真夜中の住宅街
「雄介、少し遠回りになるけど鮎太郎のマンションと病院の前通って帰らない?マンションに電気ついてるかどうかだけでも確認したい」
神尾は電車の中で隣にいた雄介にそう声を掛ける。スマホを見ていた雄介は顔を上げて「いいっすよ」と軽く答える。神尾と雄介は偶然にも隣り合ったアパートに住んでいる。
夏の終わりの夜遅く。ライブ自体は早く終わったが、うどん屋と駅前で少し話し込んでしまったのもあり、もう終電の迫るような時間だ。由理男が偶然にもサイコを見掛け、追い掛けるか否かで議論を始めたところで最初にうどんを食べ終わっていた孝之が荷物をメンバーに任せて駅に向かって走って行ったが間に合わなかったのだ。見失った。
「浅尾さん荷物少し持ちますよ」
雄介は接客業が長く、今は介護の仕事をしている。夜勤の無い事業所で意外に時間に自由が利く故、たまにならバンドの手伝いも出来るそうだ。そんな奴だからか些細な事でも気が利く、バンドスタッフには最適な人材だった。
雄介は浅尾の持っていたトートバッグを受け取ると「遠回りする前にコンビニ寄っていいすか」と返事を待たずにコンビニの中に吸い込まれて行った。真っ暗な街に光るコンビニ。
無論、仮に深雪さんがマンションにひとりで帰宅していたとしてもこの時間だ、寝ているかもしれない。しかしそれならメンバーの誰かしらに連絡があってもおかしくはない。
如何せん鮎太郎があの調子だったから、もしもの時に備えて緊急連絡先としてメンバー全員深雪さんと連絡先の交換はしていたのだ。彼女は仕事が忙しくライブを観に来る事は滅多になかったが、基本的に鮎太郎のバンド活動については好意的だった。
勿論スケジュールもある程度は把握していたはずだ。部屋に大きなカレンダーがあり、それに二人の予定を全て書き込んでいると鮎太郎に聞いた事がある。アプリとかで共有してるんじゃないんだ、と思いつつ、変なところで真面目なあの二人らしいなと感じた事を覚えている。
「電気はついてないっすね。流石にこの辺は停電解消されてますよね。さっきのコンビニ普通に営業してたし、街灯も信号機も問題なし」
雄介は四方八方を指差し確認てあらためてマンションを見上げる。
鮎太郎達の住まいはここの401号室のはずだ。カーテンがきっちりと閉められており、外から確認する限りで言えば明かりがついているようには見えなかった。
ここから歩いて10分も掛からない場所に病院がある。
その目の前の公園は地元民には有名な心霊スポットだった。
この時間に立ち寄るのは正直気が進まない。先月、やはり夜遅くに公園の前を通り過ぎた時に男の叫び声を聞いた。その余りに大きな地響きのような声が余りに怖くて走って逃げた記憶がまだ新しい。あれが幽霊の声なのか、それとも人間の声だったのかはわからない。ただ翌日一応警察に匿名で電話を掛けた事だけは褒めて貰いたいと思っている。
今日は鮎太郎が心配で思わず雄介に提案してしまった事ではあるが、実際は自分だけでは余り近寄りたくない場所なのだ。
そんな神尾の葛藤をよそに、雄介は何も気にせずに飄々と歩き出す。ついさっきコンビニで買った発泡酒を片手に。酒を飲んでも然程騒がず、少し口数が増える程度でいつもと変わらないのが雄介の良い処だった。ただこういうシチュエーションだと何故かやたら歩くのが早くなる。神尾も置いて行かれないようについ早足になる。
そこのマンションの角を曲がって真っ直ぐ行けばすぐに公園に出る。その公園の前、少し広い道路を挟んで病院があった。
「まっくら」
雄介はそう言って公園のゴミ箱に空き缶を投げ込むと左右もろくに確認せずに道を渡った。幾ら車も人も少ない時間帯とは言え危ない。神尾は慌ててその背中を追い掛ける。背中にベースさえ背負っていなければ、もう少し荷物が少なければ。
「確か裏口には夜間救急用の出入り口みたいなのがあってこの時間はそっちには警備員がいるはず、でも表玄関は真っ暗っすね」
玄関口からはロビーの中を伺う事が出来る。裏口は職員の通用口も兼ねていて、表玄関程ではないがきちんとした作りだと言う。
ヘルパーという仕事柄界隈の病院事情にも詳しいのかと思いきや、それは余り関係なく雄介本人が中学時代部活中の怪我でここに検査入院をした事があるのだと答えた。この周辺に住んでたらここに世話になってる人は多いと思いますよ、と雄介は言う。
神尾は大学を出てからこの辺りに住み始めた。ありがたい事に親が丈夫に産んでくれたお蔭で1年か2年に1度風邪を引いて近所の小さな診療所に掛かる程度だからよく知らなかった。
薄暗いロビーにはひとつ、大きな脚立が置き去りにされているのがうすらぼんやり見えた。ロビーの工事でもしていたのだろうか。しかしなんで置きっぱなしなのだろうか。ああいうものは経過がどうであれ作業が一段落したら片づけるものではないだろうか。
なんだろう、この違和感。むしろ不安な感情が沸き起こって来る。
漆黒の闇が病院の中に充満しているように見えた。よく目をこらさないと何も見えない。入口近くにある脚立だけがなんとか見える。しかしその奥はただひたすら黒だった。
「それにしてもこんな時間だから仕方ないのかもしれないけど本当に人気が無いな」
