第14話 ~浅葱色の狼~

「……ッ」

 陽之助さんが小さな吐息を零す。


 龍馬さんが医者を呼びに行ってから、既に30分は経っていた。

 もしかしたら、事故や戦闘に巻き込まれているんじゃないかと、心配になり始めた時だ。


「陽之助ッ!」

 と、龍馬さんの声が聞こえ、2人の長身の青年が姿を現した。


 龍馬さん、そして――黒い短髪に、白衣を着ている青年。基本的なデザインは白衣と同じだけれど、袖が着物のそれと同じように広い。


 この人は誰だろう……?


「陸奥、オマン血を吐いたがか!?」

 白衣の青年が、陽之助さんに視線を投げる。

 陽之助さんのことを知っていて、龍馬さんと共に来たということは、龍馬さんや陽之助さんの仕事仲間だろうか?


「……陽之助は労咳じゃ」

 龍馬さんが応えた。


 陽之助さんが口元を押さえて咳き込んでしまい、白衣の青年が手拭いを手渡す。彼はそれを受け取り、尚も激しく咳き込んだ。


「そうかえ……。ほいたら、んぐに建物の中に移動するぜよ。病が悪化したらいかんき」

 白衣の青年の言う通りだった。


 龍馬さんが頷き、陽之助さんの透き通るように白い顔を覗き込む。

「陽之助、立てるかえ?」

「……ッ」

 陽之助さんが立ち上がろうとして、苦しそうに柳眉を寄せた。


「陽之助さんッ」

 苦しそうな陽之助さんが心配で、あたしは彼の名を呼ぶ。


 陽之助さんの双眸が、あたしを一瞥した。


「こないなことで、ずつないとか思う程……ワイは――ッ! ゴホッゴホゴホッ……う……ゲホゲホッゴホン!!」

 何かを言おうとし――陽之助さんは、激しい咳にその薄く儚げな背中を震わせた。

 その背中を、龍馬さんがそっとさする。


「陽之助……」

 龍馬さんが、何時いつもより低い声で陽之助さんの名を呟いた。


「……ハァ……ハァッ……ハァッ……」

「大丈夫かえ?」

「……はい」

 龍馬さんの問いに、陽之助さんが彼を見上げて答える。


 そして、龍馬さんの手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。


「……おおきに、坂本さん」

「礼らァ要らんぜよ。何時いつじゃちワシが手を貸しちゃるき」

 陽之助さんが、目を伏せて俯いた。

 そして、龍馬さんに支えられながら歩いて行く。

 あたしも彼等の後を追った。



 着いたのは、木製の空き家だった。空き家になってから、あまり経っていないのだろう――中は比較的キレイだ。


 龍馬さんの話によると、彼はあたし達を路地裏に移動させた後、海援隊本部まで走った。そして、医術の心得がある白衣の青年・長岡謙吉ながおかけんきちさんと共に、雨が当たらなさそうな場所を探しながら、路地裏まで戻って来てくれたらしい。

