第2話

「おい! 生きてるか!」

 震える手でスマホを取り出しながら、渉は海に向かって叫ぶ。反応は、ない。

「おい! おい! 大丈夫か!?」

やはりピクリともしない体に、渉は「くそっ」と叫んでスマホを操作する。

 だが、震える手が画面を滑って、目的の数字が上手く押せない。


「呼んだー?」

 聞こえて来た声に、渉はハッと顔を上げる。

 海面に顔を出した少女がいて、手を振っていて、渉はホッとする。

「何だ、生きてるのかよ……」

 へなへなと岩場にしゃがみ込む渉に、少女が泳いで近づいてくる。

 浅瀬になったのかザブザブと歩いて近づいてきた少女は、渉と同じくらいの年齢に見えた。


「何?」

 赤いワンピース型の水着を着た同じ年くらいの少女に、渉はドギマギする。恥ずかしくて顔すらまじまじと見れない。

「……いや、悪い。動かないから、死体かと思った」

 目を逸らしてそう告げると、少女がクスっと笑う。渉はハッとする。

「死体がしゃべる?」

 少女の表情は渉を明らかに面白がっていて、その表情に渉は戸惑う。記憶が刺激されたからだ。いや、まさか、と渉は首を横にふった。


「しゃべらないだろうな……ここ、人気がないから一人で泳ぐには危ないんじゃないか?」

 渉は話を逸らした。

「そう? そんなこと考えたこともなかった」

「自分で危ないかどうかくらい考えろよ」

 咄嗟に渉は少女を責めていた。呑気に「考えたこともない」と告げる言葉が気に障った。

「そんなに怒らなくても」

「こんなところで泳ぐなよ。……溺れても誰にも見付けられないだろ」

 はっきり言って、渉の怒りは八つ当たりにも近かった。自分でも過剰に反応していると分かっている渉は、声のトーンを抑えて、気持ちを落ち着けた。


「まっじめー」

 茶化す少女を渉はムッとして睨みつけた。

「自分のことだろ」

「心配してくれるんだ?」

 ふふん、と笑う少女から渉は顔を背けた。

「するだろう、普通」

「ありがと。人に心配されるって、ちょっとこそばゆい」

 渉の記憶がふいに刺激される。即座に少女を仰ぎ見た。目が合った少女の顔にドキリとする。でも、何? と首を傾げた少女の顔は、渉の知らない顔だった。


「いや。普通に心配するだろ」

 渉は首を振った。

「そう? 最近の人は他人に無関心なんじゃない? 通りすがりのヒーローさん」

 少女の視線を感じて、渉は苦笑する。

「ヒーローじゃないし。そもそも、助けてもないだろ」

「えー。だって、名前聞いてないし」

「人の名前知りたいなら、自分から名乗ればいいだろ」

 渉は呆れた声を出した。

 ぷぷ、と少女が笑う。

「まっじめー」

「うっさいな。……渉だよ」

 渉はぶっきらぼうに告げると、ふい、と顔を背けた。


「渉、ね。私は、ハルカだよ」

「ハルカ」

 渉はハッとしてまたハルカを見上げた。ハルカ。いや、まさか。渉は頭を振る。

「よろしくね?」

 ハルカに手を差し出されて、渉はその手をおずおずと握る。手は濡れてはいたが温かかった。

「……温かい」

「変なこと言ってるー。女の子の手を握るの初めてとか?」

「うっさいな」

 渉がムッとすると、ハルカがクスっと笑った。渉は、その笑い方が彼女と似ていると思う。


「何?」

 じっと見ていた渉の顔を、ハルカが覗き込んできた。

「いや、別に」

 渉は目を伏せた。どこかが似ている人間など、どこにでもいる。実際、クラスメイトにも話し方が似ていると思った相手がいたくらいだ。笑い方が似ている人間だって、いくらでもいるだろう。

