第10話 ~行き場のない想い~
部屋に月明かりが差し込んでいる。
あたしはあれから自分の布団に戻り、寝てしまっていた。
変な時間に起きちゃったな……。
「――さんを助けたかったのですが……、治療の施しようがないですね」
「……何を言いゆうがですか?」
40代から50代くらいの男性と龍馬さんの声だ。
隣を見るけれど、陽之助さんの姿はない。
あたしは布団から出て、部屋の襖を開けた。
龍馬さんが、ツカツカと男性の元へ歩み寄っている。
何があったのかは
「龍馬……さん……」
今まで見たこともない龍馬さんの様子に、あたしは驚いた。これほどまでに怒っている龍馬さんを見るのは、初めてだ。
肩くらいまでの黒髪をオールバックにしている中年男性は、平然として龍馬さんを見上げている。
男性の目の前まで来ると、龍馬さんは怒鳴った。
「洪庵先生は医者ですろう!? 患者の病を治すことが仕事ですろう!? どういて、萌華の病1つ治せんがですか!?」
え……!? あたしの話……!?
「――何を言われるのですか?」
洪庵先生と呼ばれた中年男性が、先ほどの龍馬さんと同じ言葉を返す。恐らくこの人が、高杉さんの言っていた緒方洪庵先生だろう。
陽之助さんも龍馬さん達と同じ場に居て、とてもしんどそうな顔をしていた。
「確かに、医者は患者の病を治すことが仕事です」
「ほいたら!」
「ですが、」
龍馬さんの言葉を遮るように、洪庵先生が透かさず口を開く。
「どんな病でも治せるというわけではないのです。医者は神ではないということを、お忘れなきよう」
医者は神ではない――その通りだ。
龍馬さんも、暫く何も言えないでいた。
「けんど……治療法が無いき言うて、諦めるがですか!? これは『治るか治らんか』やない!! 『治すか治さんか』の問題ですろう!!」
「治らぬものは治らぬのです。医療にも、限界があります。
今までも、重き病に蝕まれた患者様が『治したい』と望まれていて、周囲の方々が『きっと治る』と信じて励ましておられ、私達医者が『何とか治して差し上げたい』と願って尽力したことは、何度もありました。ですが――治ったのは、ほんの一握りの患者様です」
洪庵先生があたしに気付き、龍馬さんから視線を
すると龍馬さんや陽之助さんも、あたしに視線を注いできた。
「萌華……」
龍馬さんがあたしの名を呟く。
「『治したい』『きっと治る』『治して差し上げたい』――そんな気持ちだけで病に勝てるなら、医者も薬も必要ないでしょう」
治す為には、最終的には医療に頼らざるを得ない。難病や不治の病であれば、なおさらだ。
「医者がそんなことでどうするがですか?」
龍馬さんが、静かな声音で告げる。
「どういてその一握りの希望に賭けられんがですかッ!?」
どこか冷ややかで――それでいて怒りに燃える瞳。
「貴方は何の為に、萌華さんの病を治せと私に迫るのですか?」
洪庵先生が訊き返す。
龍馬さんが、一瞬目を伏せた。
「萌華を助けたいゆう以外に、何の理由があるがですか?」
あたしは目を見張る。
助けたい?
どうして龍馬さんが、そんなことを思ってくれるんですか?
洪庵先生が嘲笑した。
「助けたい、ですか……」
そう呟いて、洪庵先生は龍馬さんを斜めから見上げる。
「随分とキレイな言葉ですね」
洪庵先生の声が、廊下に響いた。
龍馬さんは何も言わず、洪庵先生を見下ろす。
「助けたいなどという想いだけで病が治るのであれば、医者も薬も必要ないのです。貴方に何が出来るのですか?」
龍馬さんが眉根を寄せた。
陽之助さんは姿勢を崩し、激しい咳にハァハァと喘いでいる。
洪庵先生のその言葉は、龍馬さんだけでなく、あたしにも向けられているような気がした。
あたしも、吹雪の中で血を吐いて苦しむ陽之助さんに対し、「死なせたくない」なんていうキレイ事を口にした。でも実際、彼にしてあげられることなんて――ほんの少ししかない。あの日のあたしは苦しむ陽之助さんを安心させたくて、キレイな言葉を並べ、彼のことを救える――そう思ってしまっていた。
「死なせたくない」なんて――とても無責任な言葉だった。
洪庵先生の言う通りだ。あたしに、何が出来るのだろう?