 この空き家は、路地裏に来る途中に見つけたものだという。


「陽之助」

 龍馬さんが、地面より少し高くなっている床に腰掛け、「おいで」と言うように陽之助さんに手招きする。

 一瞬キョトンとした陽之助さんだったけれど、何も言わずに龍馬さんの隣に腰を下ろした。そしてホコリを吸わないように、手拭いを口元に当てる。


「寝よっていぜよ」

「おおきに……」

 陽之助さんが龍馬さんに寄り掛かると、龍馬さんが支えるように陽之助さんの肩に手を回した。


「ゴホッゴホッ……ゲホッ」

 龍馬さんの大きな手が、咳き込む陽之助さんの背中を擦る。


 ふと龍馬さんが顔を上げたかと思うと、あたしにも手招きをした。

「萌華、オマンも休みや。もし病が悪化したら、ワシはオマンの両親に顔向け出来んぜよ」

「……いえ、あたしは大丈夫です」


 笑顔を作って、あたしは首を横に振った。


 だけど、「あたしの両親なんて、どうせ心配しませんし」――という呟きは、心の中だけにとどめておく。


「龍馬、オマンは陸奥の病について知っちょったがか?」

 白衣の青年・長岡さんが、玄関に寄り掛かりながら尋ねた。


 再び陽之助さんの背を撫でていた龍馬さんが、顔を上げて長岡さんを見る。


「……知っちょったけんど、海援隊本部そっちへの連絡が遅うなってしもうたにゃァ。スマンかった、長岡」


 2人は同郷のようだし、互いに呼び捨てで呼んでいる。きっと仲が良く、互いに信頼し合っているんだろう。


長岡オマンも知っちゅうかも知れんけんど、1度陽之助が高熱で倒れたことがあったろう? あの後、ワシが陽之助に言うて、洪庵先生に診てもろうたがぜよ。

 それからずっと、陽之助の様子が変じゃった。急にワシの前で咳をすることが減ったがやけんど、やき言うて元気になったようには見えんかった。布団に横になる時間がなごうなって、たまに陽之助が、何時いつの間にか姿を消すこともあったがじゃ」


 陽之助さんは、何時いつの間にか眠っていた。咳も止まり、穏やかだ。

 でも――何処かを秘めていた。

 突然激しく咳き込んでしまうんじゃないかと思う程に――その透き通るように白い肌が、武士さむらいに似合わぬ線の細い身体からだが、儚げな雰囲気の美貌が、彼の病弱さを物語っている。


「聞いて良いのか判りませんけど、洪庵先生が龍馬さんに、『労咳が不治の病だということは、』って言ってたじゃないですか。龍馬さん……何かあったんですか?」


 龍馬さんのことや陽之助さんの過去、2人の関係等、聞きたいことが沢山ある。

 2人のことを、この世界に生きる人達のことを――もっと知りたい。


「――ワシは昔、母親を労咳で亡くしたがじゃ」


 ドキンと心臓がバウンドした。


 だけど、龍馬さんは構わず続ける。

「ワシは母が大好きやったき、母をワシから奪い去った労咳を憎んだがじゃ。

 陽之助が熱と空咳で体調を崩したち知った時、ワシは昔の記憶が蘇ったがぜよ。血を吐いて動かんようになった母の名を、ワシは泣きながら呼んじょった。それと同時に、陽之助がワシが憎んだ病に――労咳に罹っちゃァせんことをねごうた。

 けんどワシの願いとは裏腹に、陽之助は労咳やったがじゃ。恐らく何ヶ月も、ワシに病を隠しちょった。体調不良は高熱を出した頃から続きよったがやけんど、陽之助が激しゅう咳き込んで血を吐いたがを見て、ムリヤリ理解わからされたがぜよ」


 龍馬さんが目を伏せる。


理解わからされた……?」

 あたしは聞き返した。

 家族を、部下と同じ病で亡くした龍馬さん。これ以上聞いてはいけないと理解わかっていても、聞かずにはいられなかった。


 龍馬さんが、あたしを見て静かに頷く。

「陽之助が、やったゆうことじゃ」


 それって……つまり――。


「ワシと陽之助は、神社で雑談しよったがじゃ。

 けんど、その途中に陽之助が不意に咳をし始めたがぜよ。痰は絡んじゃァせんかったけんど、ずつなそうな咳じゃった。ワシは陽之助が労咳じゃち思いとうなかったき、えて何ちゃァ言わんかった。けんど痰が絡み始めてから、急に咳が激しゅうなったがじゃ。その場に膝を突いて咳き込む陽之助を見て、ワシはいかんち思うたき。けんど……、遅かった。陽之助は、既に血を吐いちょった。陽之助はワシから顔を背けたがやけんど、ワシは陽之助が血を吐いたがをハッキリ見たがぜよ」


 龍馬さんが、グッと眉根を寄せた。

 やるせなさと後悔の滲む瞳は、その日のことを思い出しているように見えた。


「……ワシは、薩長同盟を成し遂げた男ながじゃ。けんど、自分の後輩が目の前でずつない想いをしちょったゆうに、ワシは何ちゃァ言えんかったがぜよ」


 あたしもそうだった。

 陽之助さんを救いたいと思うのに、キレイな言葉しか出て来なかった。


「けんど今思うたら、ワシは何か言うちゃるベキじゃった。陽之助はもしかしたら、ワシの言葉を望んじょったがかも知れん。気持ちだけやったかも知れんけんど、ちっくとやち楽にさせちゃるベキじゃった」


