リハーサル

 バンドマンは軽率に飛ぶ。

 この「飛ぶ」は人にわかりやすく説明するなら「バックレる」ということだ。

 ライブ当日に現れず、突然連絡がつかなくなる。

 残されたメンバーは右往左往するしかない。運が良ければなんらかの形でその日のライブは遂行出来る、運が悪ければ当日出演キャンセルしかない。


「鮎太郎と連絡がつかない」

外で鮎太郎に電話を掛けていたベースの神尾が困った顔で階段を降りてきた。

その日、パンクバンド「たいのかしら」のメンバーはライブハウスの楽屋口に2時集合の予定だった。

 客席はオールスタンディングでせいぜい300人入るか入らないか程度のキャパシティ。そんな小さなライブハウスで6時から開始のイベントには本日4つのバンドが出演する。

 たいのかしらは4バンド中3番目の出演なのだが、リハーサルの関係上早い時間にライブハウスに入らなければならなかった。

 しかし今日はボーカルの鮎太郎が時間通りに来なかった。

 仕事の都合などでリハに遅れて来る、間に合わないバンドマンも実際いる。

 しかし鮎太郎は元々スマホ依存性のきらいがあり、遅刻や欠席の際に全く連絡がつかないなどという事は滅多にないのだ。

 馴染みのライブハウススタッフに「他のバンドさんももう来てるしリハの順番入れ替えてもいいっすよ、でも最後にはならないようにして欲しい」と言われ、その好意に甘えることにした。イベントの場合リハーサルは出演順の逆に行う事がデフォだ。それを逆リハと言う。

「俺が連絡してみる、神尾と孝之は準備してて」

 リーダーでありギターでもある由理男がスマホを片手に外に出た。他のバンドに「すいません」と軽く頭を下げてから。

 地下とは言え電波が通じないわけではない。しかし騒がしい室内よりも外に出る方が落ち着いて話せると思ったから。当然そこは電話が繋がれば、の話だが。

 昨夜は台風。今日の朝まで雨が降っていたが、昼過ぎにライブハウス前に集まる頃には晴れていた。少し風が強いだけで雲ももう遥か彼方だ。

 入口のそばで立ち止まる。由理男は自分のスマホのバッテリーが少ない事に気付いた。 

 しかし何度鮎太郎に電話を掛けても「電源を切っているか電話に出ることが出来ません」と繰り返されるばかりだった。埒があかない。気持ちだけが焦る。

 メッセージアプリもなかなか既読にならない。以前教えられていたフリーメールにも連絡を入れてみたが、この調子では早い返事は期待出来ないだろう。後はSNSのDMかリプライか。そして余り気が進まないが最後の手段、鮎太郎の恋人、深雪さんに連絡するしかない。

 今日は土曜日ではあるが、深雪さんは仕事の可能性があるのを知っていた。しかしこういう緊急事態を見越して以前深雪さんと連絡先を交換していたのだ、念のため念のためと心の中で唱えながら深雪さんにもメッセージを送る。やはり既読にはならない。仕方ない。

 鮎太郎のSNSは昨夜遅くに「明日はライブです、よろしくね」と投稿されたきり。ファンと共演者から数件のリプライがついている。鮎太郎はそれには滅多に返信しない。そういう人間なのは知っている。

 知り合った頃から鮎太郎はバンドのスケジュールに関してはそう無責任な態度を見せた事はほぼない。ライブでも練習でも事前に何かあれば必ず連絡をしてくる性格だった。風邪とか仕事とか電車の遅延、些細な事でもいちいち由理男に報告して来ていた。今までは。

 だからただ不安なのだ。

 25歳にして既にバツイチの彼はたいのかしらに加入する前にメンタルの病気でしばらく実家で療養していたのをメンバー全員知っている。そして1年前、鮎太郎の状態がある程度落ち着いていたタイミングでバンドに誘った。知人の紹介だった。

 たいのかしらはバンドの活動ペースも比較的のんびりしていたし曲も覚えやすい、と言って鮎太郎は快諾してくれたのだ。丁度先代のボーカルを素行不良でクビにした直後だったので鮎太郎の出現はありがたかった。

 この世には許容出来るレベルの素行不良と許容出来ないレベルの素行不良が存在する。

 鮎太郎は不安定な一面はあったが根は真面目で大人しかった。そして単純にボーカリストとしても良いボーカリストだったと思う。歌もまあまあ上手かったし、少し猫背気味ではあったが背が高くステージ映えするルックスだった。以前いたバンドもそれなりに集客のあるバンドだったのも知っている。加入して最初のライブ終了時点で多くの客から声を掛けられていた。

 鮎太郎は今はバイトではあるが数駅先にある大きな病院で真面目に清掃の仕事をしていた。深雪さんは鮎太郎の中学の同級生でやはりその病院の看護師だ。2人は今病院の近くにある古いマンションに住んでいる。一度泊めて貰った事がある。古いし小さいマンションだから安いんですよ、今時のタワマンは私が出世して鮎太郎がメジャーデビューでもすれば住めるけど夢のまた夢です、と深雪さんは笑っていた。

 今からマンションと病院まで安否確認に行って戻って来る程の時間は無い。

 由理男は腕時計とライブハウスの出入り口を交互に見る。

 自分はリーダーとして早急に今日のライブをどうするかの判断をしなくてはならない。

 最後にもう一度だけ「俺のスマホのバッテリーがあんまりないから連絡出来る状態になったら神尾か孝之に返事して」とメッセージを送り、溜息をついてライブハウスの中に戻った。これは「最悪ではないがかなり面倒なパターン」でライブをやらなくてはならないかもしれない。

 心臓が痛む。ような気がする。

 ふと、もうひとりの心当たりが頭の隅を過ったが、あの女とはそんな簡単に連絡が取れるはずがない。

 鮎太郎の元嫁、あの女は駄目だ。

 胡散臭い。由理男は頭を小さく振って、あの女の事は考えないようにした。怖かったのだ。あの女の全てを見透かすような目が。しかも口が悪い。話すのにとても疲れる女だった。

 とりあえず中に戻ろう。踵を返し階段を降りようとしたところで唐突に何かに躓いて転びそうになった。危ないところだった。足元を見回す。床の塗装が剥がれ掛けていて、小さな穴が出来ていた。また地震でもあったのかと思ったが、恐らくこの微妙な穴につま先が引っかかっただけだろう。しかし階段から落ちなくて良かった。良くないけれど良かった。

 深呼吸をしてから階段を降りた。大の大人が、なんでこんなオタオタしているんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る