想像していたよりも遥かに、2人は強い絆で結ばれていた。
それはきっと、誰にも引き裂けないくらい強い。それが神様であっても、どんなに残酷な運命であっても、たとえ――死別したとしても。
思えば、
『
陽之助さんのこの言葉が、全ての始まりだった。
クールで毒舌なのに、何故か龍馬さんにだけは尽くそうとするその姿に、あたしは強く惹かれていた。彼のことをもっと知りたいと――そう思うようになっていた。
「悲しい過去があったんだね……」
「…………」
あたしの言葉に、陽之助さんが口を噤んだ。
――陽之助さんの笑顔が見たい。
陽之助さんの過去と、龍馬さんへの強い想いを知った今だからこそ、強くそう思った。
「陽之助さん、大好き……」
自然と零れた、「大好き」という言葉。
今、確信した。
この気持ちが――『恋』だと。
「萌華はん……」
少し目を見張った陽之助さんが、起き上がろうとする。
彼の背中に手を回して、ゆっくりと起き上がらせた後、あたしはその体を強く抱き締めた。
彼のことが大好きで、大切で――離れたくない、離したくないと強く思う。
暫くして、あたしは陽之助さんを抱き締める腕を緩めた。
女も裸足で逃げ出す程の美人顔が、あたしの目の前にある。
「……おおきに……。
柔らかそうな唇が紡ぐ愛とは裏腹に――陽之助さんは、苦しそうな顔をしているように見えた。
どうして、そんな顔をするの?
あたしは陽之助さんを見つめながら、そっと彼の白い頬を両手で包み込むように撫でる。
焦燥感に駆られた様子で、あたしを強く抱き締めて来る陽之助さん。だけど
陽之助さんは女性と接するのが得意じゃないらしく、以前も「女なんか興味ない」と言っていた。そんな陽之助さんが、自分からあたしを抱き締めて来ている。
「……陽之助さん……もしかして、ムリしてる?」
あたしの言葉に、彼は一瞬だけ目を見張った。
図星だったのだろうか? だけどこれは、ただの憶測に過ぎない。
「……別に」
一瞬視線を泳がせてそう言った彼は、突然あたしに口付けて来た。
「……ッ!」
突然の彼の行動に、あたしは大きく目を見張る。
鼓動が一気に高鳴った。
唇に押し当てられる――柔らかいもの。
言いたいことは全て、彼のそれに塞がれて、声にならない。
こんなことしても、陽之助さんが苦しいだけなのに……!!
「……ッ」
やがて、唇が放された。
陽之助さんが、何故そんなに苦しそうな表情をするのかは
陽之助さんを優しく抱き寄せて、拒絶されないように気を付けながら、あたしはそっと自分の唇で彼の唇に触れる。
貴方が傍に居れば、望むことなんて何もない。
本当に大好きで、大切な人だから。
「……愛してる、誰よりも」
どんな運命が待ち受けていようと、愛しい彼をこの手で
こんな幸せが、ずっと続いて欲しい――この頃のあたしは、無邪気にもそう願っていた。
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