ファルザードⅡ

 夢幻の中に勇者たちの物語が、姫君たちの物語が、古の賢者たちの物語が、ひらめいては溶け去り、また現れては漂っている。

 ターリーク王ファルザードは、女奴隷セビルとの初夜で自分が何を語ったのか思い出せない。何か自分が重要なことを語ったらしいという感覚はあるのだが、その話した内容だけ霞の彼方だった。ただ、物語を語るのは楽しかったように思う。

 いや、楽しいというような生半可なものではない。知らず知らずのうちに心に石のように巣食っていたものが溶けて消えたような、何をしようとも解くことができなかった積年の呪詛がほどかれたような、救われた気持ちになった。

 セビルはいい聞き役だ。ファルザードが語れば相槌を打ち、語り終わって感想を聞けば、これ以上ないほどぴたりと勘所を言い当てる。ファルザードが物語に詰まっても決して彼を急かさず焦らせず、どうしても糸口が見えないときだけ、蜘蛛の糸を引くように光明を示した。セビルが相手なら、どこまでも、いつまでも語れる気がした。もっと語りたい、とファルザードは思った。

 ファルザードは、遥か西方から遠き東方に至るまで、ターリークの物語も作れれば、異境の物語も作れたし、今昔もほとんど思いのままだった。それの元になったのは、幼い頃から親しんできた吟遊詩人たちの詩であり、遥か彼方から来る使臣の報告だった。或いは、物語を作るために、今までそうしたものに接してきたのではないか、そう錯覚するほどそれらはファルザードの新たな日々に役立った。

 物語が積み重なっていく。ファルザードが語る新たな物語が。

 語っていると、ファルザードは時折、自分でも思ってもみなかった物語の小路に迷い込んだ。しかし、彼の頭ではなく、語る口がこちらと誘う方に進むと、その小路はファルザードを新しい物語の世界に誘った。そしてそういうときは、最初予想だにしなかった良い物語ができるのだった。

 これまでファルザードは己の力量をよく踏まえてきた。国政においても、その他の何事においても、彼ができると思えばできたし、できないと思えばできなかった。しかし、物語は、自分ができると思ってさえいなかったことができる。まるで、何か大いなるものに導かれているように。魔法を使っているようだと思った。玉座にあろうとも、人である我が身には使うことが許されなかった、霊妙不可思議の力が己の手にあるようだと感じた。

 異なる土地、異なる人間の物語は、ファルザードを彼の一回きりの人生から解き放った。靴売りの話をすれば、靴売りを演じるがごとく、武人の話をすれば、武人を演じるがごとく、物語の中の他人に託して、ファルザードはいくつもの生を経験する。気ままに世界を巡る旅人の目を持ち、過去を食み肥え太った悪竜を殺す高揚を味わい、兄に別れを告げられる弟の心に思いを馳せた。

 全てを手に入れたと思っていた自分が、セビルと出会うまでなんと不完全な生を生きていたことだろうと嘆いた。なんと美しく素晴らしいものを試しもせず見逃してきたのか。物語というものを食らい貪り創り取り返したい、そう思った。彼は初めて、この繁栄を極めた王国の玉座が狭いと感じる。

 奴隷をすぐに殺してしまうファルザードにしては珍しく、彼はその女奴隷をいつまでも殺さなかった。彼はセビルを到底愛しつくせてはいなかったし、もっと彼女に語りたかった。そして物語によって虚ろな心を埋められたファルザードには、もう奴隷を取り換える必要もなさそうだった。物語への熱狂はファルザードを夜な夜な駆り立てる。

 しかし、ファルザードの名君としての名声は労せずして降って来たものではない。彼はその才覚と努力において、やはり名君だった。朝から夕暮れまで玉座や執務室に在るときは、頭の内から強いて物語の喜びを取り去った。だから、傍目には、決して何かに耽溺しているようには見えなかった。だが、彼の本当の関心がすでに他に移っているということは、伝わる人間には伝わるものである。そして、次第にそれは国全体に酒を覆したように取り返しようもなく滲み込んでいく。なぜなら、彼は紛れもなくこの王国の王であるから。

 ある日、王都アルダーグの外れにある店で一房の葡萄が腐り落ちた。それが始まりだった。

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