第19話 ~美人薄命~
「ゴホッゴホッ……ゲホッゴホゴホッ!!」
――やがて、夜が明けて辺りがだいぶ明るくなって来た頃、だんだんと陽之助さんの咳の回数が増えてきた。
龍馬さんが立ち止まって、陽之助さんを近くの屋敷の壁にもたれかけさせる。
陽之助さんはしんどそうな顔で、姿勢を崩しながらハァハァと喘いでいた。
「大丈夫かえ?」
「ゲホ……さ、坂本さ――ゴホゴホッゴホッ!!」
彼の火照った頬に気づいたあたしは、そっとその広い額に手を当てる。
「スゴい熱……!」
確実に39度はある高熱で、とても苦しそうだ。
海援隊本部までは、まだ距離があるのだろうか? もしまだ距離があるのなら、どこか安全な所で休んだ方が良い。
ただでさえ病弱な陽之助さんのことだ――これ以上悪化したら、どうなるか
「……ちっくと、休める場所を探した方が
しばらく考え込んでいた龍馬さんだったけど、やがて再び陽之助さんを抱き上げた。
「とりあえず、相談してみるかえ。ここで考えよったち、どうにもならんき」
「だ……大丈夫です……!
痰の絡んだ激しい咳と高熱に、陽之助さんの薄い胸が上下する。
言葉とは裏腹に、苦しそうな陽之助さんを見下ろしながら、龍馬さんが強い声音で言った。
「そんなこと言いなや、陽之助。オマンは海援隊の隊士で、ワシの大事な大事な仲間やき。必ず助けちゃる」
龍馬さんが、陽之助さんを抱いたまま走り出す。
「萌華、大丈夫かえ!?」
あたしを振り返って声をかけてくれる龍馬さんに、あたしは息を切らせて走りながら頷いた。
――龍馬さんが言った通り、近江屋は割りと近くにあった。
2階建ての木製の建物で、正面右に引き戸が付いている。筆で『近江屋』と書かれた
この近江屋は、龍馬さんがよく隠れ家として使っているらしい。
龍馬さんが引き戸を叩くと、中から力士のように太った男の人が出て来た。
「ちっくとスマン! コイツはワシの部下で、陸奥陽之助ゆうがやけんど、労咳で高熱が出ちゅう!
切羽詰まった表情で一気に喋る龍馬さんを見て、男の人は呆然としている。
「……ここに来る人たちに
「
「ヘイ、すぐ布団敷きまっさかい、上がって待っとくれやす」
男の人は陽之助さんを気遣ってか――話がまとまるとすぐに、布団を敷きに行ってくれた。
あたしは陽之助さんのブーツを脱がせて、玄関に置く。
そして自分の下駄を脱ぎ、龍馬さんと共に2階に上がった。
2階には手前と奥、2つの部屋があった。陽之助さんを寝かせるのは、手前の部屋のようだ。手前の部屋にはほとんど何もなく、奥の部屋には押入れや文机などがあった。
「もう寝かしてもろて大丈夫でっせ。ほな、ワシは下に
関西出身なのか――関西弁でそう言った彼は、龍馬さんに笑顔を向けて階段を下りていった。
龍馬さんが、自分の腕の中に居る陽之助さんをそっと布団に寝かせ、立ち上がる。
するとさっきの男の人が戻ってきて、忘れ物だったのか――龍馬さんに水の入った桶と、濡れた手拭いを手渡した。
男の人に渡された手拭いを、龍馬さんが陽之助さんの額に載せる。
しばらく苦しそうに咳き込んでいた陽之助さんだったけど、やがて眠りに就いた。
「萌華、ワシはちっくと隣の部屋で
「はい」
頷いたあたしと高熱に喘ぐ陽之助さんを一瞥し、龍馬さんは奥の部屋へと消えていった。
「……」
陽之助さんが眠ってから、1時間は経っただろうか?
夢と現実の境目を行き来していたあたしの意識は、苦しげな呼吸音によって、完全に現実へと呼び戻された。
「ハァ……ハァッ……ハァッ……」
苦しげな呼吸を繰り返していたのは、やはり陽之助さんだった。
あたしは驚いて、肩で息をしている彼の顔を覗き込む。
熱が上がってきたのだろうか? まだ目は覚ましていないみたいだけど……。
陽之助さんの額に載せられた手拭いを取り、枕元に置いてある桶の水に手拭いを浸す。
冷たくなった手拭いを固く搾り、再び陽之助さんの額に載せようとして――あたしは手を止めた。否、止められた。
「……すんまへん」
蚊の鳴くような声で、陽之助さんが謝罪するのが聞こえたのだ。
「すんまへん、すんまへん……ッ」
何度も「ゴメンなさい」と繰り返し、小さく体を震わせている陽之助さん。
悪夢を見ているのだろうか?
