屑オタクの話 ※かわいそう

 東京の夜。


 その地下の世界。


 地下と言っても、浅い。地下一階の音楽スタジオは熱狂に包まれていた。大勢の観客が小さなスタジオの中で音楽に合わせて声を上げる。


 ステージの上には若い女の子たち。まだ幼さがほんのり残る彼女たちは情熱ともに歌をうたい。ドラムをたたき、そしてギターを弾く。


 ギタリストの女の子は肩までの黒髪、その中に一筋をピンクに染めている。彼女はソロでひとりステージの中央に立ち、体全体でギターを弾く。その音色は激しい。


 彼女の細い体、黒い短いシャツの間から見えるへそ。細身のジーンズ。そして整った顔立ちで音楽を奏でる。


――ああ、かっこいい。


 それを見ながら観客の一人である「彼」は思った。かっこいいと心底思ったのだ。


 女の子名前は陽彩(ひいろ) と言った。その名前が本名なのか、それともこのような場面のための名前なのかは彼は知らない。ただ目の前で情熱的にギターを弾く彼女に純粋にあこがれていた。


 彼の思う理想通りの女性だった。ただ、もちろん遠い存在だとはわかっている。だからこそバンドのライブイベントがあれば足しげく通っていた。こんな時しか彼女を見ることも会うこともできないのだ。


「みんなー! 元気!?」


 陽彩が叫ぶのに合わせてスタジオの熱が上がっていく。



 それは偶然だった。


 彼が街を歩いているとナンパされて囲まれている女性がいた。大きなギターケースをもったパーカーの女性だった。顔を隠すようにパーカーを被っているがピンク色の髪が彼女だとファンである彼はすぐにわかった。


 ナンパしているの強引に彼女をどこかに連れて行こうとしているらしい。人通りの少ない場所で夜だった。彼は何も考えずに飛び出していた。


「やめろ!」


――どれくらい時間がたったのかわからなくなった。


 痛む頬を抑えて彼はうずくまっていた。


「大丈夫? だいじょうぶ?」


 目の前には陽彩がいた。心配そうに彼に対して声をかけている。よく覚えていないが、どうやらナンパをしていた男たちにやられたらしい。頬だけではなく体の至る所が痛かった。


「だ、だいじょうぶです」

「ほんと? 病院つれていこっか?」

「だいじょうぶです」


 うわごとのように言う彼にさらに心配そうに声をかける陽彩。それをぼんやりした意識で彼は見ていた。美しい顔立ちの彼女。まだ若いはずだが心配してくれているその仕草にどことなくしっかりとした彼女の内側を見た気がした。


 意識が薄い。だからぼそっと言った。


「いつも……ライブ、みてます」

「え?」


 陽彩の動きが止まった。その瞬間に彼女の顔が赤く染められ、両手で自分の口を押えるようなしぐさをする。


 それが彼女との出会いだった。


 最初はSNSでの話をする程度の中になっていた。だが、彼はライブに行くたびに彼女に応援のメッセージをうつようになっていった。それを読んだ陽彩はすぐに返事を返し来る。そんなやり取りの中で陽彩が言った。


 ――つ、付き合いませんか?


 彼は最初何が起こったのかわからなかった。ただ、後にすさまじい感情が押し寄せてきた。それを喜びという形で理解するのにしばらく時間がかかるほど、彼は混乱していた。


 あの憧れの彼女。かっこいい陽彩と付き合うことができる。信じられないが、とてもうれしかった。


 陽彩は彼にとてもよくしてくれた。


 付き合ってわかったが彼女はとても笑う子だったのだ。何をしても笑顔を見せてころころと笑う。冗談が好きで彼の一つ一つの言葉に頷く。


 そして意外と甘えん坊だった。陽彩は二人きりで合うと手をつなぐ、誰もいないとぎゅとと抱いてほしいと言ってきた。彼は抵抗があったが、ぎゅっとすると陽彩は喜んだ。


 交際は順調に進んだ。クリスマスや休みのイベントごとになると陽彩は必ず彼に連絡をして一緒に居た。かわいらしい女性としての彼女がいつもそこにいた。


「別れよう」


彼は言った。


「え?」


何を言われたのかわからないという顔で陽彩は振り返った。


「は?」


口を開けて首をかしげる。


「え?」


言葉が出なかった。陽彩は体が震えているのが分かった。なんでなのかわからなかった。


「な、なんで? なんで?」

「違うんだよ」

「ち、違う? 何が」

「俺にとって、陽彩はさステージの上でかっこよくギターを弾いているんだって気が付いた……。いっつもクールできっとかっこいい女性だってあこがれだったんだ。だから、ごめん」


 彼は言った。陽彩は何を言われているかわからなかった。


「な、何の話?」


 彼の、あこがれの中の「陽彩」の話だった。彼女には当然のごとく理解できなかった。


「ごめん」

「ま、まって。ねえ、ちょっと、わ、私が悪かったの? な、直すから。なおすよ。わるいところなおす。だからまってよ!」


 彼は振り向いた。冷たい視線だった。そう「彼の中の陽彩」は決してこんな懇願をするわけがないのだった。彼はまた「ごめん」と言って走っていった。



 暗い部屋だった。ソファーに小さく座って泣きじゃくる少女がいた。


 彼女の前には叩きおられたギターとぶつけられただろうヒビの入った机があった。


「うう、ううううううう」


 頭を両手で抱えるようにうずくまり泣きじゃくる。


「い、いみわがんないぃい」


 憧れられた彼女などそもそもこの世界のどこにもいない。


 本当の「陽彩」は一人で泣くのだった。

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