第13話 ~悲しき運命(さだめ)~

 冷たい雨が銃弾の如く、地面に絶え間なく打ち付ける。


「萌華……!」

「……龍馬、さん……」

 龍馬さんと視線がぶつかった。


「取り敢えず、雨の当たらん場所に移動するぜよ」

 あたしは頷く。


 龍馬さんが陽之助さんを抱き上げ、雨が当たりにくい路地裏に移動した。

 建物と建物に挟まれた路地裏は、少し行くと行き止まりになっている。暗いけれど、建物の屋根のお陰で雨は殆んど当たらない。


「……医者を呼ばんといかん」

 自分の羽織を陽之助さんの肩に掛けながら、龍馬さんが言った。


 暫らく考え込んだ龍馬さんが、何かを思い付いたように顔を上げ、あたしを見る。


「萌華、ワシはこれから医者を探しに行って来るき」

「えッ……」

「陽之助を頼んだぜよ。んぐにんて来るき」

 そう言って、龍馬さんが立ち上がった。


「……はい」


 龍馬さんが、路地裏から出て行く。


 あたしはそっと、陽之助さんの肩を抱いた。


 女のあたしも羨ましく思ってしまう程、美しい顔立ち。

 そっと触れた頬はスベスベで、肌荒れなど一切していない。口元のホクロが、彼の色気と美しさに磨きを掛けている。


 ――それから暫らく経った頃、陽之助さんが目を覚ました。


「……ん……ッ」

「陽之助さん?」


 陽之助さんに見つめられる。彼の瞳は、に戻っていた。

 ただでさえ女性のように白い肌が、今は雪のように真っ白だ。


「ご、ゴメン!!」

 ずっと陽之助さんの肩を抱いていたことに気付いたあたしは、パッと彼の肩から手を放した。


「ケホッケホッ……ゴホ……ッ!!」

 空咳に痰が絡み、陽之助さんが苦しそうに眉を寄せる。


「うッ……ゲホゲホッゴホッ!! ゴホッゴホォッ!!」

 陽之助さんが口元を押さえ、激しい咳に俯いた。

 彼の蒼い髪が月明かりに照らされ、光っているように見える。その透明感と美しさに、あたしは息を呑んだ。


 咳き込みながら、陽之助さんがあたしに背を向ける。


「陽之助さん……!」


 あたしは、陽之助さんの背中をさすろうと手を伸ばし――振り払われた。

 驚いて、あたしは手を引っ込める。


「……来たらアカン」

 陽之助さんは、静かにそう告げた。


 だ。そうやって彼は、何度あたしを拒絶しただろう? 何度、独りで苦しんだだろう?

 あたしは何度――誰にも助けを求めず、独りで抱え込んで苦しむ彼の背中を見ただろう?


 彼の苦しむ姿は、見たくない。だったら見なければ良いとかそういうことじゃなくて、見たくないから彼の苦しみを少しでも和らげてあげたいと思った。


 少しでも、彼にとって必要な存在になりたかった。


「……労咳やまいが……感染うつってまうやんか……ッ」


 あたしは、唇を噛み締める。

 悔しかった。不甲斐なかった。


「そんな……そんなこと、理解わかってるよ……」

理解わかっとるんやったら――」

「でも!」

 あたしは、彼の言葉を遮った。


「それでも……独りで抱え込んで苦しむ人を、あたしはもう見たくない」


 これがあたしのエゴだとしても、もう見たくなかった。


「……おおきに」


 違う。

 そんな言葉が聞きたいんじゃない。そんな言葉が欲しくて、言ったんじゃない。


「違うよ……! あたしはただ、苦しんでる貴方の役に少しでも立ちたいから――」


「……何なん? それ」

 暫しの静寂の後、嘲笑わらい声にも涙声にも聞こえる声で、彼はそう呟いた。


 何処かで、雷が鳴る。


「ただのキレイ事やん。ワイかて、そないな言葉が聞きたいんとちゃうんや」

「そんな、あたしは――!」

 否定しようとして、あたしは口を閉じた。


 きっと、こんなのキレイ事に過ぎない。と同じで――あたしは何も知らない、何も出来ない子供だ。

 陽之助さんを救いたいと思うのも、独りで苦しむ人を見たくないというのも、全部あたしのエゴだった。


「……ッ、……ハァッ……ハァ……ッ」

 陽之助さんが息を切らせる。


 再び心臓がズキズキと痛んだけれど、あたしはキツく目を閉じて耐えた。


「ゲホゲホッゴホッ……ゴホ……ッ、……ゴホッゴホッゲホッ……ゲホゲホッ!! ……うゥッ!」

 背中を向けているけど、彼の足元に危ういくれないの華が咲いたのが判った。


「陽之助さん!」

「……やんといて……ッ」


 激しく咳き込み、血を吐いて肩で息をしている陽之助さん。こんなにも苦しそうなのに、彼はあたしを傍に居させてくれない。決して助けを求めて来ない。


 どうして、そうまでして強がるの……? 龍馬さんには助けを求めて、涙を見せているのに。


「は……ッ……ハアァッ……ッふ……」

 陽之助さんの息が震えている。


 彼は咳き込みながらフラフラと立ち上がり、歩いて行く。それも、へ。


「陽之助さん……」


 雨が当たる所まで行くと、陽之助さんはガクリと膝を折った。

 パシャッと水がハネる。

 雨が当たる所に居れば体調が悪化するから、雨の当たらない所に連れて来たのに。

 彼の肩に掛かっている龍馬さんの羽織は、既にビショビショだ。


「陽之助さん、ダメだよ……! そんな所に居ちゃ……!」

 あたしは立ち上がり、彼の元に行く。


「来やんといて……ッ!」


 もし龍馬さんがあたしと同じことを言ったとしても、彼は今と同じように言うのだろうか?