「――
そう叫び、陽之助さんが勢いよく体を起こす。
陽之助さんが目を見張りながら、おもむろに頭を抱えた。落ち込んでいるようにも、何かに怯えているようにも見える。
目を覚ます直前、陽之助さんは「
彼の家族がどんな人たちなのかは、これまで1度も聞いたことがない。悪夢に魘されて、何者かに謝罪していた彼に――彼の家族がどう関わっていたんだろう?
イヤ、今はそんなことはどうでも良い。
あたしは、陽之助さんの背中を
「……ッ!」
ビクンと体を揺らし、陽之助さんが怯えたような目であたしを見た。
そんな目で見られたのは初めてで、あたしは一瞬思考が停止してしまう。
龍馬さんを呼ぼうと思い、あたしは立ち上がった。
「……龍馬さん、ちょっと良いですか? 何だか、陽之助さんの様子が……」
「ん? 陽之助が起きたかえ? すんぐに行くき、ちっくと待っとおせ」
襖越しに、龍馬さんの居る隣室に声をかけると、直ぐに返事があった。
「悪夢を見ていたみたいで、様子がおかしくて……」
すぐに出てきてくれた龍馬さんに、陽之助さんの様子を説明する。
布団の上で頭を抱えている陽之助さんを見て、龍馬さんが血相を変えた。
龍馬さんが急いで陽之助さんの元に行き、そっと彼の肩に触れる。
「陽之助、ワシじゃ。龍馬じゃ」
慣れているのか――龍馬さんが優しい声で語りかけ、ゆっくりと己の胸に抱き寄せた。
その広い胸に顔を
「……怒らん、といて……ッ!」
龍馬さんに強く抱かれながら、絞り出すように言う陽之助さん。
何故、そんなことを言うのだろう? 龍馬さんは怒ってなどいないし、むしろ優しく接しているのに。
やっぱり、叱られるのが苦手なんだろうか?
「昔のことを夢に見たがか?」
優しい声音でそう言った龍馬さんが、陽之助さんの顔を上げさせる。
陽之助さんの薄紅梅の頬を、雨粒のような涙が転がり落ちていた。
止まらない涙を、龍馬さんがそっと指で拭う。
「ワシは怒っちゃァせん。オマンの家族も、オマンを責め立てるヤツも、ここには
龍馬さんの言葉から察するに、陽之助さんの過去には何らかのツラい出来事があり、そのことを夢に見てしまったのだろう。
「怖い……ッ! 坂本さん、坂本さん……ッ!」
彼の広い胸に
何かに怯えながら泣く美しい部下を、龍馬さんがその逞しい両腕で抱き
「よしよし……大丈夫やき、落ち着きや。オマンは
龍馬さんは、陽之助さんの細い背中を撫でながら、優しい言葉をかけ続けている。
これほどまでに号泣し、取り乱している陽之助さんを見たのは、初めてだった。
普段はあんなにクールで気が強いからこそ、どっちが本当の陽之助さんか判らなくなる。
できることなら、苦しむ彼に何かしてあげたい。でも、それは逆効果だと思った。
あたしは、彼のことを何も知らないのだ。無責任なことは言えない。
だから、ただ傍で見守ることしか出来なかった。
龍馬さんに優しく宥められ、陽之助さんの呼吸や体の震えが治まって来る。
「……エラいすんまへん……坂本さんに、ご迷惑をおかけしてしもて……。せやけど……もう大丈夫ですさかい……」
「迷惑らァ思うちゃァせんき、謝らんで
まだ少し潤んだ目の陽之助さんに、龍馬さんが優しく微笑み掛けた。
「熱は、下がってきゆうみたいじゃにゃァ。まっことスマンけんど、ワシはまだやることがあるがじゃ。オマンはムリせんと、ゆっくり休みや」
陽之助さんを布団に寝かせた後、彼のキレイな額に手を当てながら、龍馬さんが言った。
熱が出た時はとても苦しそうにしてたけど、ピークは越えたみたいで良かったな。
コクンと頷いた陽之助さんを見届けて、龍馬さんが立ち上がる。そして、部屋を出ていった。
あたしは陽之助さんの額に、そっと手拭いを載せる。
彼がすっかり落ち着いているのを確認して、あたしは切り出した。
「陽之助さん……ずっと気になってたんだけど、どうして貴方はそんなに龍馬さんを慕ってるの?」
知りたい――彼がどんな境遇で育ってきて、どういう経緯で龍馬さんを慕うようになったのか。
天井を見つめていた陽之助さんが、あたしを見る。
「話したら
「あ……ゴメン。苦しいなら、ムリして話さなくても良いよ。何となく、気になっただけだから」
陽之助さんの熱も完全に引いたワケじゃないし、今聞かなければいけないことでもない。
だけど彼は、首を横に振って話し出した。
「――
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