第4話

「ついたよ。もう足はつくはずだから」

 泳いだ距離は、それほど長くはなかった。岩場の裏に伝って少し進んだあたりだろう。渉の目の前には、ぽっかりと洞窟の口が開いていた。渉の足は砂場について、ホッと息を吐く。

「上がって」

 手をつないだまま、砂を踏んで進んでいく。


「ここ、登ろう?」

 すぐに行き着いた行き止まりの真ん中辺りに、岩がせり出していた。

「え?」

「いいから。騙されたと思って、登ってよ」

 慣れた手つきでハルカが岩を上って行く。

「ほら、上に来て!」

 あっという間に登り切ったハルカが、上から顔を出す。どうやら上はスペースがあるらしい。

 渉はゆっくりと登って行く。


「下見て!」

 登り切った渉は、そろそろとしゃがみ込みながら、ハルカに示された岩の先から下を覗き込む。

「わぁ」

 渉の声が漏れる。

 底が、見える。伊野島は海がきれいだと思っていたが、ここまで透明な場所は見たことがなかった。

「すごいでしょ? 深いんだけど、底まで見えるんだよ」

 隣にしゃがみ込んだハルカが得意げに渉を見る。

「うん。すごい」


「でね」

「ん?」

 渉は首をかしげる。

「飛び込もう」

「え」

 ハルカが渉の手を握る。


「一緒にやれば、怖くないよ」

 澄んだ目にじっと見つめられて、渉はコクリと頷いた。

 渉がゆっくりと立ち上がるのに合わせてハルカも立ち上がる。

「大丈夫」

 ハルカの声に、渉は息を大きく吸い込む。

「せーの、で飛び込むよ?」

「ああ」

 渉の声は上ずっている。


「いち、に、さん、って数数えるからね?」

「……前置きが長いよ」

「渉の準備ができるのを待ってるんでしょ」

「勢いがそがれるだろ」

「うん、ちょっと落ち着いたね」

 ニコリとハルカが笑う。渉は顔を赤くして慌てて前を見た。

「やるぞ」

 渉がぎゅっと力を入れると、ハルカも握り返す。


「いち、に、さん。せーの!」

 二人の体が宙に浮いた。次の瞬間、洞窟の中に水しぶきと大きな音が広がった。

 ザバン、と渉とハルカの顔が水面に出る。

「やったね」

 ハルカの笑顔に渉の緊張がゆるむ。

「ああ」


「あ、見て、キレー」

 ハルカの指さす先には、洞窟の外の海が真っ赤に見えた。傾いてきた夕日が水面に揺れている。

「ああ。キレイ、だな」

 渉はハルカを見る。キラキラと水面を反射するハルカの瞳が輝いている。

「キレイだな」

 渉の声に、ハルカが渉に視線を向けた。見つめられていることに気付いたらしく、照れくさそうに目を伏せた。


「ハルカ」

 渉は水の中でハルカの体を引き寄せる。ハルカが伏せた目をそのまま閉じた。

 渉はハルカの唇に自分の唇を重ねる。温かかった。

 そっと唇を離すと、ハルカがゆっくり瞼を開いた。その目が涙にぬれている。

「泣くなよ」

 ハルカは何も言わずに首を横にふった。渉だって今日が最後だなんて思いたくはなかった。


「また来るから」

 渉の言葉に、ハルカが頷いた。

 ハルカは大きく息を吸うと、いつものように笑った。

「戻ろう」

「ああ」

 二人はまた来た時のように手をつないで洞窟を出た。



 翌朝、渉は早い時間に自転車を走らせていた。昨日「バイバイ」とあっさりと帰ってしまったハルカとは、約束はしたが、連絡先を交換していなかったからだ。

 海で会うばかりで、スマホを弄ることもないハルカに、渉は連絡先を聞き損ねていた。

 9時に船に乗ることは伝えているから、もしかしたら波止場に来るかもしれない。でも、もしかしたらまたあの場所で待っているかもしれない。

 そう思うと、家でじっとしていられなくなった。

 だが、母親の秘密基地にも、ハルカの秘密の場所にも、ハルカの姿はなかった。

 そして、船が出るまで待ってみたが、波止場にハルカの姿は現れることはなかった。


 *


「また来る」

 渉はその約束をようやく果たせたことにホッとする。祖父の家に僅かな荷物を放り込むと、渉は去年よりも更に錆びついた自転車をギコギコと言わせながら秘密基地に急ぐ。

 あれから1年が経った。

 来ようと思えば来れた。だけど、現実を受けとめる自信がなくて、渉は伊野島に来れなかった。

 1年経ってようやく、事実を消化した。だから、命日の後に伊野島にやって来た。


