ギヴとダーラー

 ファルザードがセビルを買ってからひと月ばかりした頃、武官のギヴと文官のダーラーは、揃ってファルザードに奏上した。それに対するファルザードの受け答えは申し分のないものであった。当を得て、何一つ欠けているものがなかった。しかし、ギヴとダーラーは微かに手応えのなさを感じた。その感覚は、蜃気楼のように近付けば遠のくようで、しかと捉えられるものではなく、互いに同じものを感じていながら、二人はそれを言葉にして共有しようとはしなかった。

 奏上が終わり、玉座の間から出れば、庭園に光が降り注いでいる。緑は美しく青々と茂って、さすがに日向に出れば汗も出ようが、陰に入れば心地よい季節だった。

「奥さんと双子は元気か」

 宮殿の外に張り出している柱の陰で、ダーラーはギヴにそう聞いた。ダーラーとギヴは古い友人で、共に王に奏上するほどの高位の官ではあるが、互いに文官と武官の別があるので、今日のように揃って奏上をする機会はあまりなかった。ゆっくり話ができるのは久し振りのことだ。

「ああ、みんな元気にしている。双子はいつの間にそこまで育ったのか、よく屋敷を抜け出して港の方まで出かけていくようだ。このままでは、きっと瞬きをする間に船に乗ってどこかへ行ってしまうだろう」

 そう言いながらも、ギヴはその未来をあまり嘆いていない自分を見つける。本当は自分の武官としての職位を継いでほしかったはずなのに、不思議なことだった。或いはセペフルもシャンギヤンも、武官になるような勇ましさよりも心優しさの方が勝つからだろうか。そう息子たちに思いを馳せ、ふと我に返る。

「君は、その、元気なのか」

「元気でなさそうに見えるか?」

 ダーラーはやや肥えてはいるが、張りのある顔と身体をしていた。ギヴはダーラーから目を逸らす。

「一人では何かと不便することもあろう」

「奴隷がいればどうとでもなるさ。新しい妻を娶る気などない」

「もう三年になるだろう」

「三年が五年であろうが同じことだ」

 ギヴは友の華燭の日を思い出す。ダーラーの妻は決して美しい女ではなかった。糸杉の背もしていなければ、黒壇の髪もしていなかった。しかし、幸せそうに笑う女だった。友もその隣で頬を綻ばせ、妻に親しく酒を注いだ。ギヴがあの日見たものといって思い出すのはそれきりであるのに、それは彼の胸にいつまでも残る幸福な光景だった。

 妻が病で早世してからも、ダーラーは特に変わった様子もなく職務に励んでいた。しかし、何か思わないことなどありえないと、ギヴはあの華燭の光景を思い出すたびに思う。そういった心の内を明らかにしないのがダーラーの誇りでもあろうが、親友でありながら何一つ助けになれていないのが口惜しかった。だから、ギヴは友のために更に言葉を重ねようとして、ダーラーの方を見た。

 その時、ダーラーの背後にある白い柱に蛇が巻き付いているのが見えた。黒々とした大きな蛇だった。

 ギヴの全身に悪寒が走った。なぜ、こんなところにそんなものがいるのか。そしていつの間にそこにいたのか。ギヴは蛇を殺そうとダーラーにその場を避けさせ、剣を抜いた。しかし、蛇は瞬く間に地面に降りて、滑るように庭園の向こうに去って行った。ギヴは剣を片手にその後姿を眺めることしかできなかった。

「どうしたのだ、剣なんか抜いて」

 ギヴは唖然として友を見る。

「君にはあれが見えなかったのか」

 ダーラーは心底不思議そうな顔をした。

「何も?」


 ダーラーは夜遅く、自分の家に帰った。服を解いて奴隷に渡し、別の奴隷が作った飯を食う。奴隷たちはせわしく立ち回り、己の仕事をしている。そう、何一つ不自由はない。不自由はないとも。彼らは優秀だ。所詮彼らは奴隷で、自分は主人であるに過ぎないということを忘れてはならないが。ダーラーは溜息を押し殺す。常にそうやって生きてきた。百千もの溜息を押し殺して生きてきた人生だった。

 もうよろしいでしょうに、そう女の声が聞こえた。女の姿はどこにもない。声だけで美しいとわかる女の声だ。自分の脳内が作り出す声にしては由来がわからなかった。ダーラーは敢えてその声に答える。

 何がもうよいというのだ。

 もう耐えなくてもよいと申しているのです。あなたはこれまでの人生でよく頑張って来られました。ならば、その人生の後半くらいは楽をなさってよいのではないですか?