「ね、渉も泳ごうよ」

 ハルカが渉の手を引っ張る。

「……泳げないから」


「カナヅチ?」

 渉は肩をすくめた。

「昔は泳いだけど、今は泳げない」

「それって、カナヅチと違うの?」

「カナヅチ……かもな」


「授業、困るんじゃないの?」

 ハルカの疑問に、渉は首を横にふった。

「うちの高校、水泳の授業はない。プールもないし」

 へー、とハルカが声を漏らす。

「そんなところあるんだねー」

「この島じゃあり得ないんだろうな。プールなくてもすぐ海があるし」


 ハルカがニコリと笑った。

「泳ぎ、教えてあげようか?」

 渉は首を横にふった。泳ぎたい気持ちはなかった。

「海は、そんなに怖いところじゃないよ」

 ドキリとする。渉の気持ちを言い当てられたような気持ちになった。

「……怖がってるわけじゃない」

 渉の精一杯の強がりだった。


「じゃ、入ろ!」

 ハルカに強く手を引かれる。彼女と重なる。そんなはずはないのに。

「ほら」

 急かすハルカは、諦める気はなさそうだと理解して、渉はため息をついた。

「……入るだけなら。Tシャツ脱ぐから」

 渉はTシャツを脱ぐと、そろそろと海に足を入れた。


「途中までは足付くから」

 ハルカが海の中を先に歩き出す。ハルカの身長は渉の肩くらいの高さだ。渉の知る彼女はもっと小さかった。

 ぴた、と止まったハルカが、振り向く。

「ここから深くなるよ」

 途端に渉は怖くなって、首を横にふった。


「怖がりだなー。大丈夫だって。私もいるし」

「いや、本気で無理」

 渉の顔は青ざめていた。それに気づいたハルカがコクリと頷く。

「じゃ、足付くところで、浮いてみようよ」

「……流されたら困る」


「ここは、大丈夫だから。さっきも私、浮いてたでしょ?」

「……あれ、浮いてたのか」

 ぷかりと浮かんだ鮮やかな赤い水着が、脳裏に蘇る。

「そうそう。ほらほら仰向けになって。私がきちんとつかんでおくから」

 渉は息を小さく吐いて、覚悟を決めた。


「絶対離すなよ?」

 念押しする渉に、ハルカがクスっと笑う。

「安心して」

 どこを安心していいのかには不安が残ったが、渉はそろそろと足を地面から離した。

 ぷかり、と体が海面に浮かぶ。


「ほら、大丈夫でしょ?」

 ゆらゆらと体が揺れる。海の温かさに、体に入っていた力が、徐々に抜けていく。

「空、広いな」

 ぽつり、と呟いた渉に、でしょ? とハルカが返事をした。横を見ると、ハルカは手をつないだまま、渉と同じように海に浮かんでいた。


「つかんでおくんじゃなかったのかよ」

「つかんでるでしょ?」

 ぎゅぎゅ、と手に力を入れられて、渉は顔を赤くした。こんな風に女子と手をつなぐことなんて初めてだったのを思い出したせいだった。渉は意識を逸らすためにまた空を見上げた。穏やかな波に体が揺れる。不思議な感覚だった。


「ね、海は怖くないでしょ?」

「……今はな」

 クスっと笑ったハルカは、あ、と声を漏らす。

「渉はいつまで島にいるの?」

「あと1週間はいる」

「海は怖くないって教えてあげるよ」


「……別にいいよ」

 渉の声は固い。

「良くないの! 海は怖くないんだって。気を付けなきゃいけないけど、怖がって避ける場所じゃないの。……海は命の源なんだから」

「何だよそれ」

 最後の説明に、渉は、ふ、と笑う。

「だって、本当のことじゃない。人間だって元々はプランクトンだったわけでしょ?」

「人間は人間だろ」


「元をたどればプランクトンでしょ」

「……はいはい」

「ハイハイじゃないし!」

 ハルカがぎゅっと手を握ってくる。横を見れば、ムッとした表情のハルカがいて、渉はプハッと笑った。

 どこか懐かしいやり取りだった。

 渉はぎゅっと切なくなる。


 でも、つないだ手のぬくもりは間違いなくあって、このハルカは生きている。

 ただ、名前が彼女と同じで、何となく彼女と似ているだけだ。今手をつないでいるハルカは生きているんだから。

 もし、今彼女が生きていたら。ふいにそんな考えが浮かんで、渉は自分で否定する。

 そんなことはあり得ないと、渉だってわかっている。


「何か用事あるの?」

「……いや、ないけど」

 この島に来て、用事などない。せいぜい、畑をやっている祖父の手伝いをするくらいだ。

 祖父はこの島の漁協で働いていた。その傍ら、自家菜園が趣味で祖父の家に出てくる野菜は殆ど祖父が作ったものだった。元々は祖母の趣味だったらしいが、いつの間にか凝り性の祖父がほとんどを作るようになったらしい。

「じゃ、明日も午後、海に来てよ」

「……気が向いたらな」


「女の子を待ちぼうけにさせるって、どうなの?」

 きっとハルカはムッとした顔をしているんだろう。声が拗ねている。

「わかったから。……泳ぐかはわかんないけど、来るよ」

「うん。よろしい」

 先生のように畏まった声を出したハルカに、渉は苦笑する。

 見上げた空は、青かった。

 小さな波音だけが、渉の耳に届いた。 

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