忘れたい記憶も忘れていた過去も、全部海の中に置いてきた。

三谷朱花@【E-39】文フリ東京38

第1話

 船に揺られながら、渉はただ波飛沫が空に舞うのをじっと見つめていた。

 昔、伊野島に行くときに感じたはずのワクワクは、全く生まれてこなかった。

 今の感情の通り、積極的に伊野島に行きたかったわけではない。でも、あんな気分のまま家に居るのも嫌だった。

 高校二年生の渉は、受験生ではないおかげで、まだ勉強漬けの毎日ではない。だから、「やることがないなら行ってきたら?」という母親の言葉に飛びついて、母親の地元である伊野島に来ただけだ。


 両親が離婚する。


 それは、渉にとって「ようやく」「とうとう」という言葉が付く結末だったけれど、それでも、何とか3人で家族としての形を守って来たものが、無駄だったと言われた気がして、思った以上に落ち込んだ。

 そのことに母親は気付いたのかどうか、島に行くことを勧めて来た。

「本当は私も行きたいんだけど」と告げた母親は、本当にそう思っているのかどうか。今日もコンクリートジャングルの中で仕事に邁進しているはずだ。


 あのことがあって両親の関係がぎくしゃくしてから、母親は何かに救いを求めるように、仕事に没頭するようになった。渉が中学1年生で、一人で家に居ても何とかなる状況だったのが、そのことを後押ししたと言ってもいい。

 元々仕事人間だった父親と、仕事人間になってしまった母親に、渉は何とか家族としての繋がりを保とうと、どちらか、もしくは二人が家に居る間には、明るく振舞っていた。

 その頑張りは、もう必要なくなってしまった。


 船がスピードを緩める。もうすぐ港だ。見慣れた景色に、ふいに記憶が刺激されて、渉は目を伏せる。ずっと思い出さないようにしていたのに、思い出してしまったのは、きっと両親が離婚することになったからだ。

 「伊野島に行ってみたい」そう言って笑った顔を思い出そうとして、渉はもうはっきりとその顔を思い出せなかった。4年という月日と、思い出さないようにしようとしていた渉の努力の賜物かもしれなかった。好きだったはずの相手の顔を思い出せないことに、渉は苦笑する。


 いや、きっと渉だけじゃない。母親も、下手をすれば父親だってその顔は曖昧になっているのかもしれない。

 彼女のことは、ずっと家の中で触れてはいけないことになってしまっていたからだ。


 ゆらゆらと揺れる船から、固いコンクリートに覆われた波止場に足を下すと、渉は息をついた。いつもいる都会とは全然違う匂いがする。濃い潮の匂い。

 この匂いを嗅ぐと、渉は伊野島に来た、と実感できた。今日もまた同じように感じたが、いつもと違うのは、到着しても心が一向に晴れないことだ。

「渉、よく来たな。疲れたか?」

 大股で近づいてきたのは、麦わら帽子をかぶった祖父だった。祖父は祖母が亡くなり一人になってからもずっと伊野島に住んでいる。まだ大病もしたことはなくて、元気なのだけが取り柄だといつも言っているが、渉の身長が伸びたせいか、小さくなったように感じた。