 ダーラーは顔をしかめた。この女の声は何かよくないものの気配がした。何を馬鹿なことを、と一蹴する。しかし、女の声は止まない。

 そうして耐えてお辛いでしょう、苦しいでしょう。そして誰もあなたの苦しみに気付きはしない。声を掛けるとしても通り一遍の配慮だけで、あなたの辛さなんて誰も本当にはわかってはいないのです。そうして死ぬまで生きていくおつもりですか。

「おのれ、貴様悪魔だな。俺を誑かしに来おった」

 そう言って、ダーラーは食卓から立ち上がった。奴隷たちがダーラーに振り返る。ダーラーは気にするなと手を振った。ダーラーは食卓から離れ、部屋を二つ通り抜け、裏庭に出ると、井戸の水を頭からかぶった。しっかりしなければと思った。己の心の弱さがこのような幻聴を聞かせるのだと思った。

 わかってほしいなど、妻が死んでから、思ったことは、ない。こんなもの、誰にもわかるわけがないからだ。いや、わかられてたまるものか。これは、俺だけの、俺だけが所有する苦しみだ。それが妻へのせめてもの手向けであり――。

 奥様のこと、最後には愛していらっしゃらなかったでしょう。

 ギヴは総身から水を垂らして呆然とした。

 あなたは、病で醜く衰えていく奥様から目を逸らした。奥様のことを奴隷にまかせ、夜の帰りが遅かったのは、決して仕事だけのせいではない。

「やめろ」

 あなたは愛する奥様が病で変わり果てていくのに耐えられなかった。病の苦しみの腹いせにつらく当たられるのに耐えられなかった。それが全て病のせいなのだとは思っても、心から奥様を愛せるようには、もうならなかった。

「やめろ、言うな。そんなことを俺に言うな」

 仕方がないですよ。人間はそんなに強くなれないんですもの。

「いや、俺は」

 ずっと胸に秘したまま生きていくのですか? もう耐えられないのではありませんか? ここで全部言えばよろしい。ほら、周りに人はいません。誰も聞いてはいないのですよ。

「俺は――」

 ダーラーは水を垂らしながら唇を噛んだ。ずっと黙ってきた。いや、ずっと考えないようにしてきた。自分の気持ちに気付かないようにしてきた。だが、本当は気付いていた。それは心臓に鉛の重りを括りつけたように、己の身を重くしている。それを感じ取ってしまえば、もう元には戻れなかった。やがてダーラーの濡れた頬に新たに水滴が流れた。

「俺はもう妻を見るのが嫌だった。家に帰りたくなかった。ずっと官衙の務めに出ている方がましだった。気付けば俺は位を上げてしまっていた」

 それから?

「俺の務めだってそんなに好きではない。もう長く続けてしまっているから、すでに信任も得てしまっているから仕方なくやっているだけで、俺は官衙の椅子に座り続けるのが苦痛で仕方がない」

 それから?

「なのに、みんなが楽しそうにしている。この、王国の繁栄に、みんな幸せそうにしている。俺がおかしいのか? 俺がどうしても何か悪いことをしたのか? ギヴだって、妻も子どもも元気で、子どもが育ったと自慢そうにして。なんで俺だけ」

 そうですよ、おかしいですよ、あなただけこんなに苦しむなんて。

「そうだよな、おかしいよな。これはおかしい」

 おかしいものは正さなければなりませんね? あなたも幸せになれるように、この国をあるべき姿にしなければなりませんね? だってあなたはもう立派なお役人なんですもの。

「そうだ、俺はそれができる立場だ。いや、それをしなければならない立場だ。だが、どうすればいい?」

 この国を偽りの夢から醒ますのです。今の繁栄は偽りの繁栄。だって、あなたのような方がいるんですもの。みんな幸せそうにして、その裏で泣いている人が大勢いるんですもの。だから、この国をあるべき道に戻しましょう。大丈夫、あなたには経験も学識もある。どうすればいいかわかるでしょう。

「……王国を変えるには、どうしても陛下にわかってもらわなければならぬ。今の王国がおかしいと、陛下にお伝えする必要がある。そうだ、陛下だ、陛下だ」

 でも、陛下に直接お伝えしても、陛下はご自分の考えを曲げないでしょう? 陛下は今の繁栄を誇りとしていらっしゃるのだから。

「そうだな、そうだな、そんなことを奏上すれば、単に俺の言葉が軽くなるというもの。ならば、陛下に自然と、しかし確実にわかっていただくしかない」

 その調子です。良い方法がありますよ、例えば――。

「ああ、ああ、一つ思いついてしまった。これをすれば俺の立場が危うくなろうし、普通は死罪であろうが、これはやらざるをえんだろう。だって、俺はこの王国を憂いているのだから」

