いつか見た夢

 紅い絨毯の敷かれた静かにクラシックが流れるレストランでした。


 ガラス張りの向こうに夕日に美しく照らされたオレンジ色の海が見えました。


 窓際のテーブルで老夫婦が穏やかに談笑していました。老婦人は白い髪を結び、ささやかな化粧が気品を感じさせました、その向かいに座る老紳士は白いワインの入ったグラスを片手に穏やかに微笑んでいました。


 食事のころ合いを見計らいゆっくりとウエイターが次の料理を持ってきます。


 ウエイターは若く精悍な顔だが微笑をたたえながら料理を運びました。


 食事は和やかに進んでいきました。その時ふと老紳士が窓の外に目をやると夕日の中に1機の気球の影が見えたのです。老紳士はその姿に懐かしさを感じました。


――


 それはもう何十年前のことでしょう。


「ジャック~」


 三つ編みの金髪が揺れます。


 少女がはだしで砂浜を駆けていきました。麦わら帽子をかぶった彼女が追うのは少年の背中でした。


 少年は砂を蹴りながら青い空の下を走っていました。短く切った髪に青い瞳。彼は空を飛ぶ数羽の白い鳥を追っていました。


 はあ、はあ


 息を切らせてジャックと呼ばれた少年はその瞳の中に空の雲と鳥を映していました。でも、人の足では優雅に空を飛ぶ鳥においていかれてしまいます。彼は手を伸ばして叫びました。


「待って……!」


 その小さな手のひらは何も掴むことはできませんでした。彼は足をもつれさせて砂浜に転んでしまいました。ざっと砂が舞います。彼ははあはあと荒い息のまま、仰向けに寝転がりました。


 そこをなんとか追いついた少女が覗き込みました。片手で麦わら帽子を押さえながら、ぷくっと膨れたほほが少し怒っているとジャックに訴えていました。


「ぜ、全然止まってくれないのひどいわ」

「はあはあ、ご、ごめんよウェンディ」

「……知らない」


 ウェンディはそっぽを向きます。ジャックは半身だけ体を起こします。


「僕のお小遣いでクッキーを買ってあげるからさ」

「……!」


 ぴくっとウェンディは反応しましたが何も言いませんでした。彼女は両手を組んでふんっと鼻を鳴らしました。彼女はちょっとにやけそうな顔を背けたまま聞きました。


「なんでいきなり走り出したの?」

「鳥が飛んでたから」

「は?」 


 ジャックは空を見ました。


「空からの景色ってどうなのかなって聞きたかったんだ」


 ウェンディはわからないという風に困った顔をしました。



 時は順調に過ぎていきました。


 ジャックは街の工場で働き始めました。最新の蒸気機関というものの部品を作っている会社でした。


 彼はそこで毎日真っ黒になりながら懸命に働きました。そんな彼が汚れて帰ると隣に住んでいるウェンディがいつも迎えてくれる日々でした。


 彼らは夕方に会って、仲睦まじく会話をしてからお互いの家に帰ります。


 その短い時間はジャックが夢を語る時間でありました。


 彼の夢は空からの景色を見たいと思っていました。


 それでジャックは近くに住む学者などがつかった裏紙や書類の切れ端に自分の考えを稚拙な文字で書き残していました。


 そこには鳥のような形の器械の絵や鳥のスケッチがありました。


 ウェンディはそれを見ながらうんうんと頷いてくれていました。



 時間は繰り返していくわけではありません。


 それでも日常は繰り返していくように考えてしまいます。


 毎日は幸せでした。


 でもジャックはある時から強い気持ちがありました。彼は首都に言って勉強をしたいと思ってしまいました。


 彼の真面目な働きぶりに少しだけの蓄えはありましたが、首都に行ったところで勉強ができる保証などどこにもありませんでした。それにウェンディのことはどうするのかと悩みました。