「ケホッゴホゴホッ!! ……ッゥ……ゴホッ、エホ……ッ!! ……ハァ……ハァッ……」
苦しげな咳が、あたしの傍で響く。
胸の上辺りまである陽之助さんの下ろした髪が、咳のたびに揺れた。
心配しているのか、龍馬さんが陽之助さんを一瞥する。
あたしが振り返ると、龍馬さんと目が合った。
「ゲホゲホゲホッ……ゴホゴホッゴホ……ッ!! ゲホッゴホッ……ゲホォ……ッ!! うゥ……ゲホッゴホンッ!!」
激しい咳、液体が滴る音――。
あたしは驚いてハッと息を呑み、陽之助さんの方を見る。
緋色の水が、肩で息をする陽之助さんの手の甲を伝っていた。
「陽之助さん!」
「陽之助ッ!」
あたしと龍馬さんは、彼の名を叫んだ。
鮮血が、彼の色白な肌を染めた。
龍馬さんが、激しい咳と喀血に苦しむ陽之助さんの背中を撫でる。
洪庵先生は、喀血に喘ぐ陽之助さんを見下ろすだけで――何もしなかった。
龍馬さんが背後に居る洪庵先生に鋭い視線を飛ばし、立ち上がる。
そして、洪庵先生の方へ歩み寄っていった。底知れない怒りが、背中越しに伝わってくる。
「この藪医者……!!」
龍馬さんが、怒りに拳を震わせた。だけど彼は、手を出そうとはしない。
そんな龍馬さんを鋭く睨み、洪庵先生が告げる。
「労咳が不治の病であるということは、貴方が誰より知っているはずです」
龍馬さんが、ハッと目を見開いて歯噛みした。
どうしたんだろう?
――その
「何を言うちょるんじゃ!!」
鋭い声がしたかと思うと、洪庵先生が何者かに殴り飛ばされていた。
あれは……!
短く黒い髪、痩せているが筋肉の付いた体――高杉さんだ。だけど唯一違うのは、彼の藍色の瞳が血のような
これは、一体……!?
「高杉さん!!」
あたしは、洪庵先生を殴り飛ばした人物の名を叫ぶ。
高杉さんは冷ややかな眼差しを洪庵先生に投げながら、顔を歪めて立ち上がろうとする洪庵先生を、容赦なく蹴り飛ばした。
「君に医者を名乗る資格はない!! 陸奥くんが苦しんじょるのが見えんのか!!」
床に倒れ伏した洪庵先生を、何度も蹴りつける高杉さん。
やがて高杉さんが蹴るのを辞めた後、ゆっくりと立ち上がって洪庵先生が言った。
「……病人如きが、元気なものですね。見たところ、あれを飲んだようですし……元気なのは当然ですが」
どういうことだろう?
「陽之助さん、貴方にも差し上げましょうか? 効果のある薬があるのです」
洪庵先生が言う。
そして、1本の小さなガラス瓶を取り出した。中に赤い液体が入っている。
「これは
その場に居る全員が、赤い液体の入ったガラス瓶――影紅に視線を注いだ。
「影紅?」
あたしは口を開いた。
洪庵先生は、あたしを見て頷く。
「これを飲むとどんな傷病も治り、超人的な力を発揮できるようになります」
どんな傷病も治る?
あたしの中に、1つの疑問が浮かんだ。そんな霊薬があるのなら、何故今まで出さなかったのだろう?
「……差し上げましょうか?」
洪庵先生が、陽之助さんに尋ねる。
陽之助さんは、しばらく影紅を見つめていた。
「……」
中に入っている液体が、何処か怪しげに揺れる。
「……頂きますわ」
そう言って、陽之助さんが影紅を受け取る。
影紅を手渡した洪庵先生の口元が、どこか不敵に歪んだように見えた。
【第8話の用語解説】
❀歴史的用語❀
・労咳…現在でいう肺結核。
❀オリジナル用語❀
・影紅…緒方洪庵が発明した薬。
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