第弐章 ~春の夜の夢~

第11話 ~影紅~

 怪しげなあかが、月明かりに照らされる。


 陽之助さんがかげくれないを受け取ってから、あたしと彼は部屋に戻っていた。


「……これを飲んだら、病が治るんやな……」


 陽之助さんが、僅かに眉根を寄せる。

ワイは、坂本さんのお役に立ちたいんや。この病さえ、治ったら……」

 そう言いながら、陽之助さんはそっと胸を押さえた。

 ゆっくりと瞬きをする。


「陽之助さん……」

 あたしは彼を見上げる。

 陽之助さんとあたしの視線がクロスした。


 陽之助さんが、小瓶の蓋を開ける。


「…………」

 最後の覚悟をするように、陽之助さんは長い睫毛を伏せて影紅を見つめた。

 透明なガラス瓶の中に入った赤い液体は、血のようにも見える。


 そして――一気に飲み干した。


 陽之助さんが一瞬目を見開いたかと思うと、その眉目秀麗な顔を苦痛に歪めた。形の良い眉をひそめ、唇を噛みしめている。


 陽之助さんの様子にあたしが不安を覚えた瞬間とき、彼の体を白く眩しい光が包み込んだ。


 眩しい……!


 あたしは思わず手で光を遮った。

 更に疾風はやてが起こり、着物やあたしの髪がバタバタとせわしく揺れる。


 な、何!?


「うッ! うゥ……ッ!」

 陽之助さんが、苦しみの声を漏らす。

「……ッ! んく……ッ……、うッ……!! あァァ……ッ!!」

 まるで見てはいけないとでも言うように、光が眩しすぎて彼の姿を捉えることができない。


 やがて、光と疾風かぜが治まった。


「陽之助さん!」


 疾風かぜで乱れた着流しから覗く、陽之助さんの薄い胸元。その胸元に、黒い桜の痣が浮かび上がっている。

 苦しみにキツく閉じられていた陽之助さんの目が、開かれた。


 ……えッ?


 彼の瞳は、


 彼は右手で、隠すように顔を覆う。

 その細長い指の間から、爛々としたあかい瞳が覗いた。

 ゾクッと背筋に冷たいものが走る。


「ハァッ……はッ……ハアァ……ッ」

 彼は苦しそうに肩で息をしていた。


「陽之助さ――ッ」

「見やんといて!!」

 片手で顔を覆ったまま、陽之助さんは素早くあたしに背を向ける。 


「蒲柳の質である貴方には、いささか強い薬だったようですね」


 ハッとして振り返ると、洪庵先生が佇んでいた。

 まるでかのようなその言葉に、あたしは眉根を寄せる。


 洪庵先生が、陽之助さんの元に歩み寄った。


「顔をお見せなさい」

「い、イヤ……ッ」

 顔を見せることを躊躇い、陽之助さんが洪庵先生から顔を背ける。

 洪庵先生が、グイッと陽之助さんに詰め寄ったその時。


 ドンッ!!


 陽之助さんの細い腕の何処に、そんな力があったのだろうか――彼は洪庵先生を弾き飛ばしていた。洪庵先生はというと、5mも先に倒れている。


「ハァッ……ハァッ……ハアァ……ハァ、ハアァ……ッ……」

 陽之助さんが、先ほどよりも荒い息で俯いた。


 洪庵先生が起き上がり、薄笑いを浮かべる。


が、影紅くすりの力です」


 肩を上下させて、せわしく苦しげに呼吸いきをする陽之助さんをの当たりにし、あたしは不安を覚えずにはいられなかった。本当に、病は治ったのだろうか?


 立っているのもツラいのか、陽之助さんは壁にもたれかかる。


「洪庵先生、陽之助さんの病気は治ってるんですか? 見るからにしんどそうじゃないですか。治ってるようには思えないんですけど」

 あたしは言った。

「薬の効果が出るには、時間がかかるんです」

「でも、先生突き飛ばしましたよ? 病弱で労咳にもなってる陽之助さんが、あんなに突き飛ばせるわけありませんよ。効果出てるじゃないですか」

 洪庵先生が腕を組む。


 この人は、何か変なことを言っている気がする。


「……おかしいですね。普通、このようなことはないのですが」


 ――矛盾している。

が、影紅くすりの力です』

『薬の効果が出るには、時間がかかるんです』

『普通、このようなことはないのですが』


 あたしは反論する。

「おかしいのは、洪庵先生の方じゃないですか。『これが影紅の力だ』とか言っておきながら、『薬の効果が出るには時間がかかる』とか『普通、こんなことはない』とか言って……!」


「…………」

 洪庵先生が口を噤む。


 あたしはグッと拳を握り締めた。


「……もしかして、ウソついたんですか?」


 チャキッ!


