あらしのよるがあけたら

 ガタガタと窓が鳴る。

 今回の台風は数年に1度の大きな物の可能性がある、避難が出来る人は早めに避難するように、という自治体の防災無線が聞こえてくる。しかしその無線も、余りにも強い雨風の音のせいで次第に聴こえにくくなってきている。

 この部屋はマンションの四階、浸水の心配はない。

 鮎太郎は真っ暗な部屋の真ん中でタオルケットを被り震えていた。

 こんな日に限り同棲中の恋人は夜勤なのだった。看護師だ。例え災害だとしても、むしろ有事だからこそ働かなくてはならない尊敬すべき仕事をしている。


 明日の夜は自分のバンドのライブがある。集合時間は午後1時半。

 しかし人員の都合で自分も朝イチで一度仕事に行かなくてはならない。

 恋人も働く大きな病院の清掃。

 明日はライブだからあらかじめ休みを取っていたのだが、ベテランのおばちゃんが腰を痛めて長時間勤務が難しい、代わりに朝の掃除だけでも入ってくれないかと上司から連絡があったのだ。午前7時から3時間だけで良い、その分他の日に早上がりしてもいいからと言われ状況が状況なので承諾した。こんな爆弾低気圧の時に怪我の痕が痛むのは仕方ない。あのおばちゃんは昨年趣味の山登りで転んで腰を強打したとぼやいていたのを何度も聞かされている。鮎太郎も今までメンタルの不調やライブを理由に遅刻や早退をした事がある。恩は売り合っておいて損はない。

 もし明日の朝も天気が悪ければ自転車では行けない。

 最低でも6時には起きて6時40分頃には家を出なければ。状況に寄ってはもう少し早く出た方がいいかもしれない。そうするとそろそろ眠らないと。

 鮎太郎は時計を確認する。午後10時を回っている。耳栓を突っ込んでベッドにはいずるように向かった。睡眠導入剤は飲んだ、枕元の目覚ましも確認した。大丈夫。

目を瞑る。

 恋人は立派な懐中電灯と安いラジオを押し入れから出してくれて「ここは古いけどしっかりしたマンションだから浸水は多分大丈夫だよ、カーテンはちゃんと閉めておいて、大丈夫」と何度も繰り返して昨夜仕事に向かった。弱い鮎太郎を安心させるように手を握ってくれた。まるで子供に諭すかのようだった。それはここ数日鮎太郎が不安定だったから過度に心配してくれたのだろうというのは察しがついた。申し訳ない。正直あんなしっかりした恋人、自分には勿体ない位だ。しかしそもそも中学からの同級生で友達としての期間も長く家族も知っているし共通の友人も多く「安心感」を与えてくれる存在だ。彼女が大丈夫と言っているのだから大丈夫、なはずだ。

 彼女との約束で寝る前には一度スマホの電源を切る事になっている。強い目覚ましがあるから朝は問題ない。

 1人の時でも鮎太郎は律儀に寝る時はスマホの電源を切る。なかなかスマホが手放せない鮎太郎を心配した深雪が決めたルールだった。一緒に暮らすためのルール。最初の内は抵抗があったが、最近は少しづつ平気になってきている。


 雨音がうるさく、ほとんど眠る事が出来ずに結局五時半には目が覚めた。外はまだ暗い。風は少し収まってきているようだが雨はまだ止んでいないのだろう。

仕事の後一旦家に戻るよりも病院から直接駅に向かってライブハウスに向かう方が楽だ。駅のそばのファストフード店で腹ごしらえをして行けば丁度良いだろう。一先ず朝はゼリー飲料だけでいい。昨夜の内にまとめておいた自分の荷物を確認してから100円均一で買ったばかりのペラペラの雨合羽を広げた。

