第3話

 海に入る度に、渉は泳ぐ感覚を思い出していた。中学生まではギリギリ体育の授業でプールに入ることはあったが、致し方なくほんのちょっと泳ぐ以外は、泳ぐような場所に近づいてはいなかった。

 中一の夏までは25メートルを難なく泳ぎ切っていた渉が、プールの途中で泳がなくなるのを目の当たりにしていた体育教師も、事情が事情だと、泳ぐつもりがないのかと渉を責めるようなことはなかった。

 そして渉は泳ぐ必要のないプールのない高校に進学し、中学三年の夏以来、泳いだことはなかった。

 泳ぐ感覚は思い出したが、それでも足がつかない場所で泳ぐ踏ん切りは付かなかった。


「ほら、こっちまで来なよ」

 ハルカが少し先で海から顔を出して手を振る。2メートルほどしか離れていないその場所は、もう足がつかない場所だ。

 この場所が、波も立たない流される心配もない場所だと、祖父の口から教えられても、渉は勇気が出てこなかった。

「渉は泳げるって。私が教えたんだから!」

 ハルカの声に、渉は苦笑する。


「どれだけ自惚れてるんだよ」

 2メートル先に、渉は声を投げる。

「えー?! 聞こえなーい。私の教えが素晴らしすぎて感動してるって?」

 穏やかな波音しかしない静かなこの場所で、聞こえないふりをするハルカに、渉は地面に足をつけて、水を勢いよく掛ける。

 降りかかる水を、ハルカは避けるように泳ぎ出す。赤い水着が近づいてくる。渉とハルカの距離が縮まる。


「行こうよ」

 ハルカの手が、渉の腕を掴む。だが、渉は首を横にふった。

「だめ、か」

 渉は目を伏せる。

「ハルカのことを信じてないわけじゃない。……でも……」

「あと2日あるでしょ?」

 ハルカがニコリと笑う。


 頷きかけた渉は、あ、と声を漏らす。

「泳げるのは、明日までなんだ。明後日は、朝、島を出るから」

 ハルカは目を見開いた後、ゆっくり目を伏せた。

「そっか。明日までかー」

 どこか寂し気な言葉に、渉は心がキュッと掴まれた気分になる。

 ハルカはそのまま足がつくところまで泳ぐと、ザブンと海面から立ち上がった。渉はその姿を視線で追う。


 目があったハルカが、赤い水着の両腰に手を当ててニコリと笑う。

「あと1日ね。私の手腕が試されるわけだ」

「……だな」

 それでもめげないハルカに、渉は苦笑した。

「なーに、その顔。明日、私が奇跡を起こすって、信じてないんでしょ!」

「奇跡、か……」

 渉は岸に向かって歩きながら、ハルカの顔をじっと見る。


「何?」

「いや……奇跡ってあるのかな、って……」

 渉の言葉に、ハルカが微笑む。

「あるよ」

 その視線は、海へ向かっていく。

「そっか」

 渉は海を振り返る。穏やかな波間が、遠くまで広がっている。


「渉、もう上がろ」

 ハルカの手が、渉の腕を掴む。ハルカの熱が渉の腕に移ってくる。さっき腕を掴まれた時には感じなかった恥ずかしさが渉を襲う。

「ああ」

 恥ずかしくて渉はハルカがいる前を向けなかった。だが、ハルカが渉の顔を覗き込んでくる。

「渉? 何赤くなってるの? やだ、何かエッチなこと考えたんでしょ?」

「違うし!」

「焦ってるところが、怪しー」


「うっさい!」

 渉はハルカの手を振り払うと、ザブザブと岸に向かって歩き出す。

「ちょっと、渉待ってよ」

 その後ろを、ハルカが追いかける。

 この時間がまだ続いていくんだと、渉は思いたかった。

 