 一瞬、何が起こったかわからなかった。

 あたしの首筋に、やいばが触れるか触れないかの位置に突きつけられている。洪庵先生が、置いてあった陽之助さんの刀を抜いて、あたしに突きつけたのだろう。

 ここまでの事態を飲み込むのに、数秒のときを要した。


「!?」


 目の前で洪庵先生が、あたしを鋭い目で睨んでいる。

「……ッ」

 静寂が、苦しい。

 心臓がバクバクと耳障りな程に鳴っていたけど、あたしは平静を装った。


「その通り、ウソです」


「えッ」

 平静を保てなかった。保てるワケがなかった。


「確かに、先ほどのように超人的な力を手に入れることはできます。しかし、力を使うたびに筋力や体力が奪われて行き、進行すると呼吸をすることすら困難になります。病人やケガ人の場合は、力を使つこうておらぬときであっても、通常より早く衰弱していきます。この副作用は、免れませぬ」


 ヒドい……。何でそんなことを……?

 完全に副作用リスクの方が大きいじゃないですか。


 更に洪庵先生は続ける。

「患部が急激に悪化しますゆえ、当然死にたいとさえ思うほどの苦しみを味わうことになります。ですが1度これを飲むと、簡単には死ねませぬ。力を使いすぎた暁には、死にたいとさえ思うほどの苦しみに、苛まされ続けるしかないのです」

「何とかできないんですか?」

 洪庵先生が、あたしを一瞥した。

「これが影紅の作用と副作用なのです」


 陽之助さんがそうなるの?

 そんなの許せない。


「何でそんなことするんですか!?」


 フッと洪庵先生が笑う。その微笑に、あたしは心臓が寒くなるような心地を覚えた。


 あたしは息を呑んで、次の言葉を待つ。

「それは言えませぬ。いずれ貴女にも、理解わか瞬間ときが来るでしょう。嗚呼ああ、ですがこれだけはお教えしておきましょう」

 そう言うなり、洪庵先生があたしの首筋にやいばを当てた。

 首筋から一筋の赤が流れ、傷口がドクンドクンと疼く。


「覚えておいてください。このことを誰かに言えば、貴女の首が飛びます」

 そう告げて、洪庵先生はやいばを離した。


 陽之助さんは背中を向けて、苦しみの声を漏らしている。

 洪庵先生が陽之助さんの元に行き、彼を見下ろした。


「陽之助さん!」

「うッ……うゥッ……!」


 陽之助さんが顔を背け、肩で息をする。顔色がとても悪かった。


 そんな彼を、洪庵先生はフンと鼻で嘲笑った。

「愚かですね、

 洪庵先生が踵を返す。


「待ってくださいよ」

 自分でも驚くほど、スンナリと言葉が出てきた。


「何ですか?」

 洪庵先生が、前を向いたまま言った。


 このまま洪庵先生このひとを放っておくワケにはいかない。


「責任、取ってください。陽之助さんがこうなったのは、洪庵先生あなた所為せいなんですよ?」


 ゆっくりと、洪庵先生があたしの方に向き直った。その動作1つでも、どこか恐ろしい。それでもあたしは、それを表情かおに出さないようにした。


 何だろう? 洪庵先生から、どこかを感じる。


「……責任?」

「当たり前じゃないですかッ!」

 ついイラッとしてしまい、あたしは声を荒げてしまった。

 あたしはイラ立ちを抑えようと、拳を握り締める。


「洪庵先生がこんな薬出さなかったら、こんなことにはならなかったじゃないですか! 陽之助さんは、ダマされたってことですよ!」


 声を荒げるあたしに、洪庵先生が言ったのは。


「――


 ――は?

 何故、こんなことが言えるのだろう?


 ダマされる方が悪い――。

 裏を返せば、洪庵先生は――最初からダマすつもりだったということだ。


「つまり、最初からダマそうと思ってたってことですよね?」

「いえ、別に」

 と、洪庵先生が首を振る。


「結果的にダマしてるじゃないですか!!」

 また、声を荒げてしまう。


「何が『いえ、別に』ですか? 『ダマされる方が悪い』って言ってましたよね? それって、裏を返せば最初からダマそうと思ってたってことになるじゃないですか!」

「別にダマそうと思い、影紅あれを渡したわけではないのです。陽之助さんには、受け取らぬという選択肢みちもあったはずです」


 洪庵先生の態度にイライラして来る。


 ダマすつもりで渡したのではないのなら、副作用があることも言うべきだったんじゃないのだろうか? その副作用が大きいのなら、尚更だ。

 もしかして、高杉さんにも同じように言って渡したのだろうか?


