アンデスの歌うネズミたち

南沼

***

 チィチィ。

 ピッピッ。


 野放図に伸びた灌木の細い枝木の隙間から、茶色い毛皮のねずみが歌うように鳴きながら顔を出す。小刻みにひげを震わせて辺りを伺い、やがて視線を一点に向ける。

 その先には木造の小屋。アンデス山脈とアタカマ砂漠に挟まれた人気のない裾野にぽつんと建てられた小屋の、丸太で組んだ外壁によじ登り、ナッツのひとつでも落ちていやしないかとねずみはガラス窓を覗き込む。


 中にいたのは、2人の人間。


***


 セニョール。許してくれ、刑事さん。


 男が首を振りながら、涙声で懇願する。

男の腹は大きく突き出して、二の腕にも腿の辺りにも大きく肉が余っている。ぶよぶよとした白い肌の至る所に彫られたタトゥーは薄く掠れている。

 服はすべて脱ぎ去っている。あるいは剥ぎ取られたというべきか。体毛は濃く、胸にも指にも赤味がかって縮れた毛が密集している。と睾丸はすでに縮み上がって、贅肉と陰毛の中に完全に隠れている。


 あんたの家族の事は、本当に申し訳ない。すまなかった。ボスの命令だったんだ。


 だから許してくれ、そう男は繰り返し赦しを乞うている。


 逃がしてくれたらその足ですぐに警察に行く。カルテルの事も全部喋る。本当だ。


 刑事と呼ばれた男は、正確にはもうすでに職を辞している。2週間ほど前、元刑事の妻子は五体を完全に損なった形で自宅の裏庭に投げ込まれた。11歳になったばかりの娘の下半身は外性器をはじめ肛門や子宮に至るまで目も当てられないほどずたずたにされ、切り落とされて血の気の完全に失せた頭部の苦悶の表情は、まだ生きている内にそれらがなされたことをはっきりと物語っていた。報復を恐れて通り一遍の捜査すらしない司法の腐敗ぶりに愛想を尽かした彼は、手持ちの現金全てをはたきありとあらゆる伝手と情報網を駆使して直接殺害に関わった幹部の拉致に成功した後、辞職の旨を記した一通の短いメールだけを職場あてに送付し行方をくらませた。

 髪を短く刈り上げた精悍な身体つきの働き盛りだった筈だが、今や髭が黒のごとく頬を覆い、眼は落ち窪んで酒の匂いをぷんと漂わせている。


 聞いてんのか。おい。おれに手を出したら、おまえはもうおしまいだ。ぶっ殺してやる。おまえを産み落とした母親のくされマンコにおまえの頭蓋骨をぶちこんでからだ。絶対にやってやるからな!


 元刑事は、答えない。黙って男の傍に歩み寄るその右手に、拳をふたつ並べたほどの大きさの頭の金槌と、小振りの斧を携えている。

 ひじ掛けに結束バンドと針金で縛りつけられた男の左手のあたりを、じっと見下ろす。


 おい……やめろ。


 男は、ひじ掛けを握りこむようにして力を込めていた左手の拳を握りこんだ。それを見て元刑事は唇を突き出すように小さく頷き、持ち替えた金槌を拳めがけて思い切り振り降ろした。

 ぐちゃっと骨の砕ける音とともに、男の左手がひしゃげた。


 あああああああああああああああああ!!!


 変形し、みるみる赤黒くうっ血を始める拳を丁寧に開いていく。なおも悲鳴を上げ続ける男の前にしゃがみこみ、眼を合わせる格好で斧の刃を掲げて見せた。

 男は泣きながら首を振ったが、元刑事は立ち上がって斧をほんの少しだけ振りかぶって落とした。とん、という小気味をたてて斧刃がひじ掛けに食い込むと同時、男の人差し指が根元から飛んだ。


 いいいいいいいいいいいぎいいいいいいいぃ!!!