 岸に戻って、いつものように岩場に腰を下ろす。

「ねー。好きな人っている?」

 唐突なハルカの言葉に、渉はドキリとする。

「ねー。教えてよ」

 ハルカが渉の顔を覗き込んでくる。渉は視線を逸らす。


「あー。いるんだー」

 渉はギロリとハルカを見た。

「ハルカは?」

 渉の反撃に、ハルカはクスリと笑う。

「ひーみーつー!」

 渉はハッとする。記憶が蘇る。


「学校の人?」

 ハルカの問いかけに、渉は我に返る。

「黙秘する」

 渉はハルカから視線を外した。

「何? 難しい言葉使って逃げるのー。ナシだよー」

「……自分だって言わないくせに」

「えー? 聞こえなーい」

「聞こえてるくせに」

 渉は海を見つめた。寄せて返す波が、鼓動の早くなった心臓を沈めてくれるような気がした。


「……もっと、一緒に居たかったなー」

 ぼそりと呟かれた声に、渉はハルカを見る。ハルカも海を見つめていた。渉の視線に気づいたハルカが、渉を見上げる。

「何?」

 きょとんとした顔は、さっきの呟きなどなかったかのようにも見えた。

「いや……」

 何を言っていいのかわからなくなって、渉はまた海に視線を向けた。

 太陽がゆっくりと海へ近づいていく。


「帰ろっか」

「ああ」

 二人は、立ちあがった。

 帰りの合図は、いつもハルカだ。

 初日は、ハルカの勢いにおされて、帰るタイミングがつかめなくて言い出せなかった。渉が東京から来たと話すと、高校生活について根掘り葉掘り聞かれた。ようやく質問がやんだのは、日が陰ってきてからだった。

 次の日には、タイミングを探していなかった。帰ろうと思ったタイミングで、ハルカが言い出した。

 その次の次の日には、もうちょっと一緒に居たいと思った。


 ハルカはいつものように赤い水着のまま草むらを上がろうとする。

「ハルカ」

 渉はパーカーをハルカに渡す。

「別にいいのにー」

 ハルカは肩をすくめて、でもニコリと笑う。

「ありがとう。借りるね」

 初日、赤い水着のまま走り去るハルカを見送った渉は、翌日からパーカーを持ってきた。そして、こうやって帰り際に渡す。


 草むらを上り切ったハルカが、小さく手を挙げる。

「じゃ、また明日」

「ああ。気を付けて帰れよ」

「何だか、お父さんみたい」

 クスリ、と笑うハルカは手を振って、渉の祖父の家とは反対の方向に走って行く。

 初日、家まで送ると言った渉に、ハルカは「すぐ近くだから水着だけで来てるんだよ」と笑った。

 それでも、角を曲がるまで、渉はハルカを見送る。

 そうして見えなくなってようやく、渉は祖父の家に向かって自転車を走らせる。

 


「明日って、何時に出るの?」

 ハルカの声に、軽く海をかいていた渉は足を地面につけた。

「えーっと、9時過ぎの船に乗る」

「そっか。あっという間だったねー」

「……そうだな」

 渉は目を伏せた。たった1週間。その間、ハルカとは海で泳いでたわいない会話をしていただけだ。

 それだけなのに、明日には会えなくなると思うと、気持ちが沈んだ。


「ねぇ、渉」

「何?」

 渉はハルカを見る。ハルカのニコニコとした笑顔がまぶしくて、渉は少し視線を逸らした。

「私の秘密の場所、教えてあげよっか?」

「秘密の場所?」

 ハルカの水着をじっと見るわけにもいかなくて、渉の視線は海面に向かう。


「うん。た・だ・し」

「ただし?」

「渉が、足がつかないところで泳げたら」

「……じゃあ、別にいい」

 海の中に入って泳いでいる。これだけでも、渉にとっては進歩だった。

「海は、怖くないよ」

 落ち着いたハルカの声に、渉はハルカを見た。


「大丈夫だから」

 ハルカにはふざけた様子は少しもなくて、渉は目を伏せた。

「絶対手を離さないから」

 ハルカが渉の手をぎゅっと握った。あの時のことを思い出して、渉は首を横にふった。

「私が、絶対離さないから」

 渉は不意に涙が込み上げてくる。

「渉、大丈夫だよ」

 ハルカの穏やかな声に、渉は小さく頷いた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る