上の方の階、3階から5階が入院患者の病室だと雄介が言う。
少し建物から離れて上を見上げるが、流石に消灯時間は過ぎているからか電気のついている様子はない。病院の構造にもよるのだろうが、ナースステーションの明かりなどが外に漏れている様子もない。
「試しに裏口も見てみますか」
何かに引き寄せられるかのように雄介はすいすいと歩き出す。
神尾は嫌な予感がした。心臓が痛い。そんな気がした。こういう勘だけは昔からよく当たる。
雄介が「ここは救急車の受け入れも夜間救急もやってるはずだから電気がついているはず、でっかい誘導灯みたいな感じの奴」と言っていた裏口は表と同じく一切の電気が消えており、本来なら立っているはずの夜勤の警備員すらいないようだった。この界隈心霊スポットだから夜中でもうろついてる若い奴が結構いて、そういうのの見回りも兼ねて夜間の警備員雇ってるはずなんですよね、というのが雄介の弁であった。しかしこの病院の前に辿り着いてから警備員どころか人っ子一人見当たらない。ただ土嚢が打ち捨てられているだけだ。
「こっちも誰もいない、真っ暗だな」
神尾と雄介は裏口の前でぼんやりと立ち尽くす。
「なんだこれ」
雄介は唐突にすぐそばにある非常階段の方に近寄りしゃがみこんだ。その手が拾い上げたのは鍵だった。見覚えのあるキーホルダーのついた鍵。
「……このバンドのキーホルダーついてる鍵って鮎さんのじゃないすか?」
最近人気のあるハードコアバンドのロゴが入ったキーホルダーを雄介は神尾の方に向ける。確かに鮎太郎の鍵にはそれがついていた。界隈のバンドマン達にはもう手が届かない位物凄く売れているバンドのツアーグッズだ。数年前までは高円寺のライブハウスにも時々出演していたが、あっという間にスターダムをのし上がっていった。最近は人気のある異世界転生モノのアニメの主題歌に採用され、更にファンが増えライブのチケットも取りにくくなっていると聞いている。
「でもあいつの鍵には赤色のクマもついてただろ、これはピンク色のクマがついてるからもしかしたら」
「深雪さんのですかね」
7月頃に鮎太郎と深雪さんの二人で木場の方で開催された小規模のロックフェスに行ったという話は聞いていて、その時に買ったキーホルダーのはずだ。クマは元々ついていた。
しばらく二人はそこに無言で立ち尽くした。雄介が手にしたキーホルダーを見つめながら。
「……何があったんだろう」
「……何があったんすかね」
この鍵で彼らの部屋に不法侵入するのも気が引ける。しかしここに放置したまま立ち去るのも気が引ける。せめて夜勤の警備員でもいれば落し物として預ける事が出来るのに。
「どうします?」
神尾はその問いにすぐ答えられなかった。如何せん疲労で頭が回らなくなってきていた、というのもある。どうすればいいんだろうか。
「君達もねえ、いい歳なんだから心霊スポット巡りとか気を付けるんだよ。ああいう場所って夜は治安も悪いし成人男性だからって必ずしも安全とは限らないんだから」
交番にいた年配の警察官は子供に諭すようにそう言った。
正直夜道に気を付けましょうってのは女性や子供相手の痴漢が多いと思ってる人がいるんだけど、通り魔とかひったくりとかカツアゲだと君みたいに小柄で細身の男性でも被害に合う可能性はあるからね、とその警察官は主に神尾の顔を見て続けた。背の低い神尾が弱々しく見えるのは事実だ。舐められやすい自覚はある。今日は見るからにいかつい雄介が一緒にいて重い荷物も持ってくれていたから無事だったのは否定しない。早急に筋トレをしなくてはならない。
拾った鍵は「酔った勢いで夜遅くに心霊スポット巡りをしようとしたらM病院の前に落ちていた」という話で押し通す事にして交番に届けた結果がこのお説教であった。
「……ところでM病院に何かおかしな様子はなかったかな?」
突然そう質問され、神尾も雄介も思わず背筋が伸びる。
「何かあったんですか?」
質問に質問を返すという禁じ手。驚いた神尾は少し上ずった声が出てしまった。
「実はあの病院で働いている人や今日のお昼に入院患者の面会に行った人の家族から『帰って来ない、何か事件や事故でもあったのではないか』って相談が午後になってから何件もあってねえ。でも夕方位から何度かあの辺りに見回りに行っているんだけど病院の入口は閉まってて救急搬送口の方にも誰もいないだろう。だからこちらとしても少し困ってるんだよ」
警察官が一般人相手にそこまでペラペラ話してもいいのか。そういう驚きもありつつ、その話の内容に神尾と雄介は顔を見合わせざるを得なかった。
見回りと同時に定期的に代表電話にも掛けているそうだが、誰も出ないらしい。
「入院設備もある大きな病院だから夜でも休みの日でも必ず誰かいるはずなんだけどね」とその警官はシワシワの顔をよりシワシワにして頭を掻いた。神尾と雄介は目配せをしつつ、同時に大きく息を吸い込んでから口を開いた。
「実は俺たちの友達が」
ここでニュース速報です、東京都M市で集団失踪があった模様。詳細は現在確認中。
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