第9話 ~彼の願ひ~

 ――……。

 ……あれ? ここは?


 あたしは薄く目を開いた。


 え? ここって……。

 雪景色の中に居たはずなのに……。


 以前居た場所と違うと気付いたあたしは、瞬きしてパッチリと目を開く。

 視界に飛び込んできたのは、天井だった。そしてあたしが横たわっていたのは、布団。


 あたしは起き上がった。額に載せてあった手拭いが落ちる。

 落ちた手拭いを拾い、辺りを見渡した。和室のようだ。

 熱っぽく、体がとてもダルい。

 隣には、陽之助さんが寝ている。いつもナイルブルーの紐で1つに結われている髪は下ろされ、白い長襦袢を着ていた。


 再び極度の疲労感に襲われたあたしは、再び布団に横たわる。そして既にぬるくなっている手拭いを、額に載せた。

 少し心臓が痛い。


 すると襖が開く音がし、あたしは再び半身を起こした。

 誰だろう?


「萌華!! 目が覚めたかえ!?」

 と、龍馬さんが慌ただしく部屋に入ってくる。


「龍馬さん……! 陽之助さんが……!」

「おォ、スマン。起こすところやったぜよ」


 静かに寝ている陽之助さんを一瞥し、龍馬さんがあたしの枕元に来た。


「龍馬さん、ここは……」

 見覚えのない部屋を見回して、あたしは尋ねる。


 龍馬さんは、「緒方洪庵というお医者さんの診療所に行く」と言っていたはずだ。


「ここは、洪庵先生の診療所じゃ。あれから洪庵先生に事情を説明して、先生は弟子達を連れて高杉さんの元に、ワシはオマンらァのる神社に行ったがぜよ」


 そうだったんだ……。

 緒方洪庵先生って、どんな人なんだろう?


「ワシが神社に着いた頃には、2人は気をうしのうて倒れちょった。やき、ワシが2人を抱えて診療所まで走ったがぜよ」


 やっぱり……あたし、気を失ってたんだ。

 ここまで運んでくれた龍馬さんに、感謝しなきゃいけないな。彼のお陰で、あたしも陽之助さんも助かったんだから。


「ありがとうございます」

「お安い御用やき。それより、オマンが目を覚まして良かったぜよ」

 心底安心したような表情の龍馬さんに、あたしもホッとした。


 その刹那。


「……ッ……コホッ」

 と、隣で咳が聞こえた。


 あたしは咳が聞こえた方へ視線を注ぐ。

 咳き込んでいたのは、陽之助さんだった。


「……ゴホ……ゲホッゲホッ」

 陽之助さんが目を覚まし、ゆっくりと体を起こす。きっと咳で起きたんだ。


「ケホッ……ゴホゴホッ……、ゲホッ……ゲホッゴホッ!」

 彼は周囲を見回す。


「大丈夫かえ?」

 龍馬さんが、彼の華奢な背中を優しく撫でる。

 俯いていた陽之助さんが龍馬さんを見上げ、また咳き込んだ。


 口元を押さえた陽之助さんが、急に立ち上がる。


「陽之助さん……?」

「陽之助、オマン……!」


「…………」

 陽之助さんは何も言わずに、部屋を出ていく。


 襖が閉められた。


 バタン!

 何かが倒れる音がする。


 龍馬さんが急いで襖の前まで行き、あたしもそれに続いた。


「ゴホッゲホゲホッ……!! ゲホッ……ゴホッゴホッゴホ……ッ!!」

 何かを吐き出したような音。


 背筋が凍る。


 スパァン!