 そうですね、あなたは立派な人ですもの。

「よかった、これで良い方に進む。ありがとう。あなたはきっと美しい人に違いない。ハハハ、もっと早くに出会いたかったものだ」

 ダーラーの上に、真ん丸な月が青白くかかっている。ダーラーはそれを見上げてにっこりとした。


 三ヶ月後、宮中でダーラーに再会したギヴは言葉を失った。友が見る影もなく輪郭を緩ませ、肥え太っていたからだ。ダーラーは機嫌よくギヴに向かって手を挙げた。

「友よ、今度うちに来ないか。新しい妻がそれはもう料理の上手い女なんだ」

 ギヴは凍り付いた。なぜだろう。友が新しい妻を娶ればいいのにとは、この数年彼も思ってきたはずであった。なのに、なぜこうも恐ろしい心地がするのか。友があまりにも早く言を覆したからか、或いは友が幸せによるよりも、むしろ病的に肥えたように見えるからか、それとも――。

 ダーラーがギヴの手を取った。汗の嫌な感触がした。

「君のところもそろそろ結婚して長いだろう。どうだ、二人目の妻など」

「なにを、俺は、」

「なんだ、一人の妻に添い遂げるつもりか、ならば妻のご機嫌取りは必要だぞ。付いて来るがいい」

 ギヴはダーラーに促されて宮中を歩く。そして、一つの宮殿から出て、夏の花が萎れはじめた中庭を過り、翠玉の丸屋根をした別の宮殿に入った。階段を降り、幾分寒気がするほどに冷えた地下に降りる。そこは、地上より上の宮殿が白亜で造られているのとは違って、石によって形作られていた。ただ、石畳の廊下を歩いた中央に、一つ瀟洒な大扉がある。それが王の宝物庫の入口だった。

 宝物庫の前には二人の番人が立っていたが、ダーラーが何かを渡すと、子どものように互いに顔を見合わせ、微笑みながら扉を開けた。そして、扉から目を外してダーラーに道を譲る。ダーラーはまるで己が主人であるかのように宝物庫の中に入って行った。

 ギヴは身を固くしてそれを見ている。

「どうした、早く来いよ」

 ダーラーが石壁に響くような大きな声を出すので、ギヴは彼の口を塞ぐために到頭宝物庫の中に入った。中に入れば、宝物庫はギヴの目を眩ませんがばかりの輝きを放っていた。ギヴはダーラーの前に立って声を潜める。

「君は自分がやっていることがわかっているのか。見つかれば君とてどうなるかわからんぞ。早くここから」

「君の奥さんは翠玉の瞳だっけ、それとも瀝青タールの瞳だっけ」

 ダーラーは一つの引き出しを開けると、中に連ねられた指輪をまとめて掴み取った。手の平を広げて、指輪をギヴに差し出す。黄金も白銀も紅玉も翠玉も金剛石も、ほとんどあらゆる輝きがその中にあった。

「気の利いた贈り物というのは、相手の瞳に合わせるものだ。青玉だったらすまんな。もうないのだ」

 ギヴは、この歴戦の武官は、力が抜けてその場にへたり込みそうになった。震えが来そうなほど、かつて友だったはずの男が変わり果て、明らかな罪を犯していた。ギヴは辛うじて乾ききった声を絞り出す。

