第7話 ~不治の病~

 それから数週間後、遮那王くんに貰ったお金と茶屋で稼いだお金で何とか生活を続けていたけれど、彼に貰ったお金が尽きそうになっていた。

 宿は食事付きで、1泊銀貨2枚と銅貨3枚が必要になる。茶屋の給料は銀貨3枚くらいだから、銅貨3枚分は遮那王くんに貰ったお金から払っていた。

 だけど、それももうすぐで尽きそうだ。茶屋での給料だけでは、宿泊料を払えない。


 龍馬さんに相談しようかと思い、あたしは彼が居る海援隊本部を訪ねた。海援隊本部の場所は、以前龍馬さんから教えてもらっている。


「すみませーん」

 海援隊本部に着き、あたしは声をかけた。


 大勢の男の人たちが忙しそうに仕事をしていて、その中に龍馬さんと陽之助さんの姿もあった。2人は何かを話している。


 門と漆喰の壁に囲まれた敷地内には、2階建ての建物があった。建物の側では赤、白、赤と交互に染め抜かれた色鮮やかな隊旗が、風にはためいている。敷地内では大勢の男の人が走ったり、大小様々な箱を持って往来していた。

 呼びかけても気づいてもらえないくらい、彼らは各々の仕事で忙しそうだ。


 あたしは龍馬さんに用があるし、龍馬さんと陽之助さんの会話が終わるまで待ってみよう。


「――坂本さん、これを読んでいただけまへんやろか?」

「『商法之愚案』……?」

「はい、海援隊の活動の幅を広げる為にどないしたらェか、ワイなりに考えてまとめてみたんです。良かったら、お時間ある時に……」


 龍馬さんが、陽之助さんが書いたという『商法之愚案』に目を落とす。


「なるほど……よう書かれちゅう。確かに今のやり方も悪うないけんど、西洋の方式は積極的に取り入れた方がいち、ワシも思うぜよ」


 ザッと目を通した龍馬さんが、陽之助さんを見下ろして彼の小さな頭を撫でた。


「これは後でゆっくり読ませてもらうき、ちっくと預かるぜよ。陸奥、オマンは相変わらず、まっこと頭がいにゃァ!」


 龍馬さん、仕事中は陽之助さんを名字で呼んでるんだ。


 あたしの前では笑顔など全く見せないばかりか、あんなに冷たい態度を取っていた陽之助さんが、龍馬さんに褒められたのが嬉しかったのか――微かな笑みを見せる。

 女のあたしでも美人だと思ってしまうほど、美しく可憐な笑み。


 そこへ1人の隊士らしき男性が現れ、隊長の龍馬さんに何かを伝えた。


 それを聞いた龍馬さんが、各々の仕事に取り組んでいる隊士の皆さんを声をかける。

「皆ァ、ワシは今から政宗の所に行ってくるき! 何かあったら、長岡ながおかに相談しィや! 夜にはんてくるぜよ!」

「はい!!!」


 隊士さんたちに背を向けて、海援隊本部から出ようとする龍馬さん。


 足早に出ていく龍馬さんを小走りで追いかけ、陽之助さんが慌てた様子で彼に同行を申し出る。

「さ、坂本さん! ご迷惑やなかったら、ワイもお供してェですやろか……!?」


いぜよ! ほいたらオマンも、ワシと一緒にィや!」

 門の前で立ち止まった龍馬さんが、頷いて陽之助さんに手招きした。


 陽之助さんがまた嬉しそうに顔をほころばせながら、龍馬さんの斜め後ろについて歩く。


 やっぱり、龍馬さん忙しそうだな……。お金の相談をしに来ただけだし、また今度来よう――そう思った矢先。


「萌華じゃないかえ! 何かあったがか!?」

 驚いた顔の龍馬さんが、あたしの元に駆け寄ってきた。彼の後ろに立っている陽之助さんも、目を丸くしながらこちらを見ている。


「実はちょっと、龍馬さんに相談があって……。でも忙しそうですし、また日を改めて来ますね」

「ちっくと待っとおせ。せっかく来てもろうたがやき、今ここで聞くぜよ。どういたがじゃ?」


 見上げるほどに背の高い龍馬さんが、腰を屈めてあたしと視線の高さを合わせ、優しく微笑んでくれる。

 そんな彼に、あたしはお金が底を突きそうになっていて、生活に困っていることを話した。


「……そうかえ。けんど、まだ金はあるがじゃろう? とりあえず、しばらくはそれで生活しとおせ。ワシが後日そっちに行って、若女将と相談しちゃるき。今より安い宿も探しちゃる」


「ありがとうございます! あたしもできるだけ節約します!」

 あたしはそう言って、龍馬さんに深く頭を下げる。


 忙しい彼に時間を取らせてしまったけど、相変わらず彼は親身になってくれる。相談して本当に良かった。


「ほいたらワシは行ってくるき。陸奥、こっちじゃ!」

 ニッコリと明るく笑い、あたしの横を通り抜けた龍馬さんが、陽之助さんを振り返った。


 陽之助さんの横顔を見上げると、視線を感じたのか――龍馬さんの後を追おうとしていた彼が、あたしを一瞥した。


 ……陽之助さん、あたしの前では笑ってくれないんだな。龍馬さんと話していた時は、とっても可愛い笑顔を見せていたのに。

 それに、体は大丈夫かな?