 襖を開け放ったのは、龍馬さんだった。


「……ッ」


 そこには、廊下に膝を突いて肩で息をしながら、苦しそうな表情でこっちに目を向ける陽之助さんの姿。そして、彼の目の前に広がる――


「うッ……ゲホッゲホッ!! ……ゴホゴホッゲホン!!」

 咳き込んで口元を押さえた彼の手の甲を、隠しきれなかったかのようにあかいものが伝う。


 陽之助さんは、乱れる呼吸を必死に抑えつけようとしていた。

 絶望に満ちた赤銅色の瞳が、動揺したように震える。

 苦しみながらも「見ないで」と言うように、陽之助さんがそっと袖で顔を隠した。


「陽之助ッ、オマン――」

「見やんといていただかして」

 龍馬さんの言葉を遮るように、透かさず陽之助さんが口を開いてそう言った。

 驚くほど冷静で、強い声。だけど、どこか震えていた。


「何を言いゆう!」

 龍馬さんが、陽之助さんの元に駆け寄ろうとする。


「アキまへん!! 来やんといて……ッ!!」

 自分を拒絶する陽之助さんの姿に、龍馬さんが驚いて足を止めた。

 そういえば陽之助さんは、昨日もこんな風にあたしを拒絶していた。


「来やんといて、いただかして……ッ!」


 陽之助さんの肩が震えている。だけど彼は、それを抑えつけようとしているようだった。


「そんなこと――できるわけがないろう!!」

 ギリッと歯噛みした龍馬さんがそう叫び、陽之助さんの目の前に片膝を突く。


 眉間にシワを寄せながら、部下を見下ろしている龍馬さん。


「オマンががは、理解わかっちゅう。けんどそれと同時に――独りで抱え込むことのずつなさを、オマンはがやないがかえ!?」


 あたしは大きく目を見張る。


 昨日、独りで抱え込むことの苦しさを知っているから、あたしは陽之助さんに「独りで苦しまないで」と言った。

 だけど――陽之助さんも、独りで抱え込むことの苦しさを知っているようだった。


 普段は、あんなにクールで気の強い人なのに……。


「……坂本さんに拾われたあの日……ワイは一生懸けて、貴方オマハンのお役に立つことを誓いました……。せやけど――ワイにはもう、それができれへん……ッ!!!」

 耐えきれなくなったように、陽之助さんがワッと泣き出す。


 子供のように泣きじゃくる陽之助さんを、龍馬さんは何も言わずに、その逞しい腕で抱き寄せた。

 龍馬さんも陽之助さんも同じ男性なのに、陽之助さんは龍馬さんの腕に収まってしまうほどに線が細い。


「坂本さん……?」

 陽之助さんが、驚いたのか――龍馬さんの広い胸の中で目を見張る。


 慈しむように固く目を閉じた龍馬さんが、更に強く陽之助さんを抱きしめた。


「陽之助……オマンは『洪庵先生に風邪やち診断された』ち言うちょったけんど、違うろう? ホンマのことを言うとおせ」

「……坂本さんかて……ゲホッ……もうおわかりですやろ……?」


 龍馬さんが目を見開く。だけどすぐに、悔しそうな表情で眉根を寄せた。

 陽之助さんが俯いたまま、龍馬さんの腕から離れる。

 小刻みに肩を震わせ、静かに涙を流す陽之助さんを、龍馬さんは無言で見下ろしていた。


 しばしの静寂の後、陽之助さんが口を開く。

「――労咳なんです……」


 その直後、陽之助さんが口元を押さえながら、痰の絡んだ咳に俯いた。


「どういて、今まで言うてくれんかったがじゃ?」

「言えるわけ、ありまへんわ……ッ! ワイが言うたら、きっと坂本さんは……悲しまれますやろ……!?」

「そうじゃにゃァ……。何となく予想はしよったけんど、ホンマの病名を言わんオマンに安心しよった自分が、心の片隅にったがぜよ」


 不治の病にかかったら、きっと皆「死にたくない」「できることなら治りたい」と言うだろう。あたしだってこの心臓病にかかってから、できることなら治りたい――そう思ったのも1度や2度じゃない。

 だけど――人はいずれ死ぬ。生まれてきたからには、どう足掻いても逃れられないゼッタイの運命さだめ


 それにしても、病名を偽る陽之助さんに、どうして龍馬さんは安心していたんだろう?


「……また、こうなるがか……」

 かつてないほどに悔しげな表情で、龍馬さんがポツリと呟く。


「どういてが、労咳にかからんといかんがじゃ……!!」


 あたしも、どうしてなんだろう? と思うことがあった。でも、答えは出てこない。


 ……人は何故、病気になるのだろう?


「ゴホゴホッ……ゲホッゴホン!! ……坂本さんの……ですやろ……。坂本さんは……この世界に、必要なお人ですさかい……」

「……ッ!」

 龍馬さんが、苦悩に顔を歪める。


 陽之助さんが眉を下げ、悲痛な面持ちで龍馬さんを見上げた。彼の赤銅色の瞳が、涙で潤んでいく。

 2人の視線がクロスした。


「坂本さんが理想とされるワイは、どないなワイですのや……ッ? 病を……ェですやろか?」


 陽之助さんがすがりつくように、龍馬さんの着物を掴んだ。


「どないしたら……どないしたらずっと……必要としてくださいますのや……ッ!?」


 今の陽之助さんは、普段のあたしに対する態度からは想像もできないほど、か弱く健気に見えた。


 龍馬さんが、震えている陽之助さんを抱きしめる。そして、己の胸に顔を埋めさせた。


「ワシにらァないぜよ。オマンはオマンのままでい」

 優しい声でそう言いながら、陽之助さんの小さな頭を撫でる龍馬さん。


 もしかすると陽之助さんは昨日、龍馬さんに捨てられるのが怖くて泣いていたんじゃないだろうか?

 龍馬さんを求め、必要とされたいと願って泣く彼を見ていると、何だか自然とそう思えてきた。


「ゲホッゴホッ……ゲホゲホッゲホッ!!」

 咳をし始めた陽之助さんの背中を、龍馬さんが優しくさする。


「死ぬまで、貴方オマハンのお役に立ちます。貴方オマハンに全てを捧げます。せやさかい……どうか、どうか……独りにしやんといて……ッ! もう、《《あの頃みたいな世界》》は……イヤなんです……ッ」


 ? 過去に何かあったんだろうか?


 だけど当然訊き出せるような状況じゃなくて、あたしは頭の片隅に置いておくことにした。


 結局、あたしが彼の過去について知るのは、だいぶ後のことになる――。


「そんなことは理解わかっちゅう。ワシは何があったち、オマンを独りにはせんき。ずっとずっと、ワシの大事な仲間ぜよ」

「……はい、おおきに……坂本さん……」


 陽之助さんの白い頬にまた一筋、透明な雫が伝った。






【第9話の用語解説】


❀歴史的用語❀

・労咳…現在でいう肺結核。


❀方言❀

・~いただかして…~ください【紀州】

・ずつなさ…苦しさ【土佐】

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