黄巾の乱 ※歴史

 自分の土地ではない。


 その男はそう思いながらも毎日懸命に鍬を振るった。硬い地面を掘り起こし、雑草を取り払う。合間にほかの雑務を行う。彼の一日のほとんどを占めていた。


 男の名前をパンといった。姓はない。働き盛りの男だった。


 暑い夏の日に彼は空を見上げながら手を伸ばした。よく焼けた肌だが、反面痩せている。彼には父はない。老いた母がいた。彼は自らの母を敬愛していた。貧しいなかでも自分を育ててくれた彼女を養うために様々なことを切り詰めていた。


 だが最近は彼に入る小作料も減っている。地主が言うには朝廷にいる役人が税を上げたためだというのだが、彼にはよくわからなかった。朝廷という言葉は知っているが、だからと言ってなんのことかを説明する言葉は彼の中にはない。


 理由を説明されてもわけがわからないが、彼にはほかに仕事もなく。ただ懸命に働くしか方法がなかった。それは同じように働く仲間の小作人たちも同じだった。むしろ最近は盗賊が跋扈して、焼かれた村から流れてきた流民に仕事を奪われた話も聞いていた。それに比べてならばましだと、思うしかなかった。


 秋には彼らの耕した畑は黄金に包まれていた。


 彼らの懸命に働いた結晶。それをパンが見たとき高揚感と幸福感に満ちるような気がした。収穫が終わり、近年でもまれな豊作だったという。世の中凶作だとうわさもあり、その中でよい仕事をした優越感もあった。


 パンには少しの報酬だけが残った。むしろ例年よりも少なかったが、地主は税のことと、宦官に贈り物をする必要があるといって、投げつけるように銅銭の入った袋をくれた。


 どうしようもない。


 行くところもない。


 仕事を失えばもう生きる方法も母を養う方法もなかった。


 だから愛想笑いすらしてそれを受け取らざるを得なかった。これから冬が始まる。彼は街に出ての仕事を探さなければならなかった。


 村の外れにある小さな家に帰ってくると母が出迎えてくれた。貧しくても気丈に笑う母親は今は体を壊している。街に出稼ぎに行かなければならないが、1日も家を空けることはできない。近所の者に世話を頼むにもお礼をすることもできない。


 パンはそれでも必死に笑顔をつくり、母親にできるだけ楽しい話をした。楽しいと言っても彼にできるのは村の誰それが恋をしただの、花が咲いていただのという他愛もないことばかりだった。


 母親も彼に合わせて笑ってくれるが、時折謝る。パンはそれを聞くと胸が締め付けられるように苦しくなる。だがそれでも何かにしがみつくように明るく振舞った。いつか、洛陽に遊びに行こうという。


 洛陽。それは遠くにある皇帝のおわす都の名前らしい。


 たまに来る行商人や道化に聞くとすさまじい人がいるという。そこには物があふれ、誰でも満腹まで食べることができるという。いや、いつしかパンの中でその幻想が「洛陽」になっていた。


 冬は寒かった。


 出稼ぎのために出た街では仕事がなかった。いろんなところに盗賊がでて景気が悪いと言われたが、パンにはそんなことはどうでもよかった。働けなければ母が死ぬのである。


 雪が降っていた。凍てつくような寒さの中でパンはその日の街から帰ってきた。彼は帰ったときに母にどう明るく話をしようかとそれだけを心配していた。すでに秋にもらった小作料はほとんどなかった。食料の値段が上がり、例年よりも何も買えなくなっていた。


 空腹に鳴る腹をさする。死が背中をさすっている気さえした。


 暗い冬の日だった。


 パンはそれでも家の入り口を開ける。彼は母親が寒くないようにと隙間を板で埋めていた。釘などはないから板を地面に立てかけている不格好なものだった。


 家の中も暗かった。中ではみしみしときいきいと変な音がしていた。


 母が立っていた。ただ少し足が浮いていた。天井から伸びた細い紐の影が伸びていた。パンは「はは」と必死に明るくしようとした。


 雪の降る中でパンは笑っていた。何かがはじけた様に泣きながらその場に崩れ落ちて笑った。地面を手でえぐり、やり場のない感情で頭を掻きむしった。


 親子は文字が書けなかった。


 残すべき言葉はそこにはなかった。


 母親の行動はただ息子が生きてほしいからだったかもしれない。だが、それをパンに残すこともパン自身が受け取ることもできはしなかった。


「あああ――」


 パンは彼の小さな小屋からふらふらと出ていく。村を幽鬼のように歩き、それから地主のところへ行った。


 地主に頭を泥につけて頼んだ。広い屋敷の庭で太った地主は頭を地面にこすりつけるパンを見下ろしていた。彼は葬式をするための金を貸してほしいと頼み込んでいた。しかしこの太った男はにべもなくいった。