「もう辞めて……ッ!」

 そう言って手を伸ばすけれど、振り払われたあたしの手は――あたしの想いは、彼には届かない。


「……アカン」

 静かで落ち着いた声。でも、だからこその強さと冷たさがある。


 あたしは、振り払われた彼のかいなを掴んだ。


「――……ッ!!」

 陽之助さんが大きく目を見張る。


 あたしは、彼の肩を抱いた。

 雨が陽之助さんの頬を伝い、スッキリとした顎から滴り落ちて行く。


「……ただ、雨に当たりたなっただけやさかい」


 彼の瞳を見て気付いた――彼の瞳を濡らすのは、ということに。


 口元に少しだけを描きながら、陽之助さんがあたしを見た。

 陽之助さんの大きな目から、ポロリと零れ落ちるものがある。だけど彼は、その笑みを崩そうとはしない。


 陽之助さんは、ムリをして笑っている。それが判るからこそ、彼の笑みはとても痛ましく見えた。


 今の彼が、誰かの助けを必要としていることなんて一目瞭然だ。だったら彼に、少しの間だけでも安らぎを与えてあげたい。

 今、彼を救えるのは――あたししか居ないから。


 おこがましいのは、百どころか千も承知だった。


 あたしは、彼の体をそっと抱き寄せる。


「!」

 陽之助さんがハッと目を見張る。


「もう……ッ! 放してや……ッ!」

 彼は怒気を含んだ声音で、尚もあたしを拒絶する。

 そして、その華奢な肩が小刻みに震えるのを、必死に抑え付けようとしていた。こうして抱き締められていても、彼はあたしから顔を背けている。


 1番苦しいのは彼のハズなのに、あたしは胸が締め付けられる想いだった。この胸の苦しさよりきっと彼の方が、何倍も何十倍も苦しいに決まっているのに……。

 言いたいことは沢山あるのに、僅かに唇を動かしただけで、言葉にならなかった。


 グイッと陽之助さんに肩を押される。

 生まれ付き体が弱い上に労咳で体力が落ちているとはいえ、陽之助さんの方が力は強い。


「…………ッ」

 あたしは、バランスを崩しそうになる。

 咄嗟に背後の壁に手を突いて、何とか耐えた。


 心臓に激痛が走る。

 だけど、こんな所でくずおれるワケにはいかない。


「……ッ!!」

 陽之助さんが、あたしから逃れようとする。


「放さないから」


 あたしは彼を抱き締める腕に力を込め、そっとその背中を撫でた。

 静かに――だけど嵐のようにすさむ彼の心を、落ち着かせたくて。


「……ッ」

 陽之助さんが、小さく嗚咽する。


 大丈夫、大丈夫――そう念じて、彼の背中を擦り続けた。

 気付けば、陽之助さんはもう抵抗しなくなっていた。

 だけど、まだ泣くのを堪えているのか――肩が小刻みに震えている。


「大丈夫……大丈夫だから」


 雷鳴おとが耳をつんざいた。

 雨はまだ、止む気配を見せない。


「泣いても良いよ。ガマンしないで」

 あたしは、出来るだけ優しく声を掛けた。

「……ッ! ……ふ……ッ」


 彼の体は、細く冷たかった――抱き締めているのが、ツラくなる程に。


「……う……ッ……うッ、うッ……! あァ……ッ! ……ワァァァァン!!!」

 陽之助さんが、堪え切れなかったのか――泣き出した。


 1度泣き叫ぶと、もう堪えたりしなかった。


 あたしの背中に腕を回し、ツラい感情おもいを吐き出すかのように慟哭している。

 その薄く儚い背中に、彼はどれだけの苦しみを背負っていたのだろう?


何故なえで……ッ……何故なえでワイ』なん……!? 何故なえで……ワイが……ッこないな病に……ッ」


 あたしは目を見張った。


 あたしも、陽之助さんと同じだった。どうしてがこんな難病にならなきゃいけないの? ――と、何度そう思ったか判らない。


 世の中には、健康な人が沢山居る。その何億人と居る健康な人の中で、どうしてなんだろう? どうして、なんだろう?


何故なえで……ッワイだけ……、しやなアカンのや……ッ!」


 心が痛くなった。


 陽之助さんが、激しく咳き込む。

 あたしは、彼の背中を強く擦った。


「大丈夫だから……。あたしは貴方の味方だから」


 彼の白い頬を、大粒の涙が転がり落ちる。


 こうして泣いてしまう程、彼は精神的にも限界を迎えていたんだ。きっと、沢山のものを抱え込んで来たんだろう。

 どうすれば、陽之助さんを救えるのだろうか?


「ケホッ……ゴホッゲホッ……ゲホゲホッ!! ゴホゴホゴホッ……ゲホッゴホン!!」

 陽之助さんが、激しい咳に背中をビク、ビクと震わせた。泣いているからか――先程より、咳がヒドくなっている。


 冷たい雨が銃弾の如く、地面に絶え間なく打ち付けていた。

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