 家を出る前に試しにテレビをつけようとリモコンに触れる。しかしまだこの辺りは停電が続いているようだ。うんともすんとも言わない。仕方がない。昨日からお湯すら沸かしていないので全く触れていないが火の元を5回確認し、窓の鍵も5回確認し、カーテンを丁寧に閉め直してから部屋を出た。部屋の鍵も5回確認した。雨はまだ降っているし風もあるがなんとか歩けるレベルだ。ピークは過ぎつつある。しかし気圧の乱降下のせいだろうか、頭が痛い。病院についたら頭痛薬を飲もう。いつもカバンに入れっぱなしにしている。


 病院の裏口、関係者用の入口へ向かう。やはり停電の影響で病院は一晩中てんやわんやだったようだ。今はなんとか非常電源で繋いでいるそうだが、それさえもいつまで持つかわからない。どうやらこの一帯だけ復旧が遅れているらしい。

 裏口に待機していた顔馴染の警備員が荷物を沢山持って現れた鮎太郎を見て大きな声で挨拶をしながらドアを開けてくれた。

 鮎太郎の父親よりも少し年上の、白髪混じりの優しい人だ。挨拶の時にビックリするほど声が大きいのだけが難だが、体は大きいし昔剣道をやっていたと聞いた事がある。多分警備員としては優秀なのだと思う。鮎太郎は土嚢に躓かないようにして扉をくぐる。

 この裏口から入ってすぐにある元倉庫が清掃員用の待機部屋だ。ある程度の広さがあるため、パーテーションで幾つかの区画に分けて警備員のロッカールームも兼ねている。

 着替えて、準備をして、清掃用具が入った台車を押して廊下に出る。

 つい数分前、スマホを確認したら知らない電話番号からショートメールが届いていた。迷惑メールかと思ったら、元嫁からの些細な連絡だった。一瞬身震いがしたが内容は返信する程のものではなかった。停電でスマホの充電も満足に出来ていないから返信は控えたかった、というのもある。

 彩子。久しぶりの連絡だ。

 実際は人が噂する程の酷い泥沼ではなくそこそこ円満な別離で、離婚後も特に連絡を拒否し合う事は無かった。だが何故か彼女は定期的に電話番号や連絡先が変わる女だった。結婚前からそうだった。忙しない女だった。

 3年前に若さの勢いで結婚してしまった元嫁と2年近く前に別れたのは、彼女の仕事に鮎太郎が理解を示す事が出来なかったためだ。

 霊能者だが本業は水商売で、あらゆる店を渡り歩いてはその店の問題を解決し報酬を受け取っては去っていく。副業で占い師までやっていた。新橋にある古い雑居ビルのさびれた占いコーナーに水・木の昼間だけ座り、夜は週三で銀座のスナックで働く。その合間に他の店を謎の力で助け、たまの休みには気分転換にライブハウスに現れる。不思議な人だった。

 大阪にいる知り合いの店に長期で呼ばれたから関西に一緒に行こう、と言われたが、鮎太郎はそれを受け入れる事が出来なかった。

 サイコに声を掛けて来たのは関西では大手の店で、ゆくゆくは経営側として店を任される可能性があった。水商売とは言えある程度は安定した生活が出来る。それはわかっていた。鮎太郎は高卒で始めたスーパーのバイトから結婚を機に正社員になっていて、頼めば関西の支店に異動出来なくはなかった。その頃やっていたバンドも些細なトラブルを理由に脱退する事が決まっていたし、表向きには東京を捨てる事に問題は無いように見えた。

 しかし鮎太郎は正社員になったことをきっかけに鬱を発症しており、何軒ものメンタルクリニックを回りようやく自分にあったカウンセラーに出会う事が出来た矢先だったのだ。そんな時に大阪までは着いて行けなかった。しばしの大げんかを経て、元嫁が折れた。離婚届を提出し、彼女は大阪の親類の家に身を寄せ、鮎太郎は実家に戻りしばらくの療養生活に入った。