 自転車をガードレールに立てかけて、人の出入りの気配のない道なき道を下る。

 降りきって歩きながら水面を眺める。

 あの時のように、ぷかりと赤い水着が浮かんでこないかと、どこかで期待をしている。

 去年、渉のパーカーは最後に会った日に渡したままだ。


 でも、水面はただ波の動きを伝えるだけだ。


 渉は服を脱いで水着になると、海の中に入って行く。もう、あの時のように怖くはなかった。この場所に離岸流がないことは、既に去年聞いている。そのことも大きいのかもしれない。

 ハルカの秘密の場所にたどり着く。去年より泳ぎがまともになったのは、時折プールで泳ぐようになったからだろう。

 その変化に驚いていたのは、母親だった。特には何も言われなかった。だけど、気を付けてねという言葉だけは毎回かけられた。それでも、ホッとしたように見えたのは、きっと母親も乗り越えられていなかったからだろう。


 春佳(ハルカ)の墓の前で1年ぶりに会った坂崎に、去年の話をした。坂崎は笑わなかった。ただ、春佳が「海は怖くない」と言っていたことに涙を零した。

 渉があの時で止まっていたように、母親もあの時で止まっていた。もしかしなくても、坂崎もあの時で止まってしまっていたのだろう。

 だから、渉たち3人は新しい家族の形を作れなかったままで、結局「離婚」という終わりを迎えてしまった。

 

 どこか、予感していた。春佳にパーカーを渡していたのは、途中から意味が変わっていた。明日も会えるようにという、渉の願掛けも含んでいた。だけど、伊野島から帰って、古いアルバムをめくって春佳の顔を確認するまでは、違っていて欲しいという気持ちがあった。

 伊野島で会った春佳は、4年前の小学生だった頃の幼い春佳ではなかった。だけど、その面影は十分にあった。渉が会ったのは、間違いなく渉が知っている春佳だった。


 春佳は、4年前に亡くなった渉の義理の妹だ。坂崎の実の娘。


 物心ついたころにできた義理の妹。血がつながっていないことも理解していた渉は、春佳に妹以上の感情を持っていた。

 春佳が亡くなったのは、夏の家族旅行で海に行った時だった。渉が中1で、春佳が小6。

 地元の子供たちに交じって、岩場から海に飛び込んで遊んでいた。遊び疲れた二人は浜に上がろうとしている時だった。渉と春佳は手をつないでいた。

「お兄ちゃん、恥ずかしー!」そう春佳に言われて、手を離したすぐ後だった。


 後ろを振り向くと、春佳がいなかった。慌てる渉の目に入ったのは、遠く流されて行く春佳の赤い水着だった。離岸流。そういうものがあると知識としては知っていた。だけど、渉は必死で春佳を追いかけた。だが、先に沖に流されて行く春佳に追いつくはずもなく、渉は必死であがいた。気が付けば渉は病院のベッドの上にいた。

 春佳の遺体には、会わせてもらえなかった。それは、まだ中1の渉を気遣ったものだとはわかっていた。それでも、最後の姿を目に入れていないせいで、どこかでまだ春佳が生きているような気がしていた。

 その時から、渉たち3人の時間は止まったままだった。

 

 渉は誰もいない洞窟の岩を上って行く。去年、春佳と覗いたように、下を覗き込む。水はどこまでも透明だった。去年と違うのは、渉の隣に春佳がいないことだった。

 渉はすくりと立ち上がる。

「いち、に、さん。せーの」

 ザブン、と体が海に落ちる。ぷはっ、と水面に顔を出す。洞窟の中には、渉の出す音だけが響く。

もう春佳はいないのだと、実感するしかなかった。


「キレー」

 春佳の声が聞こえた気がして振り向く。洞窟の外の水面が太陽を反射してキラキラと輝いている。去年見た春佳の瞳を思い出す。そして、そっと触れた唇も。

 間違いなく温かかったのに。春佳は生きていたのに。

 渉はぷかりと水面に浮かぶ。

洞窟の天井に、反射した水面が映る。ゆらゆらと揺れる水面を見つめる。

 渉は目を閉じる。

 海は温かかった。


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忘れたい記憶も忘れていた過去も、全部海の中に置いてきた。 三谷朱花@【E-39】文フリ東京38 @syuka_bunfuriTokyo38

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