9 ゴーンガール

 タツヒコはうつむいたまま言葉をつむいでいった。丸みをおびた前足は握ったり開いたりを繰り返した。身体全体は小刻みにふるえていた。マリーはタツヒコの黒々とした爪がカウンターを引っ搔いているのを見つめていた。

「働きはじめてすぐに、ぼくはある少女の管理を任されました。なぜ彼女が管理されるまでの存在だったったのか当時はわかりませんでした。それまでの彼女に関する報告を確認してみても、人間ならではの肉体的病気や精神的病気もありませんでしたし。それでですね、保護区域は動物園やら見世物小屋やら揶揄されこそしますが、いちおうはちいさな街と変わりませんでしたから、はたからみれば、仕事をこなしているぼくの姿は、街を歩きまわる彼女につきまう不審者に見えたにちがいありません」

 マリーは顔をそむけて笑った。

「カメラとかで監視することとかはできなかったの。操り人形をリモートコントロールするやり方だってあったでしょうに」

 タツヒコは眼をほそめると、鼻を鳴らした。

「それじゃ逆に手間なんですよ。カメラでは、いざなにかあったときに現場に向かえませんし、操り人形はですね、けっきょく操り人形でしかありません。誤作動を起こしてだれかを殺してでもしまったらどうするんです。人間はただでさえ少なくなっているのに」

「ごめん」

「いいんですよ」

 タツヒコはおおきく息をはいた。

「まあそんなわけで、ぼくの時間は彼女のために奪われていきました。身体を休ませる時間以外は彼女の顔と動作ばかりを見ていたような気がします。だからマリーさんのもとにも行けませんでしたし、カタンさんの植物園にも、ろくに顔を出せませんでした。ひたすらに彼女の顔を拝む毎日でした。これではまるでこっちが管理されているみたいでした」

 マリーは頬杖をつきながら言った。

「彼女だって知っていたんでしょう」

「そうですね。ただですよ、こっちから一方的につきまとうぐらいならまだ楽だったんですがね、そこからが問題でした。なんでもカウンセリングというものが、管理プログラムのなかにはありました。これは管理下にあるどの人間にも施されているものでした。かれらはぼくらよりも圧倒的に機能不全になりやすいですからね。物理的なものではなく、かれらの言葉でいうところの『心』の問題として」

 雲が通りかかったせいで店内が薄暗くなった。

「知ってる。うつ病でしょう」

「そうです。かなり昔の言い方ですけど、それで合っていると思います」

 いにしえの精神科医による研究成果は、人形たちの手によって、ほとんど葬り去られてしまっていた。そして、いざ必要になったときにはすでに遅かった。残されたのは、うつ病という病名とカウンセリングという超古典的な予防法だけであった。そのカウンセリングでさえ、人形たちに伝えられたのは、対話を用いる予防法という情報のみであった。

「ぼくは毎日午後三時になると、彼女と対面で適当な話をしました」

 タツヒコはブラックコーヒーをもう一杯飲み込むと、カウンターの椅子に飛びうつり、うつ伏せになるようにして、前足をカウンターにのせた。見た目こそシロギツネではあるものの、身体の構造はまったく異なるようだ。

「そして、話していくうちにですね、ぼくはあることに気づいたんです。彼女は、管理されていることにはなにも不満を持っていないことに。ただですね、彼女は自分のことをグリーンと呼ぶように、ぼくに命じました。そうしないと口を利いてくれないとまで言ったんですよ。なんでも、緑色のワンピースをよく着ていた彼女は、そのために仲間たちからグリーンと呼ばれていて、それが彼女にとって結構重要なアイデンティティーになっていたみたいなんです」

「で、そのとおりにしたってわけか」

「そうです。しかたなしに、ぼくもそのルールに乗っかってそう呼んでやることにしました」

「でも彼女にだって識別名はあるんでしょう」

 マリーの問いかけに対して、タツヒコはふてくされたように尻尾をまるめた。

「35678bbg-f5646っていうシリアル自体はありますよ。でも臨機応変にやるのが職員に求められる能力なんです。少なくともぼくはカタンさんにそう教え込まれました。そして、人間に寄り添うように言われたんです。これにいたっては一番大切なことだとまで言われてね。で、それにしたがって彼女をアダ名で呼ぶことにしたんですよ。それにグリーンっていった方がやりやすいでしょう」

 人形とはちがって、人間たちには回線が埋め込まれていなかった。そのため人間たちは、問題が起きたときには識別名の下四桁で呼ばれた。もちろん口頭である。その呼び掛けには冷たい響きがあった。

「でも先輩たちはアダ名なんて使ってこなかったんでしょう」

 タツヒコは後ろめたげに頭に片手をのせた。

「それはそうなんですよね。でも、自分から進んでいろいろやっていかないと、どうにもならない仕事ですからね」

「そうかもね。わたしにはさっぱりだけど」

「それでですね。わたしはグリーンの管理をつづけていました。そして、一ヶ月たったあたりからグリーンがあることを、ことあるごとに漏らすようになったのです」

「それはなに」

「区域の人々が一生に一度は口にする言葉ですよ。外に出たいっていうやつです」

「それは意外ね。文句を言わない子だったんでしょう」

「それが意外とは思えませんでした。グリーンはほかの人たちと少しちがっていたんです。ほかの人間たちのそれは、絶対に叶わないことを願うものでしかありませんでした。しかしですね、グリーンはまっすぐな青い瞳でぼくを見つめて、その言葉を言い放つんですよ。まるで絶対にそうなるとでも言わんばかりの調子でね」

 マリーは皮肉めいた笑みを浮かべた。

「そして、あなたが手をかしてしまったってわけね。」

 タツヒコはいよいよ縮こまっていった。身体中の白毛が逆立ち、小刻みにふるえていた。目はほそくなってゆき、開いているのかどうかもわからない。

「そうですね。でも、ぼくじゃなくてもああなっていたと思いますよ」

「いや、あなただからやったの」

 おびえた声が返ってきた。

「そんなはずはないですよ」

 マリーはすかさず切り返した。

「だってそれがあなたの先生の目的なんでしょう。わたしはあなたのしたことが悪いことだなんて言ってないよ」

 タツヒコは顔を上げた。

「どういうことです」

「あなたがいないときにカタンがなんて言っていたか知ってる」

 沈黙。

「あなたには保護区域を変えられる素質があると言ったのよ。あなたでないと多分だめだったの。グリーンみたいな子はほかにもいたはずよ。ただ芽を摘み取られていただけ」

「でも、もう保護区域には入れないんですよ」

「じゃあ外から攻めればいいでしょう。芽は育って外に出ていった。グリーンはもうわたしたちには出来ないことが出来る子なの。彼女を探しだしてヒントをもらうしかないわね」

 そう言うと、マリーはもう一杯ブラックコーヒーを注いで、タツヒコに差し出した。すっかり冷めていた。タツヒコはぼんやりと黒々とした水面をのぞいた。

「どうするんです」

 マリーは真顔に戻った。

「探すに決まっているじゃないの。どこに行ったことぐらい知っているんでしょう」

 タツヒコは考え込んだあと口をひらいた。

「キャラバンに同行させてしまいました。もういまはあの砂漠の向こうです」

 マリーは天井にぶら下がっている電球をあおいだ。

「じゃあいくよ」

「どこに」

「わかっているでしょう」

 沈黙が流れた。

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