「君は、なんという真似を。陛下の財宝を掠めとるなど」

「応とも、陛下よ。問題は陛下なのだ。俺は陛下に気付いてほしい。そう、俺とあなたはそういう結論になった、美しき人よ」

「待て、何と喋っているのだ――」

 ダーラーの瞳はギヴに向かってグルンと巡って、油を流し込んだように光った。そこからの彼の弁舌は流れるがごとく、一片の淀みもなかった。

「月日は二頭の駿馬が走るように止めどもないもの。君も俺も青年だったが、今となっては老いの影から目を逸らすことはできない。やがて俺たちの髪もジャスミンの白に変わり果てるだろう。草刈りの男が草の嘆願を聞かずに大鎌を振るうように、俺の命も君の命もなすすべもなく刈り取られる。しかし、それは憂き世の定め。嘆いたとて始まらぬ。恐れながら、それは陛下とて同じこと。いくら名君の誉れ高いとはいえ、人の定めには逆らえない。そしてこの王国もそうである。嬰児が少年になり青年になり老いていき、いつかは死ぬように、繁栄の頂点にあるこの王国とて、いや繁栄の頂点にあるからこそ、この王国は衰退し、いずれ滅びるのだ。だが、どうも陛下はそれがわかっていらっしゃらない。ターリークをほとんど無理矢理に、ますます繁栄させようと努めていらっしゃる。それは月が欠けるに逆らい、花が枯れるに逆らうというもの。君よ、考えてもみたまえ。このような富が、栄華が、二百年も三百年も一国のもとにあろうものか。すでにターリークは繁栄のうちに狂うておるのだ。皆々いずれ瓦解する予感を秘めながら、隣人には笑い、息子には笑う、そういう暮らしをずっと続けている。そして、強いて笑う人間の陰で、より多くの人間は涙を落としているのだ。これはあってはならないこと。このようなことが続いては、いずれ一朝、王国は砂城のように崩れ去るであろう。であるから、陛下にはわかってもらわなければならぬのだ。いくら陛下が名君だとて、国には然るべき老いがある。国の身の丈に合った衰退は自然の定め、いくら史官が嘲ったとて、天は君主の名を傷つけぬ。この国はそろそろ落ち着くべきところに落ち着くべきだ。俺は陛下にそれをわかってもらいたくて、陛下の宝物を掠めるのだ。陛下は一つ一つ欠けていく宝物の中に月を見出し、花を見出し、王国を見出されるであろう。仮にこの行いが露見したとて、俺が罰せられればよいこと。臣下が一人欠ければ、また月と花を見出す。俺は国を憂いてやっているのだ」

 そう、一気呵成に言ってのけた。ギヴは、ダーラーが口上を続けている間、自分がほとんど呼吸を止めていたことに気付いた。息苦しさに息を吸い込むと、宝物庫の甘い空気の匂いがした。手の先が微かに、しかしずっと震えている。

「君は、狂っている」

 ギヴはそれだけ言い捨てて、ダーラーから背を向けると宝物庫から出た。番人たちが視線を向ける中、地下からの階段を上がり、地上に出る。そして中庭まで辿り着いた時、なぜ自分はあの場でダーラーを斬り捨てなかったのだろうと思った。真に忠臣であれば、そうするべきだった。いや、今からでも戻ってダーラーを捕らえるべきである。狂っていると言うなら、なぜ自分はあの場でダーラーを止めなかったのか。何か、何かによって自分は阻喪されている。それが何なのかまだ掴めないでいるのだが。

 その時、微かに知らない女の声が聞こえた気がした。

 ――それでよいのではないですか?


 翌日、ギヴは練兵場に立っていた。ギヴが指揮を執る兵士たちが、陣を作って動き、停まり、方向を変え、また動く。ギヴはその中に微かな乱れを見出した。乱れのもとは、一人の新兵だった。ギヴはその新兵を怒鳴りつけようとして、ためらう。

「俺、ここに働き口を見つけられてよかったです。食い物も出るし、ちゃんと金を母に送れます」

 新兵はかつてギヴに対して、そういった内容のことをどもり、つっかえながら語った。要領の悪い新兵は、街に仕事を見つけることができなかった。見つけても、彼と母親を食わせるほどの目途をつけられなかった。母親は彼の唯一の親族で、長い間病に臥せっていた。彼は結局軍隊に入った。今の王都軍の待遇は、この国で特段よいとも言えないが、彼にとっては恵まれたものだったし、彼のような人間にも門戸は開かれていた。無論、中に入れば厳しかったが。それでも、彼にしては努力した方だった。彼は今日まで兵士であることをやめなかった。母親に自分の給金を送り続けた。そして、今日も訓練に出てきた。昨日母親の訃報に接したにも関わらず。

 今日の彼に対して怒鳴るべきなのか。それは彼の最後の何かを折りはしないか。そこまで考えて、ギヴは心の中で頭を振った。何を考えている。ここは軍隊だ。一兵卒の心情を考えて、全体を危うくするなど許されない。

 女の声が聞こえる。

 果たしてそうなのでしょうか?

 けれども、果たして――。ギヴの思考は声に沿って自然と導かれる。

 いや、軍隊とは果たして常にそうなのか。もう長らく戦など起こっていないではないか。どこがこのターリークに戦を仕掛ける? 軍隊が果たす役割も時代を映して変わるのではないか。彼のような若者を受け入れ食わせていくのが、今、ターリークの軍隊が果たすべき役割なのではないか。

 ――だが、俺は職務としてこの乱れを看過できんのだ。

 今日でなくてもよろしいでしょう。

 しばらくしてギヴは頷いた。確かに、今日でなくてもよさそうだった。

 後日、ギヴは新兵を咎め、新兵は気落ちしたものの、翌日も訓練に出てきた。だが、あの日訓練の場でギヴが何も言わなかったのを、他の兵士たちは見ていた。

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