 男は悲鳴と小便をいっぺんに漏らし、右手の出血がそれに続いた。元刑事は床に広がる染みを見つめながら、ようやく口を開いた。


 止血しないとな。


 カチリと小型ガスボンベに取り付けたトーチバーナーに火を入れ、青い酸化炎で傷口を無造作に焼いた。タンパク質の焼ける香ばしい音と臭いがロッジの部屋を満たす。

 痙攣と共に、びいっびっびいっという吐息とも悲鳴ともつかない声を上げる男。


 まだ一本目だぞ。


 さして感慨もない風にこぼす元刑事に、男は泣き声を上げながら許してくれやめてくれやめてくれとうわごとのように繰り返した。


 わかった。


 唐突に、元刑事が得心したように言った。


 おまえはもう、喋らない方が良い。


 机の上に並べていた工具の中からアルファベットのCの形をしたクランプを取り上げ、男の口をドライバーでこじ開けてからねじ込んだ。

 そしてクランプをふたつ、下あごを挟むように締めつけ、口を閉じられないようにしてから充電式レシプロソーの電源を入れた。


 唇からいこう。その次は歯だ。


 ビイン、ビインと試すように何度も電源を入れては切るその音に恐怖し、男は空きっぱなしの口から涎を垂らして喉の奥から引き絞るような声を上げた。


 ぐぃああああ!!! いいいぎ!!!! あいいいいい!!!


 勿論、元刑事は何の斟酌もしなかった。



 数時間後、男はすっかり様変わりしていた。

 楕円に大きく切り取られた唇の輪郭は膨れ上がって赤黒い肉が盛り上がり、白々と剥き出しになっていたはずの前歯はドリルで削られあらかた無くなっていた。

 何度殴りつけても目を閉じるものだからといって両の瞼は鋏で乱雑に切り取られ、血に濡れた眼球が視線を虚空に彷徨わせている。両手の指は完全に無くなって、バーナーで焼かれた断面の傷口は黒々と炭化していた。

 男の前には姿見が立て置かれている。少しずつ壊れていく自分の有様を存分に見ればいいという元刑事の計らいだった。

 かぶう、かぶうと喉の奥から血の泡と共に吐息を漏らす男は消耗しきり殆ど心ここにあらずといった態だったが、削れた前歯のくぼみをドライバーで乱暴にこじられ、身体を跳ねさせた。


 ぶいい!!! びいいいいいいい!!!


 ほら、お楽しみはこれからだぞ。


 元刑事は陰毛の茂みの間から睾丸を掴み上げ、縮み上がり表面に硬く皺の寄ったそれにナイフの刃を押し当ててと中身を剥いた。


 ほご!!! べえ! べえええ!!! べえええ!!!


 真っ赤な精管を指で引っ張ってなぞり、ひと際高く上がる悲鳴を聞きながら男の顔をまじまじと眺めた元刑事は、艶やかな表面に血管の走る睾丸を親指と人差し指で摘まみ思い切り力を込めて潰した。

 男の上げたはずの声は、最早声にならなかった。背を思い切り逸らし、半ば残った陰茎から血混じりの粘液をまき散らして意識を飛ばした。


 気付けば、元刑事も手指や袖口をはじめとしてすっかり返り血に塗れていた。

 時計を見て、溜息をつく。

 まだまだ、続く。続けなければならないが、しかし休息はどうしても必要だった。男の息がまだあることを確認してから元刑事はシャツを脱ぎ、備え付けのキッチンで念入りに手を洗った。そして冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ドアの向こうへ消えた。



 ほどなく、元刑事がドアを開けて部屋に踏み入ってくる。

 目の前には裸に剥かれた男がだらしない身体を晒しながら、床に打ち込んだ4つのアンカーに手足を引っ張られるように括りつけらて仰向けになっている。

 肌の至る所に彫られたタトゥーは薄く掠れていて、縮み上がったと睾丸は贅肉と密集した陰毛の中に完全に隠れている。


 セニョール。許してくれ、刑事さん。


 だらしなく顔を歪め情けを乞う男を無視して、元刑事は拳銃を取り出し男の膝を撃ち抜いた。


 あああああああああああああああああ!!!


***


 窓の中、違う形で延々と繰り返される惨劇の1日がねずみにとってなんの価値もあろうはずがなく、程なくして彼はふいと顔を逸らせ壁を駆け下りる。

 アンデス山脈の麓に降り注ぐ午後の麗らかな陽光の下、ねずみは長い尾をぴんと伸ばして再び歌い出す。


 チィチィ。

 ピッピッ。

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アンデスの歌うネズミたち 南沼 @Numa_ebi

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