第6話 ~嵐ノ前ノ静ケサ~

 その日も、あたしはいつものように仕事に行こうと、宿から茶屋へ向かっていた。


 茶屋に行く道中に診療所があり、木製の大きな門と漆喰の壁に囲まれた敷地内に、診療所らしき瓦屋根の建物が存在している。


 その診療所の方から、誰かの足音が聞こえてきた。


 門を潜って姿を現したのは、白い長襦袢に身を包んだ美人。結わずに下ろした蒼い髪が、サラリと翻る。


 あたしは、思わず近くの物陰に身を潜めた。


「陽之助さん……!」


 彼はあたしに気付くことはなく、コホコホと軽い咳をしながら、ゆっくりと歩いてくる。


「ウソや……。知られたない……には、知られたない……」

 自らを抱きしめるように、胸の前で腕をクロスさせつつ、陽之助さんが呟いた。彼は何かに怯えた様子で、小刻みに体を震わせている。


 この前から体調が悪そうだし、大丈夫かな? それに……『あの人』って誰のことなんだろう?


 物陰からそっと顔を覗かせたあたしは、だんだんと小さくなっていく陽之助さんの背中を、見えなくなるまで見つめていた。



 やがて茶屋に着いたあたしは、若女将さんを手伝って接客をしていた。


「若女将さん、ちょっと提案があるんですけど……」

 夕方になってお客さんもだいぶ引けてきた頃、あたしは店の奥で食器を洗いながら、若女将さんに声をかけた。


「提案……?」

「はい、お客さんの顔が覚えられてないので、誰が何を頼んだか忘れてしまうことが多くて……。仕事を円滑に回す為にも、お客さんに番号を書いた紙をお渡しして、準備ができたらその番号でお呼びするというのは、どうでしょうか?」


 掃除していた若女将さんは、あたしの提案にパッと顔を上げ、驚いたように目を丸くする。


 入ってまだ日が浅いのにこんな提案をするなんて、流石に図々しかったかもな……と思っていると、彼女は嬉しそうに笑顔を見せた。


「とてもステキじゃない! お客さんをお待たせする時間も減るから、一石二鳥ね! すぐに導入できると思うし、また準備しておくわ!」


 良かった……! これできっと、接客が今よりもスムーズになるはずだ。


 現代の飲食店ではよくあるシステムだし、本当に些細なことかもしれないけれど、あの時代から転移してきた意味を、僅かながら見出せたような気がした。



「おォ、やりゆうにゃァ!」

 小皿や湯呑み茶碗を一通り洗い終わって暇になった頃、長身の青年が茶屋にやってきた。


「龍馬さん!」

 あたしは、声の主である龍馬さんに、明るい笑顔を浮かべてみせる。


 ――茶屋で働くことを決めたあの日から、龍馬さんとは1度も会っていない。前に陽之助さんが言っていたように、普段の彼はとても忙しいのだろう。


「団子を1つ頼むぜよ。それと萌華、ちっくとオマンと話したいがやけんど、いかえ?」


 懐から財布を取り出した龍馬さんが、若女将さんにお金を手渡した。


「あら萌華ちゃん、もしかしてお知り合いかしら? この方もせっかく来てくださったのだし、話してきても大丈夫よ」

「本当ですか? ありがとうございます!」


 今は特にやることはないし、若女将さんに許可も貰った。龍馬さんと話すくらいの時間はありそうだ。


 数分後、若女将さんに渡された串団子とお茶の載ったお盆を持ち、茶屋の外に出る。

 すると龍馬さんが、縁台に腰かけて待っていた。


 龍馬さんに団子とお茶を渡すと、彼は縁台をポンポンと叩いて、座るように促してくれた。


「ここでの仕事は、もう慣れたかえ?」

「はい、忙しいですけど……それなりに出来ることも増えてきました」

 龍馬さんの隣に腰かけながら、あたしは笑顔で答える。


「……萌華は、体調に変わりはないかえ? 実は、オマンに初めてうてからずっと、移動がゆっくりじゃち思いよったがじゃ」


 龍馬さんが言っているのは、呉服屋で着物を買ってもらった時のことだろう。あたしは、できるだけ疲れた素振りを見せないようにしていたけど、龍馬さんにはバレていたらしい。


 心臓病のことを打ち明けようと思い、あたしは龍馬さんをまっすぐに見つめた。


「……あたし、実は生まれつき心臓に病気があるんですよ。動悸や不整脈、胸の痛み、息切れといった症状があって、運動もあまりできません」


 幼い頃からずっと通院しているし、入退院を繰り返していた時期もあった。

 だけど、運動が全くできなかったというわけでもない。少しスポーツをしたり、走ったりするくらいの運動は可能だった――中学1年生の頃までは。

 冬も終わろうとしていたある日、今までで1番と言っても過言ではないほどの重い心臓発作を起こし、入院を余儀なくされたのだ。そして、小学校の頃から続けていた剣道も、辞めざるを得なくなった。


