病院で起きたこと
鮎太郎は目を開けた。天井を見て、自分が今どこかの病室のベッドに寝かされているのがぼんやりとわかった。そして仕事中に脚立から落下した事を思い出す。
「目ぇ覚めた?」
枕元で恋人の声が聞こえる。体は起こさず目線だけ向けると、私服姿の深雪が座っていた。
夜勤の仕事が終わり、丁度裏口を出ようとしたところで追い掛けて来た同僚に呼び止められ「鮎太郎さんが脚立から落ちて怪我をした」と伝えられたのだという。
「先生呼んで来るね。寝てる間に検査はしてもらったし頭は今んとこたんこぶ位で済んでるみたいだけど多分左腕はヒビ。肋骨もあれかも」
一先ず今日は泊まるように、と深雪に無事な右腕を軽くさすられる。労災申請めんどいな、と小さな声でぼやくと、深雪は「大丈夫だよ」と笑った。全然大丈夫じゃない。でもそれは優しい魔法の言葉なのを知っている。そういえば脚立を支えてくれていた秋元さんは大丈夫だろうか。深雪が何も言わないという事は彼には特に怪我は無かったと判断して良いのだろうか。
「今何時?」
「もう直ぐ11時かな」
彼女の華奢な左腕を包む腕時計は誕生日に鮎太郎がプレゼントした物だ。彼女のリクエストで鮎太郎の使っている時計と同じブランドの物を選んだ。とても丈夫な時計。何があっても壊れない。
「由理男くんに連絡しなきゃ」
「そういや今日ライブだって言ってたね」
そう言って深雪は鮎太郎のカバンの中からスマホを取り出してくれた。ちなみに更衣室にあった鮎太郎の荷物はもう彼女が回収してくれたのだ。無造作に雨合羽を引っ掛けた小さなカートがベッドの傍らにある。
「あれ?圏外だ、珍しいな。なんでだろ……ていうか充電も全然ないじゃん、これは駄目だ」
スマホの画面を見た深雪が首を傾げる。どちらにせよ電話をするにはロビーに降りるか外に出なくてはならない。流石に病室内は通話禁止だ。
「外に出て私が連絡してくるわ、それでいい?」
その問いに鮎太郎は頷いた。深雪は鮎太郎のスマホを再び彼のカバンの中に収め、今度は自分のカバンを開いた。
「あ、やだ、鍵どこかで落としたみたい、ない」
カバンの中をガチャガチャとあさりながら彼女はそう言って慌てて病室を出ていった。
彼女はいつも裏口を出る時に歩きながらスマホと自転車の鍵をまとめて取り出す癖がある。自転車の鍵は家の鍵とは別にしてある。深雪のカバンの中はいつもぐちゃぐちゃで、恐らくその時にでも落としたのだろう。しっかり者の彼女にも駄目なところは一つくらいある。逆に変なところで几帳面な鮎太郎とはそこでバランスが取れている、と思う。
鮎太郎の入れられた病室は多分4階。外科の患者が主に入っている6人部屋だと予測する。
しばらくうつらうつらしていたその時、ぐらりと天井が揺れた。揺れる寸前、天井の照明が点滅するのを鮎太郎は見た。
少し大きな地震。
体感としては震度4に近い位の3だろうか。鮎太郎は思わず「ヒッ」という声が出てしまった。頭を守ろうにも体が上手く動かせない。
パニック状態でベッドの上で右往左往していると、また照明が点滅した。
そういえば停電はどうなったのか。停電が解消して予備電源から切り替えたのだろうか?