 あたしは思いきって、陽之助さんに話しかけた。

「陽之助さん、体調は大丈夫……?」

「……別に何もあれへんけど? ただの風邪やったし」

 ピタリと足を止めた彼が、鬱陶しそうにあたしを睨みながら答える。


 そ、そんな目で見なくても……。

 でも……やっぱりただの風邪だったんだ。


「治って良かったね」

 あたしの言葉に、陽之助さんが無言で軽く頷いた。


 陽之助さんもこれから、龍馬さんに同行して政宗さんに会うみたいだし、あまり長話するわけにもいかない。


 会話を終わらせようと口を開きかけたその時、珍しく陽之助さんの方から話しかけてきた。

「萌華はん、もうワイに関わらんといて」


 彼の瞳に宿る鋭い光が、強い意志のあるものに変わる。


「――ワイが人生を捧げるんは、坂本さんや。……おなごなんか興味あれへん」


 あたしは目を見張った。


 陽之助さん、女性と接するのがあまり好きじゃないのかな?

 それに――龍馬さんに、? どうしてそこまで……?


「陸奥ー! 早ようィやー!」

 龍馬さんが大きな声で陽之助さんを呼び、ハッと顔を上げた陽之助さんが、彼の居る方へと向かっていく。


「……ケホッ」

 遠ざかりつつあった足音が止まると同時に、軽い咳が聞こえた。


 きびすを返しかけていたあたしは、思わず振り返る。

「陽之助さん……!」


 振り返った先には、海援隊本部の壁に手を突き、俯いている陽之助さんの姿があった。


 彼がどれだけ病弱だったとしても、風邪が何週間も続くのはおかしい。


 以前、蒼白あおじろい顔で「あの人には知られたくない」と呟いていた陽之助さんが、脳裏に再び蘇った。


「コホッ……エホ……ッ! ゲホゲホッ……ゴホゴホッゲホッ!」

 痰が絡み出し、咳はなかなか止まらない。


 懐紙に痰を吐いているのか、彼はしばらく口元に懐紙を当てていた。

 痰を吐き、クシャクシャに丸めた懐紙を、どこか物憂げな瞳で見つめる陽之助さん。


 一瞬見えただけだから、確かではないけれど――陽之助さんが痰を吐いて、クシャクシャにした懐紙に……少しだけ、鮮やかなくれないが滲んでいた。


 あれは……


 更に2、3度軽く咳き込んで、ようやく咳が治まった陽之助さんが、あたしを振り返る。


「……何なん? 見やんといて」


 サッと懐紙を隠し、陽之助さんが冷たい声で言った。

 こうして陽之助さんを見ると、彼が明らかに痩せていることに気づいた。ただでさえ華奢だったのに、その細い体が更に細くなっている。


「……ご、ゴメン」

 おもむろに視線を外したけれど、先ほどの咳は耳に残ったままだった。



 それから1週間後、あたしは高杉さんと会っていた。


げんかいには、こんなにキレイな湖もあったんですね」


 町中で会った高杉さんに連れてこられたのは、人気のない森の中にある湖だった。地面は木漏れ日に彩られ、広大な湖はキラキラと静かに輝いている。


「ここは『幽冥ゆうめいの森』っちゅうて、冥王界の西側にあるんじゃ。東には遊郭が集まる花街、北には織田軍に属しちょる武将の屋敷や、信長のづち城がある。南は、朝廷軍に属しちょる武将の屋敷じゃ」


 知らなかった……夢幻魔界は、そんな風に分かれていたんだ。

 ということは、あたしが働く茶屋や海援隊本部は、恐らく夢幻魔界の南側に位置しているのだろう。


「北側は危険じゃけェ、無闇に近づかん方がェ。君がこの世界で――ぐッ……ゴホッゴホッ……ゲホッゴホゴホッ!!」

 突然の激しい咳に背中を丸めた高杉さんが、サッとあたしから距離を取った。


 骨ばった大きな手で口元を押さえ、止まない咳に苦悶する高杉さん。


「大丈夫ですか!?」

「――来たらいけん!!!」

 怒気さえも含むような低く鋭いその声は、駆け寄らんとしていたあたしの足を止めるには十分だった。


 その時、激しい咳に水音が混じったかと思うと、地面に1輪の曼珠沙華が咲いた。


「え……」


「クッソォ……ッ!!」

 悔しそうに拳を握りしめ、彼は歯噛みする。


 居ても立ってもいられなくなり、あたしは急いで高杉さんの元に駆け寄った。

「高杉さん!」


 逞しい肩を上下させながら、血に溺れる肺を鎮めるかのように、高杉さんは胸板を押さえる。

 口から顎へと伝う血を、彼は着物の袖で拭った。


「……労咳ろうがいじゃ」

 先ほどまで咳き込んでいたからか――掠れた声でそう呟いた高杉さんは、フッと口元にを描いてみせた。


「血を吐いて死ぬ――

 最初はオレも、風邪じゃと思うちょった。じゃが、高熱が出た後に微熱が続くようになって……たまにしか出んかった空咳も、痰絡みの強い咳になっていったんじゃ。あまりにも治らんけェ、医者に診せたら……労咳を宣告された」