「帰れ」


 特に取り合わず煩わしそうに手を振って男は家の中に入った、パンは心から叫んだ。一人で庭の真ん中で「金を貸してほしい! 必ず返す」と頭を地面にこすり続けた。


 家の中からそれをあざ笑うような明るい笑い声が聞こえた。返答はそれだけであった。


 パンは立ち上がった。頭を抱えて地主の家を後にした。


 その夜、地主の家は燃えた。少し小高い場所にあるそこは煌々と天を照らすように燃えた。そしてパンも村から消えた。


 時は流れていった。


 巨大な宗教組織が勃興した。太平道という宗教を掲げた張角という男が中心となって組織されたものだった。


 世の中の荒れ果てた様々な地域から暮らせなくなったものや盗賊やもともとの信者を抱えて膨張した太平道はある時こういった。


――蒼天已死


 蒼天つまり今の王朝の命脈はすでに尽きたとして彼らは武装蜂起を行った。数十万の信者たちは頭に黄色の頭巾をかぶったため、王朝からは「黄巾賊」と言われた。


 様々な地域。広大な範囲を含んだ兵乱だった。


 「賊」と言われた彼らがここまで急速に拡大したのは、誰もが疲れ切っていたからだろう。誰も助けてくれない無限のような地獄を生きる人々がすがるように武器を手に取り、そして狂騒の中に入っていった。


 黄巾の人々は地盤をもたない。そして巨大な人の群れだった。数千数万の人の群れが街を襲うとそこにある食料も何もかも奪うしかない。そして殺しも、犯すこともだれも止めるものはいなかった。


 ある街が燃えていた。


 頭に黄色の頭巾を巻いた軍勢が笑いながらあちこちに放火していた、楽しそうに笑いながら死体の散らばった道を歩いている。どこから持ってきたのか、酒を飲みながら歩くものも血の付いた剣を肩に担いでいるものも目が血走り、狂ったように、いや狂いながら笑っていた。


 おいパン。と呼ばれた青年は振り返った。


 その青年は笑顔を張り付けたまま燃え盛る街を見ていた。彼はすべてが崩れ落ちていくこの瞬間がなによりも好きだった。この世界が燃え尽きていくような光景に快感を覚えていた。

 大きな屋敷も、意味の分からない「文字」を書いた紙の束も身なりのよさそうな人間の、すべてが灰に帰っていくことに安心した。


 パンが振り返ると大勢の仲間がいた、血濡れた彼らはパンの肩をたたいてどこの酒がよかっただの、あそこに女がいただのと下卑た話をしながら楽し気に燃え盛る街を歩く。たまに落ちている首を蹴飛ばして彼らは笑った。ころころと悲壮な表情を張り付けたまま遠くに行くのが面白かった。


 彼らには何もない。何ももっていなかった。それぞれが過去もあるが誰も語りはしない。今をただ何も考えずに生きていた。


 パンはその中で暗い空を見た。遠い昔に死んだ母親のことをおもいだそうとしてやめた。彼は今の自分を見たら母が泣くだろうと思う、それが一つだけ残った彼の理性だった。


 炎が勢いを増していた。


 この街も終わりだった。次の街はどうしようかと他愛もない話のように彼らは言う。その時悲鳴が聞こえてきた。男たちの悲鳴である。


 パンをはじめとして彼らは武器に手をかけた。官軍が復讐に来たのかもしれない。彼らは走り出した。東門のあたりから悲鳴が聞こえる。歓声も響いていた。炎の中で武器のぶつかる音がした。


 東門に敵が入ってきたのだ。パンは急いで民家によじ登ってそこを見た。見ればみすぼらしい旗が立っている「劉」と書かれたそれを彼は読めない。だが、それは彼の勇気を弾ませた。どうやら正規の軍ではない。


 パンを先頭に彼らは奔った。手に剣を握りしめて。


 東門では頭に黄巾を巻いた死体が散乱していた。血に染まった炎の広場の中央に男が立っていた。


 長身の男。雄偉な体格に緑の戦袍を身にまとっている。


 炎に照らされた男の肌は赤かった。手に握りしめた巨大な戟と黒い美しい髭。


 男はパンたちを見つけると吠えた。天が揺れるかのような大声はすべてを圧する。猛烈な速度で迫ってくる男の形相は鬼のようだった。


 パンは剣を握りしめてその場で固まっていた。


 男が目の前に迫る。戟の刃が彼の首を刎ねた。


 空に浮かんだ気がした。


 パンはくるくると回る視界の中で何かを叫ぼうとしたが何も言えず、地面に落ちた。痛みはなかった。大男はパンの仲間たちを殺していた。その姿を見ながら、パンはゆっくりと視界が黒く閉じていくことを感じた。炎に全てが焼かれるように灰になるようにすべてが消えていく。


 パンはその中でただ、安心していた。

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