「洪庵先生、あの薬の副作用言ってなかったじゃないですか。副作用のことを言えば、陽之助さんも受け取らなかったかも知れなかったんですよ」

「彼とて、副作用があると考えることはできたはずです」

「だったら何で、副作用のことを言わなかったんですか?」

「賢いと評判の彼なら、薬に副作用があることくらいは容易に想像できるだろうと思い、言わなかったのです」


 でも、副作用があっても副作用そっちの方が大きくなるのなら、陽之助さんだって受け取らなかったはずだ。たとえ副作用があっても、それでも――そう思い、あの薬を受け取ったのだろう。


「ただ、バカにしてるだけじゃないですか。それに先生は、副作用があることを言うべきだったんじゃないですか?」

「……」

 洪庵先生が口を噤んだ。


「……先生は、少なからずウソついてますよね?」

「ええ、ついていますね。先ほどそう申し上げたではないですか」

 と、洪庵先生が肯定した――罪悪感の欠片も無い口調で。


 あたしは溜め息をついた。


「やっと認めるんですね。先生、?」


 洪庵先生が億劫そうに口を開いた。

「とにかく、ダマされる方が悪いのです。ですね」

 嘲笑し、洪庵先生は去っていく。


 あたしは、ギリッと歯を食いしばった。

 でも、後ろでゼィゼィと荒い呼吸を繰り返して苦しむ陽之助さんを見ると、そんな怒りはどこかに吹き飛んでしまった。


「陽之助さん……!」

 あたしは彼の名を呼ぶ。

「ハァッ……は……ッハァ……見や、ん……と、いて……」

 顔を隠し、陽之助さんが呟いた。


 人ならざるものになった姿を見られたくないのか、苦しんでいるところを見られたくないのか――どちらなのかは判らない。


 龍馬さんの胸では泣いていたのに、あたしには決して弱みを見せない陽之助さん。

 きっとあたしはまだ、彼に頼ってもらえるほどの信頼を得ていないのかもしれないけれど、そうだとしても陽之助さんの龍馬さんへの想いは、本当に強い。


「……ッ! う……ッ!!」

 パタパタと、畳の上に何かが落ちる音がした。


「ゴホッ……ゴホ……ッ!」

 パタッ……パタタッ……!

 咳のたびに、パタパタと音がする。

 聞き覚えのあるその音に、あたしはイヤな予感がした。


 この音、まさか――。


「ゴホゴホッゲホッ……ゲホッゴホン!!」

 そっと陽之助さんを窺うと、口元を押さえた彼の掌から、絶えず鮮血が零れ落ちていた。


「陽之助さん!!」


 ただでさえ平静を保てないほどに苦しんでいるのに、咳と喀血を起こしている。きっと、あたしが想像もできないほどの苦しみだろう。


 あたしは、陽之助さんの背中をさすった。


 貴方が苦しむ姿は見たくない。

 ――見たくないのに。


「ゴホッゲホゲホッ……ゴホッ!! ッう……、ゴホッゲホォ……ッ!!!」


 また、びとばなが咲いた。


 死人花のように鮮やかな赤が、陽之助さんの雪のように白い肌を染める。

 容赦なく溢れる赤は、あまりにも残酷で――。


、やん……と……いて……ッ」


 ダァン!!

 突然、背後で凄まじい音がした。


 後頭部と背中に痛みを感じ、背後にある外れた襖を目にして、あたしは何が起こったかをようやく理解した。

 陽之助さんに、突き飛ばされたのだ。


「……うッ!!」

 フラフラと立ち上がったあたしは、突然の激しい胸痛に再び膝を折った。


 あたしは顔を上げて、陽之助さんを見つめる。


「どうして……?」


 陽之助さんは俯き、苦しそうに肩で息をしていた。


「どうしてそうやって拒絶こばむの? 強がらないで……」


 苦しいはずなのに、ツラいはずなのに――彼は頑として、あたしに助けを求めようとしない。全て1人で抱え込もうとする。


 彼がどれだけの苦しみを抱えているのかは、判らない。でもきっとその苦しみは、1人で抱え込んで耐えていけるようなものではないはずだ。

 1人で抱え込んで耐えられたとしても、いつかは誰かが手を差し伸べてあげなければならない。助けてあげなければならない。


 そうしないと、陽之助さんの心が壊れてしまう。


 現に――そうやって1人で抱え込んで、心が壊れてしまった人を、あたしはずっと見てきた。


「あたしは、貴方が1人で苦しむ姿を見たくない」


 お願いだから、強がらないで。ガマンしないで。

 彼の過去に何があったのかは判らないけれど、もっと頼ってほしい。


「見たないんやったら、見やんかったらェやんか!! ワイのことなんかっといたらェやんかッ!!」

 そう言うや否や、陽之助さんが部屋を飛び出す。


 そして、ハッキリと見た――爛々とした紅い瞳を。それは、普段の彼のものではなかった。


「!! 陽之助さん……!!」

 バンッ!!

 彼が襖を勢いよく閉める音とあたしの声だけが、部屋に残った。






【第11話の用語解説】


❀歴史的用語❀

・労咳…現在でいう肺結核。


❀オリジナル用語❀

・影紅…緒方洪庵が発明した薬。

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