 高杉さんが口元を歪め、眉間にシワを寄せる。


 不透明だった自らの『死』が、唐突に輪郭を成して目の前に迫ってくる――その恐怖は、いかばかりだろう?


「怖くないですか……? 死ぬのは……」

 恐る恐る尋ねたあたしを一瞥すると、高杉さんはかぶりを振った。


「オレは、死を怖いと思うたことなんぞ――1度もない」


 返ってきた言葉は、平和な現代で生きていたあたしには、到底理解できないものだった。


 数多あまたの死線を潜り抜けてきた武士たちにとって、命のやり取りは日常茶飯事なのかもしれないけど……。


 イヤ、今は考えている暇などない。一刻も早く医者を呼んで、喀血した高杉さんの容態を診てもらわないと……!


「高杉さん、あたし医者を呼んで来ます! ここに居てください!」

 幽冥の森を立ち去ろうと背を向けかけたその時、彼があたしを呼び止めた。

「萌華……君が気にする必要はないけェ。オレは大丈夫じゃ」

「そんなことありません! 呼びに行きます!」


 労咳という重い病気を患っていて、喀血までしているんだ――大丈夫なわけがない。

 顔に出さないだけであって、本当はとても苦しいはずだ。


「……君は、結構気の強いところもあるんじゃのゥ。そねーに言うんじゃったら、君に任せよう。がたこうあんっちゅう医者がるけェ……その人の元に向かってくれんか?」

 あたしの強情さに苦笑し、高杉さんは続けた。

「初めてうた茶屋は、覚えちょるか? あそこを少し北に行ったら、診療所があるんじゃ」


 高杉さんと初めて会った茶屋――それは、今あたしが働いている茶屋だ。

 西に位置するこの森を抜ければ、庶民の家やお店が並ぶ町に出る。そこから北に行けば、診療所があるはずだ。


「あたし、その診療所知ってます! なので――!」


 茶屋の近くということは、恐らく陽之助さんを見かけた診療所と同じ診療所だ。

 再び咳き込み始めた高杉さんと視線を交わし、あたしは彼に背を向けた。



 ――高杉さんと別れて、1時間が経とうという頃。

 森を抜けるところまでは良かったが、あたしはそこから茶屋にすら辿り着けずにいた。


 どうしよう?

 こんなとき、龍馬さんや遮那王君の居場所がわかっていれば、彼らを頼れたかもしれないのに……。


 龍馬さんなら、海援隊本部に居る可能性がある。だけど、ほぼ毎日行っているあの茶屋にすら辿り着けないのに、1度しか行ったことのない海援隊本部の場所なんて、判るはずがない。


 燃えていく西の空に焦燥感をき立てられ、あたしは足を速めた。


「わッ!!」

 近くの曲がり角を曲がった途端、向こうから来た人とぶつかってしまう。


 驚きつつ、ゆっくりと顔を上げると――そこには、目を見開きながらあたしを見下ろしている、龍馬さんの姿があった。


「萌華……!?」

「あ、すみません……! 前見れてなくて……」

 ぶつかってしまったことを謝罪した後、あたしはすぐに診療所の場所を尋ねる。


「それより、ちょうど良かったです。緒方洪庵先生の診療所って、どこかご存知ないですか? 実は高杉さんが労咳で、血を吐いてしまったんです……!」


 情けないけれど、今のあたしにできることなんて、精々龍馬さんに助けを求めることくらいだった。


 険しい表情を浮かべた龍馬さんが、静かに口を開く。

「……ワシも、洪庵先生の診療所に向かいよったところぜよ」


 えッ!? 龍馬さんが!?


 ……何だろう? とてもイヤな予感がする。

 以前、高熱を出した陽之助さんを診療所に行かせたのは、龍馬さんだ。


「何か……あったんですか?」

「実はのゥ――」


 それは、最も衝撃的かつ残酷な言葉で告げられた。


「陽之助が……血を吐いたがじゃ」






【第7話の用語解説】


❀歴史的用語❀

・海援隊…坂本龍馬が中心となって結成した、貿易会社。冥王界でも、物資を運んだり武器の調達を行ったりしている。

・懐紙…ティッシュやハンカチ、便箋として使われた和紙。

・商法之愚案…陸奥陽之助が坂本龍馬に提出した、商事意見書。

・労咳…現在でいう肺結核。

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