「…………あきらめよう。ただの夢なのだから」


 彼は今までに書き溜めたものを抱えて出かけました。


 街の外れでマッチをシュッとこすり火をおこしました。木をくべて火を大きくしました。


 彼は持ってきた書類の束にそれに投げ入れました。ぱちぱちと黒い煙になっていくそれを見る彼のほほを伝うものがありました。


 そのあとに彼はウェンディに結婚を申し込みました。


 ウェンディは泣きながら喜びましたが、彼の夢について尋ねました。ジャックは正直に答えました。そしてそのほほをウェンディにおもいっきり叩かれました。


「!」


 ウェンディは泣きながら言いました。それは過去にジャックが彼女に語っていた言葉でした。「空からの景色」の夢も、あの浜辺のことも彼女はすべて覚えていました。


「あなたの夢は私の夢なの!」


 そう叫んだウェンディをジャックは抱きしめていました。


 ☆


 当てがあるわけでもなく2人は首都に向かいました。その生活は住むところから探さなければなりませんでした。2人は懸命に働き、そしてその夜にはどうやったら空を飛べるのか話し合いました。


 ジャックには蒸気機関の断片的な知識がありました。だから様々な工場に行き、いろんなことを聞きました。


 そしてウェンディと一緒に考えました。空を思い描きながら、絵や文字をつづりました。無数の絵を描いた後に2人は1つの答えを得ました。


 それは大きな袋のようなものを籠につけて、熱した空気で浮かび上がらせるというものでした。


「気球と名づけよう」


 ジャックは言いました。しかし、ウェンディは不満顔でした。


「どうしたんだい? ウェンディ」

「うーん、なんてことないけど、どうせならかわいい絵でも付けたら面白いかも」

「……人の顔でも描いてみようか」

「猫ちゃんがいいわ」

「猫? じゃあこうかな」


 絵をジャックが書き足しました。猫のような耳をつけて口をつけています。


「どうせなら名前もつけましょう。だって猫ちゃんなんだから」


 ウェンディは言いました。少し考えて言います。


「遠くの……ジャポネではお花の名前で蓮っていうのがあるそうだわ。ハスってどうかしら」

「名前か……いいよ」


 そのような他愛のない会話の後、2人は気球をつくるためにお金をためていきました。何度か小さな試作をしながら、10年以上が過ぎていきました。


 とある日の彼らの故郷でのことでした。


 広場に大勢の人が集まっていました。その中心には地面に打ち込んだ楔と紐でつながった籠とその上にだんだんと膨らんでいく気球がありました。


 猫の絵が描かれたその「気球」の中に熱を送り込む機械をジャックが操作していました。その傍で子供を抱きながら優しく微笑むウェンディがいました。


 気球はぴんと張り詰めるほど空気が送り込まれていきました。




 ふわりと籠が浮きました。楔でつながれているからまだ飛び立つことはできません。ジャックはそれに飛び乗りました。心臓が鳴ります。空にいけば帰ってこれる保証はありませんでした。


 ウェンディも子供をおろして、籠に乗り込みました。ジャックは驚いて降りるように言おうとして彼女の人差し指が彼の唇を押えました。


「大丈夫よ。貴方を信頼しているわ。今日の夜ご飯はお祝いのシチューよ」


 無事に帰ることができるとウェンディは言いました。ジャックは楔とつながれた紐を取ります。気球はふわりと空に上がっていきます。


 青い空に吸い込まれるように、群衆の歓声を受けながら。ジャックとウェンディは抱き合いながらゆっくりとした時間を感じていました。


 海沿いの街です。遠い、遠い水平線のかなたが見えました。きらきらと光る水面と蒼い空の境が見えました。


 そのそばを数羽の鳥が飛んでいきました。



 遠い思い出に浸っていると老紳士は不意に呼ばれたことに気が付きました。


 老婦人が言います。


「どうかしたの?」

「いや、昔見た夢を思い出していたんだよ」


 2人は食事するレストランの窓の外には海の上を飛ぶ多くの気球が見えていました。

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