「――治るがか?」

 いつもより低い声で、龍馬さんが尋ねる。


「一応治るそうなんですけど、その確率はとても低いです。治療法も確立していないみたいで……。あ、でもそんな寝込むほどじゃないので、大丈夫ですよ!」

 あまり重い空気にはしたくなくて、あたしは落ちかけていた声のトーンを上げ、笑顔を作ってみせる。


 そういえば、陽之助さんはあれからどうだったんだろう? 今朝も、彼が診療所から出てくるところを見た。

 彼の上司である龍馬さんなら、何か知っていることがあるかもしれない。


 本人が居ない場で訊くことに背徳感を覚えつつも、あたしはやおら口を開いた。

「あの……龍馬さん、差し支えなければ教えてほしいんですけど、陽之助さんも何か持病があるんですか? ちょっと気になっちゃって……」


 眉を下げて苦笑し、龍馬さんが思い出すように目を伏せた。

「陽之助は特に持病はないけんど、体が弱いがじゃ。一昨日も高熱を出して倒れてしもうて、今朝まで熱が引かんかった。やき、ワシが医者に診てもらうように言うたがぜよ」


 今朝、陽之助さんが診療所から出てきたのは、そういうことだったんだ。

 あの儚げでたおやかな容姿と時折咳き込んでいる姿を見るに、体が弱そうな印象は確かにあった。


 口に入れた団子を咀嚼して飲み込み、龍馬さんが続ける。

「……結局、ただの風邪やったき良かったけんど、アイツは仕事に対する熱意は人一倍で、夜遅うまで仕事をしゆう。仕事熱心ゆうがはいことやけんど、もうちっくと自分を大事にしてほしいち、ワシは思うがじゃ」


 以前、龍馬さんに顔色が悪いことを心配された陽之助さんは、「最近寝不足だった」と彼に言っていた。ただでさえ蒲柳の質みたいだし、よくあることなのかもしれない。


『ウソや……。知られたない……には、知られたない……』

 診療所から出てきた時の陽之助さんが、不意にあたしの脳裏を掠めた。


 陽之助さんが何を思ってあの言葉を口にしたのか、彼をほとんど知らないあたしには到底わからない。

 だけどもしも彼が、治すのも難しいような重い病気を発症した場合、龍馬さんはどうするんだろう?


「龍馬さん、もしもですけど……陽之助さんが、重い病気だったらどうしますか?」

「アイツはワシの部下で、めんこい弟みたいなヤツながじゃ。仮にアイツが病で動けんようになったち、ワシはアイツをゼッタイに捨てん。……それに、」


 と、一呼吸分の間を置いて。


「――ワシがらんようになったら、アイツの心は……ボロボロになってしまうぜよ」


 え……!?


 あたしは驚いて、隣に座っている龍馬さんを見上げた。


 思いも寄らない言葉、そして伏せられた目から読み取った彼の喪失感が、あたしの心臓を大きく揺らす。


 やがて、視線を感じたのだろう――顔を上げた龍馬さんが、いつもと同じように笑いかけた。


「ん? 嗚呼ああ、気にしなや。ただの独り言やき」


 一瞬面食らったけれど、それ以上聞く気にはなれず、あたしは話題を変える。

「ところで、龍馬さんたちの海援隊ってどんな仕事をされてるんですか?」


 龍馬さんが隊長を務めているという、海援隊。男所帯で、陽之助さんも働いているらしいけれど、具体的な仕事内容を聞いたことはなかった。


 ゴクゴクとお茶を飲んで、団子をまた1つ食べると、龍馬さんが口を開く。

「簡単に言うたら、海路を使つこうて物資を色んな所に運ぶ仕事じゃ。それだけじゃないぜよ。みだれ桜華ざくらの軍事力を蓄える為に、しんろうにバレんように武器の調達もしゆう。できれば、戦はしとうないがやけんど……」


 冥王界めいおうかいは、幾つかの国や県などに分かれている感じではなさそうだ。だとすれば、貿易の国内バージョンである、国内取引といった捉え方が正しいだろう。

 龍馬さん率いる海援隊は、この世界にとってかなり有益な仕事をしているのかもしれない。


「……ちっくと長話してしもうたにゃァ。おおきに、ワシはそろそろ行くぜよ」

 龍馬さんが、残り1つになった団子を食べてお茶を飲み干し、縁台から立ち上がる。


「萌華にもいつか、陽之助以外の隊士らァを紹介しちゃる。それと、何かあったら海援隊本部にィや。ワシがいつやち、相談に乗っちゃるき」

「はい、ありがとうございます」

 あたしは龍馬さんから空いた小皿と湯呑みを受け取り、代わりに海援隊本部への道順を書いた簡易的な地図を龍馬さんに貰う。


 どこまでも広がる茜空の下、手を振りながら去っていく龍馬さんに向かって、あたしも大きく手を振り返した。






【第6話の用語解説】


❀歴史的用語❀

・海援隊…坂本龍馬が中心となって結成した、貿易会社。冥王界でも、物資を運んだり武器の調達を行ったりしている。


❀オリジナル用語❀

・神鬼狼…織田信長と彼に味方する者たちの組織。

・乱桜華…織田信長に反発する者たちの組織。

・冥王界…源平、戦国、幕末の歴史上人物が集う異世界で、本作の舞台。

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