地震が怖いのに、何故か余計な事ばかり考えてしまう。
想定よりも長かった揺れがようやく止まる。ゆっくりと起き上がってみる。左肩に痛みが走る。
こんな大きな地震なのに誰も騒いでいる様子がない。何故だろう。看護師が状況確認にすら来ないなんて。
ふとサイコからのメッセージを思い出して不安が過る。穴。穴とはなんだ。
しかもこんな時にこの病院界隈が心霊スポットである、という噂を思い出してしまう。正しくは目の前の公園が心霊スポットで病院はその噂に巻き込まれているだけなのだが。無論古い病院なので地下階等にそういう話がないわけではない。しかしそれくらいらどこにでもある話だろう。深雪なんかは「そんなの気にしてたら夜間の見回りなんてやってらんないよ、それより患者さんがベッドから落下してた時の方が肝が冷えた」と豪胆な事を言っていたが、鮎太郎は怖がりなので地下の清掃は実際余り好きではない。昼間だから出来る。夜間の清掃などがあったらそれはお断りする。
深雪は大丈夫だろうか。
……頭は少し痛むがきっちり包帯が巻かれている。大丈夫。左腕は固定されていて少し動かす事さえも辛いが、足は恐らく軽い捻挫程度だろう。ナースステーションに言えば杖位は貸してくれるだろう。大丈夫。
廊下に出る。誰もいない。おかしい。
隣の病室を覗く。誰もいない。おかしい。
鮎太郎のいた病室もそういえば大部屋の割に誰もいなかった。これは偶然かもしれないが、不安要素としては十分だ。
廊下の隅に掃除用具のカートが置き去りにされている。掃除が終わればモップや雑巾を洗って倉庫に戻すはずだ。まだ掃除が終わっていないなら誰もその近くにいないのはおかしい。12時近いのなら間宮さんは。いつもならそろそろ上がる時間のはずだがどこにもいる気配がない。
恐る恐るナースステーションに行く。やはり誰もいない。物が散乱している。おかしい。
余りにも人気がない。
つい数分前に病室を出て行ったばかりの深雪はどこにいるのだろうか。
鮎太郎は拾った杖を頼りにゆっくりと進む。杖は使い慣れないから歩き辛いが、いざという時の武器にもなるかもしれないと思うと手放せない。
深雪は恐らくナースステーションにいる同僚を介して鮎太郎の容態をドクターに伝えているはずだ。そしてその後階段かエレベーターを使い電話のためにロビーに降りたと予測できる。
試しにナースステーションにある電話に触れてみる。しかしどうやら断線しているようだった。ただの無機物の塊と化している。これではどうにもならない。
そういえば自分のスマホを使って外と連絡を取ればいいのではないか。余りの緊急事態に気が動転してスマホの事が頭から抜け落ちてしまっていた。
しかしついさっき、院内が圏外になっており充電もほとんどないことを深雪が確認してくれたばかりではないか。使えない。しかもこの体で再び病室に戻り、しかもあのカートを引いて移動するのはかなり大変だろう。ここは一度諦める方が良い。先ず院内に誰かいないか、探す方が得策な気がする。
この状況でエレベーターを使うのは怖い。自分が怪我人なのを考慮しても地震の直後、しかも病院の様子がおかしい時にエレベーターを使う勇気はない。
腹を決めてゆっくりと階段を降りる。三階の廊下を覗き込む。誰もいない。しかし奥の方で誰かが倒れているのが見えた。鮎太郎はその人影に近づいてみることにした。深雪か、知っている病院スタッフか、入院患者か、面会か、誰かはよくわからない。
「大丈夫ですか」
小さな声でそう何度も繰り返しながらその人に近づいて行く。あと3メートル、というところで、その人が例の入院患者、眠り姫だと気付いた。
そして初めて彼女の目が開いているのを見た。
「起き上がれ、ますか?」
そう問い掛けると彼女は頷いた。
「喋れますか?」という質問に対しては「一応」と投げやりに返して来た。そして彼女は少し這いずってから近くにあった松葉杖を掴む。
「僕は清掃の川田と言います、1階に行こうと、思ってます。ロビーなら誰かいるかもしれないし、事務局の電話があればそこから外に電話を掛けられるかもしれないし、外に出れば助けを求められる」
そう早口で声を掛けると、彼女はうめくように一言呟いた。