 龍馬さんが、静かに目を閉じて白い頬に睫毛の影を落としている陽之助さんを見下ろした。


「……ケホッ」

 と、陽之助さんが体を横に向けて乾いた咳をする。


「コホコホ……ッ」

「陽之助……!」

 龍馬さんがその大きな手で、陽之助さんの背中をそっと擦った。


 陽之助さんの赤銅色の美しいが、ゆっくりと開かれる。


「坂本さん……ッ」

「陽之助、目が覚めたかえ?」

「……ッケホ……はい……」


 空咳を繰り返し、苦しそうにしている陽之助さん。


「……ハァッ……ハァ……コン、コン……ッ」

 少しでも咳を落ち着かせる為なのだろう――龍馬さんが彼の背中を再び擦る。

 苦しみに耐えようと、陽之助さんが着物を握り締めた。


「コン、コンコン……! ケホッケホッ……」


 何時いつの間にか、雨は止んでいた。


「雨が止んだき、今の内に海援隊本部にんて、長岡には陽之助をて貰いたいがやけんど……」

 龍馬さんの提案に、あたしと長岡さんは頷く。


 恐らく、この空き家は使われなくなってから日が浅い。だけど衛生状態が良いとは言えないし、陽之助さんが更に体調を崩してしまうかも知れない。


 龍馬さんに肩を支えられて、陽之助さんが立ち上がる。


「行くぜよ」

 空き家から外に出たあたし達が、龍馬さんの声で海援隊本部に向かって歩き出したその刹那。


 ギャリーン!!


 突然、背後から金属同士がぶつかる音が聞こえ、あたしは目を剥いて振り返った。


 長岡さんと土方さんが、刀を交えている。その近くには、沖田さんも居た。


 龍馬さんが悔しそうに歯噛みして、振り返る。


「やっぱり此処に居やがったか、坂本」

「……何の用ぜ」

「何の用だァ? 決まってんだろうが……。坂本テメェを殺しに来たんだよ」


 土方さんが斬り掛かって来る。

 龍馬さんが懐から咄嗟にピストルを取り出し、土方さんのやいばを受けた。


「チッ、そういや短銃ソイツを持っていやがったな」

 土方さんが舌打ちし、龍馬さんと距離を取る。

 そして、傍に居る陽之助さんを見下ろした。

 陽之助さんが、やいばのように鋭い眼差しを土方さんに向ける。


「オイ、テメェ何時いつも坂本と一緒に居やがる、陸奥とかいうヤツだよな?」

 陽之助さんは何も言わず、土方さんを見上げている。


「ゴホゴホ……ゲホッゴホッゴホォッ!!」

 激しい咳に、口元を覆う陽之助さん。


「……ッ……」

 陽之助さんが激しく喘ぎ、静かに歯噛みする。

 何度も咳をしながら、彼はそっと胸を押さえた。


「そうか、テメェ……総司と同じ病か」

「……」


 息を切らせながら、陽之助さんが土方さんを、再び鋭く見据えた。


 土方さんが、ふとあたしを見る。

「オイ、テメェ……見たことのあるツラだな。坂本と一緒に居やがるってこたァ、みだれ桜華ざくらの味方か?」

「……」


「オレは、相手がだろうがだろうが、容赦しねェ」


 あたしは、ハッと目を見張った。


「流石、鬼の副長ですね。容赦ねェ」

「……ウルせェ」

 からかうように言った沖田さんに、土方さんが言い返す。


 そして再び、土方さんとあたしの視線がクロスした。

 冷ややかな視線に、恐怖にも似た感情が心を支配する。


「女、テメェを斬る」

「……ッ」


 ドクン――。

 あたしの心臓が、イヤな音を立てる。


「オレは『容赦しねェ』と言ったハズだ」


 刀が振り上げられる。


 頭では状況を理解しているのに、何故かあたしのものではないかのように、体が動かない。


 嗚呼ああ――あたしは、此処で死ぬのだろうか?


 短かった人生。

 でも、それも此処で終わるの――?

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