 本当にあっさりした離婚だった。お互い夫婦から友人に戻っただけという感覚だった。たいのかしらに加入することも、地元の同級生と付き合い始めたことも彩子には正直に話したし、彼女は「その選択はあってるよ」と返事をしてきた。

 ただ、彩子から連絡が来るのは多分半年ぶりとかのはずだ。新たな恋人が出来た事で気を使われているのはわかっているし、自分も深雪に嫌な思いをさせたくなくてこちらからサイコに連絡を取る事はしなかった。まあ頻繁に連絡先が変わるために何も出来なかった、という方が正しいのだが。

 メールの内容は「昨日の昼から仕事で久々に東京にいるよ、あんたは穴に気をつけな」だけ。彼女の占いは九割九分当たるがたまに当たらない事もある。いつものことだ。別れた元夫とは言え、嫌な死に方をされると気分が悪いから忠告はする、というのがサイコのスタンスなのだった。そしてこちらもサイコがド変人なのは知っていて、共通の知り合いの誰かに迷惑を掛けられるとそれはそれで困るから連絡を切らない。


 自分を落ち着かせるために深呼吸をすると少し伸びた髪を無造作に結び、鮎太郎はゆっくりと台車を押した。

 朝の清掃は先ず正面口から。

 今日は日曜、3連休の中日なので外来受付はない。でも午前の短い時間だけだが入院患者への面会は受け付ける。清掃は必要だ。

 やはり停電の影響なのだろうか、擦れ違う人皆慌ただしい様子であった。少し離れた廊下を深雪らしき看護師が足早に去っていくのが見えた。安否は確認出来た。これで安心して自分の仕事に専念出来る。


 3階4階は入院患者の病室。30分遅れでやって来たパートの女性と手分けする事になった。「私は4階、鮎さんは3階でお願いします」

 30代主婦の間宮さんは鮎太郎より長くここで清掃の仕事をしており、既にリーダーのような存在だ。彼女の指示に従えば大体間違いはない。

 鮎太郎は擦れ違う医者看護師その他病院関係者、そして歩いて移動出来る入院患者にか弱い声で挨拶をしながら順番通りに掃除をしていく。

 一番奥の大部屋、305号室。6人入院出来る部屋に今は3人いる。1人は老女で大人しく、「朝の清掃です、失礼します」と声を掛けて中に入るとにっこりと微笑んでくれる。もうひとりもとある難病で長期入院している40代位の女性だ。そして若い女性。恐らく鮎太郎より年下だろう。彼女はいつ清掃に来ても眠っている。なんの病気かはよくわからない。心の中で眠り姫というあだ名をつけていた。いつか曲を作る時のネタになるかもしれない、と思っているのは深雪にも秘密にしている。不謹慎な気がするから。

 部屋の入口で清掃です、と言い、起きていた2人には会釈だけで挨拶する。大きなモップで床を撫でる。ゴミがあれば回収します、と声を掛け、大きなゴミ袋を広げた。巡回に来た看護師が横でゴミ箱の中身をチェックしてくれる。あらゆるミスを回避するためだ。

 時計を確認し、今日の掃除は順調に進んでいる事を確認する。


 脚立に乗ってロビーの電球を取り換える。

 やはり病院の様子を見るためにいつもより30分早く出勤してきた事務方の男性に頼まれた。確か事務方ではかなり偉い人で、秋元さんと言う名前だ。清掃担当と事務方は備品管理の事等で話す機会は多い。鮎太郎は背が高いのもあるのだろうか、勤務時間内であればこのような雑用を手伝う事もある。

「雨も止みそうですね、良かった。あとは停電だけです」

 少し大きな脚立の足元を支えてくれている秋元さんはホッとしたような声でそう言った。体を捻って出入り口の外を見ると、早朝に家を出た時よりも空が大分明るくなってきているのがわかった。鮎太郎は電球をカチッと嵌めると足元の秋元さんに「出来ました」と声を掛ける。

 そして脚立を降りようとした時、ぐらりと世界が揺れた。


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