「……穴」
「え?」
眠り姫は今、穴と言った。
鮎太郎の心臓が大きく鳴る。痛い。
「……なんの話ですか?」
出来るだけ冷静を装いながら聞き返したが、声がひっくり返ってしまった。
「地震が来た時、廊下にいた看護師さんが『ロビーの壁に変な穴が空いてる』って言ってた」
だからロビーは危ない、とでも言いたいのだろうか。
「多分、色んなところに穴が、空いてる」
彼女に突然右手を掴まれ、鮎太郎は息が止まる。そして恐る恐る周囲を見回してみる。病室には誰もいない。どこにも誰もいない。今ここにいるのは眠り姫と鮎太郎だけだ。
「皆、順番に吸い込まれてる」
背中がゾッとする。包帯の中に左腕まで鳥肌が立った、ように感じた。
そういえばどこかで聞いたことがある。
真夜中に公園のゴミ箱に吸い込まれた人間の怪談を。
何も言い返せぬまま、鮎太郎はゆっくりと周囲を見回した。
世界がぐるりと回転したような、そんな不穏さがあった。雨はもう止んでいるはずなのに、窓の外は薄暗いままだ。
その時、壁にヒビが入っている事に気付く。
朝、自分がこの3階を掃除をした時にこんな大きなヒビは無かった。あればすぐに気付くし上に報告をしているはずだ。
地震のせいだろうか。
しかしあの地震も、大きかったとは言えこの大きな建物を倒壊させる程の規模だっただろうか。それはない。はっきりと震度を確認したわけではないが、そこまでの大災害ではなかったはずだ。台風だってもう去っている。
なのに何故、突然この病院の中だけ大災害の後のようになっているのだろうか。
「あなたが下の階に行きたいというなら私もついて行きます」
眠り姫の声は鮎太郎より小さかった。しかし誰もいないこの廊下は静かで、その声はきちんと聞く事が出来た。
そう、外にさえ出られればなんとかなる。少し歩けば交番がある。コンビニもある。これは外に助けを求めなくてはならない状況だ、という事が徐々にわかってきた。
1階ロビーにはまだあの脚立が出しっぱなしになっていた。
そしてその脚立の足元には本当に「穴」が空いていた。
床がそのまま崩れたような、真っ黒い穴が。それには近づいてはいけない。本能でわかる。しかし正面玄関に近付くにはその穴を乗り越えなくてはならない。
どうすべきか。
鮎太郎はよろける足で1歩前に踏み出した。そしてこのタイミングで頭の傷が激しく傷んだ。余りの痛みに思わず杖を手放してしまう。体が揺れる。
さいあくだ。きょうはとことんついてない。
「あぶない!」
眠り姫の声が右斜め後ろから聞こえた。だけどもう遅かった。
きょう、たかいところかららっかするのはなんかいめだろうか。
そしてくらやみからめをあけるのはなんかいめだろうか。
自分は穴に落ちた。
それはわかった。
しかし踏ん張る事が出来なかった。
恐る恐る目を開けると、そこは同じ病院のロビーだった。しかし玄関の外は全く知らない景色で、森のような鬱蒼と茂る木々に埋もれていた。意味がよくわからなかった。自分は夢でも見ているのだろうか。
不意に背中の方から名前を呼ばれ、振り返る。鮎太郎の元に深雪と警備員のおじさんが駆け寄って来るのが見えた。その後ろには秋元さんもいた。
「ねえ、なにがあったの?」
鮎太郎が震える声で問い掛けると皆、困惑した顔を見せた。
「驚かないで聞いて欲しいんだけど」と秋元さんが鮎太郎の横に膝まずく。警備員のおじさんは床に落ちていた杖を拾ってくれた。そして深雪は鮎太郎に抱き着いたまましばらく動かない。
「……いや、これは本当に何が起きたんですか?」
鮎太郎が辛うじて動く右手で深雪の背中を撫でながら周囲を見回すと、病院内の見知った顔が皆、疲れ果てた顔でそこにいた。見知っている光景のはずなのに、何かがおかしい。
「ここは異世界です、病院にいた人間が皆異世界に転送されました」
驚いて玄関の外をもう一度見ると、そこには恐らく3メートル以上の背の高い男がこちらを覗き込んでいた。無表情のまま。その姿は背が高い事を除けば普通の人間に見えた。しかしよく目を凝らして見ると、その瞳は真っ白なのだった。
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