「いや。そんなに疲れてないよ」

「そうか。昼は食べたのか?」

「食べた」

 今は午後1時を過ぎたところで、飛行機の中で早めの昼食を取っていた渉はコクンと頷いた。

「じゃあ、まっすぐ家に行くか」

「うん。お願い」


 祖父の後ろについて、波止場に横付けされていた少し錆びついた軽トラに近づく。前に見た時は納車されたばかりの時で、錆の一つもなかったのを思い出す。

 ドアを開けると、染みついた潮の匂いと、独特な車の匂いがした。

「友梨佳は大丈夫そうか?」

 車に乗り込んだ祖父は、車を発進させながら渉をちらりと見た。母親の名前に、渉は頷く。

「今日も仕事に行ってるはずだよ」

「いや、そういうことじゃなくて……」


 渉だって、祖父が問いたい内容は理解している。だけど、母親が大丈夫かどうかなんて、渉にはわからなかった。

「わかんないよ。でも、少なくとも母さんは泣いてはいなかったし、離婚が決まってホッとしたように見えた」

「そうか……」

 沈黙がトラックの中に落ちた。

 渉は窓枠に肘をついて頬杖をつくと、窓の外に視線を向ける。木々に覆われていた道が終わり、左手にエメラルドグリーンと濃い青のコントラストが広がった。


「……相変わらず、海が綺麗だね」

「そうか?」

 毎日この海を眺めている祖父には、この海は当たり前で、澱んだ海を見慣れた渉が感じるものは伝わらないのかもしれない。

「あの……坂崎さんは、どんな感じだった?」

 他人行儀に「坂崎さん」と呼ぶ祖父に、結局二人が仲良く酒を酌み交わすようなシーンも見ることはなかったな、と渉は思う。


 坂崎は渉の父親だ。いや、正確にはもうすぐ元父親になる、義理の父だ。


 渉の母親と坂崎は再婚同士だった。

 母親は島で一人暮らす祖父に、電話だけで再婚の報告をして、結局坂崎をこの島に連れて来ることはなかった。来るとしても、母親だけか、渉を連れてのどちらかだ。

 渉の実の父親の両親、つまり渉にとっての父方の祖父母の過干渉によって最初の結婚生活を壊された母親は、坂崎にも自分の親との交流を望まなかったが、坂崎の両親との交流も望まなかった。

 そのために、祖父は坂崎とは顔を会わせたことがないのだ。


「いや、淡々としていたよ」

 むしろなぜ、今の今まで離婚を選ばずにいたのかが不思議なくらい、二人の離婚の話はあっさりと終了した。「別れない?」と提案した母親に「そうだね」と応じた坂崎。二人に、結婚したときにあった熱は全く感じられなかった。

「渉は?」

 祖父の問いかけに、渉は祖父を見る。

「俺は……別に」

 いつかはこうなるんだろうと予想をしていたことだ。


「また、母さんと二人きりになるんだな、って思ったくらいだよ」

 それ以上のことは言えなかった。

 口にしたら全てが軽くなるような気がして、言えなかった。

「そうか」

 渉はまた窓の外を見た。カラフルなパラソルが所々に刺さる白い砂浜がまぶしかった。

 少なくとも、渉はその眩しい光の中には居られる気がしなかった。


 *


 軽トラと同じで錆びついた自転車を漕いで、渉は海風を切っていく。祖父に自転車を借りて走ってくると言い置いてきた。

 昔、母親に教えてもらった秘密基地に行くつもりだった。白い砂浜の奥にある、大きな岩の影。そこが母親の秘密基地で、潮が満ちなければ磯遊びもできる、子供にとっては格好の遊び場だった。


 道路の脇に自転車を立てかけると、渉は道なき道を下って行く。昔はそれでも獣道のように草がなぎ倒されていて、多くはないとは言え、誰かが遊びに来ていた場所だが、もう今は遊びに来る子供はいないのかもしれない。

 潮は引いていて、岩場には少し水たまりがあるくらいだった。どうせ洗えばいいと、渉は岩場に腰掛ける。湾の内側にあるこの場所は、波がほとんど立つことはない。穏やかに寄せては返す波が、渉の心を落ち着かせる。


 長く伸びる水平線と、大きな空。そして立ち上がる入道雲。


 何度も見たはずの景色なのに、渉はじわりと涙が浮かぶ。

 慌てて涙をぬぐうと、渉はスン、と鼻をすすった。その瞬間、海面にぷかり、と赤い布が浮かび、渉はドキリとする。

 よくよく見ると、布からは、肌の色が見える。

 人だ。

 渉は立ち上がる。間違いなく人が浮いている。だが、渉は海に入るのを躊躇する。

 泳げないからだ。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る