8 キツネの罪状

「試験に合格したことは知っているんですよね」

 マリーはうなずいた。首の球体関節が氷上をすべるような音をたてた。

「知ってる。ホロクラウドに載っていたからね」

 タツヒコの体毛が一瞬だけふるえた。そんなつもりはもとよりないのだろうが、鋭い眼つきをしているせいで、まるで威嚇しているようだった。

「ホロクラウドを読み取れるんですか。回線につながっていないのに」

 マリーは作り物の笑みを浮かべた。やはり、まだぎこちなさがあった。

「コツがあるのよ」

「そうなんですか。まあ、いいや。取りあえず合格したあとのことはなにも知らないってことでいいですか」

「そうね」

「そうですか」

 タツヒコはコーヒーの表面をかるく舐めとった。シロギツネのながい舌は、ブラックコーヒーを少しずつすくっては口元に運んだ。

「まずですね、合格したという事実に、ぼくは一〇日ものあいだ気づかなかったんですよ」

「えーと」とマリーは首をひねった。「そもそもどんな試験を受けたの」

「やっぱり試験のところこら話した方がいいですかね」

 マリーはちいさくうなずいた。

「わかりました」タツヒコは前足で鼻先をなでた。「最後の試験はですね、ひとりずつ時計のない個室に入れられて、そのなかでひたすらに石を積んでいくというものでした。ただ、いま思い返してみると、この行動自体になにかノルマかなにかがあるわけではなかったんだと思います。でも、みんな石をまじめに石を積んだはずですよ。少なくとも、ぼくはそうだったんですからね。ほかになにもすることがありませんでし。ただですね、入室するまえに回線で、あるメッセージだけが送られました。部屋から出てくるのが速すぎても失格、遅すぎても失格、というものです。そしてですね、個室に入れられたあと、ぼくは真っ白な机のうえに九つの石が置いてあるのを見つけたんです」

 マリーはコーヒーカップを手に持った。それから砂糖やミルクも入っていないのにコーヒーをスプーンでかき混ぜた。

「じゃあ、石を積む行為になにか意味があるかどうかさえ知らされていなかったわけね」

「そうです」タツヒコは尻尾をゆらした。「それでですね、ぼくは三〇分くらいねばってから、石を積み上げるのがまったく無駄なことだと思いたちました。それで、三つまで積み上げた石を崩して、思い切って部屋を出たんです。でも、出てみても試験官もだれもいませんでした。ただ、ほかの個室からなにかものが崩れ落ちるような音だけしました。ただ、それ以外はなにもありませんでした。こういうのを殺風景って言うんでしょうね。天井を見上げるとちいさなカメラがこっちを見つめていることだけは確認できました」

「ほかの人たちはどうしていたの」

「あとで聞いてみると、さっきの崩れた音というのは、速く積み上げられないことに発狂した人形が自壊した音だったらしいです。で、ほかの受験者はというと、ぼくよりもずっとずっと長いあいだ石を積み上げていたみたいです。そして、やっと九つ積んで部屋を出たところで、仁王立ちの試験官に不合格を告げられたといいます。ひどい話です。さらにはですね、ある三人にいたっては、いまだに個室から出られていないんですよ。もっとも時間間隔が狂ってしまった本人たちにとっては、一日経っているかどうかすら、わかっていないんでしょうがね。かれらは意図せずして新しい実験の被験者になってしまったわけです」

「議会はそれを知っているの」

 タツヒコは怒気を含んだ声でこたえた。 

「知っているに決まっているじゃないですか」

「そっか」マリーはあきれ顔をつくると、小指で唇をなぞった。「議会は相変わらずそんな調子なのね。それで、そのあとあなたはどうしたの」

 タツヒコは鼻を鳴らした。

「カタンさんの植物園に向かいましたよ。あいにく自分の家はなかったもので。そしたらですね。カタンさんはいました。しかしです、ずっと仏頂面で一言も話しかけてくれませんでした。そんなものですから、ぼくはずっと園内の植物たちの世話をしていました。植物と過ごす時間は悪くありませんでした。一〇日はすぐに過ぎました。そしたらですね。カタンさんにいきなり肩をたたかれて、ホロクラウドを見てきな、とだけ言われたんです」

「で、合格したことがわかったってわけだ。でも、どうして上手くいったの」

 キツネは眼を落とした。

「正直なことを言ってしまうと、いまでもよくわからないのです。合格者にもなにが決定打になったのかは一切知らされないんですよ。これに関してはカタンさんだってそうですし、保護区域内の先輩たちも全員そうでした。試験官だってするのは記録と報告だけです。知っているのは議会だけです。だから、なんとなく推しはかるしかないって感じですね」

「そうなの」

「そうなんです」

 タツヒコは耳をわざとらしく垂らした。マリーは同情を示すようにうなだれた。

「で、それから保護区域で働きはじめたってわけでしょう。でも、こんなに早くクビになっちゃうなんて、聞いたことがないわ」

 タツヒコはさざ波のような笑い声をあげた。

「そうですよね。まったく恥もいいところです」

「なにがあったの」

「簡単な話です」

タツヒコは伸びをすると、ふたたび縮こまった。

「人間をひとり、出してしまったのですよ。外にね」

店内は静まり返った。

「それはまずいことなの、よね」

タツヒコはいつものタメ息をついた。これで何度目だろうか。シロギツネの白毛のせいで、タメ息をつくたびに、タツヒコの身体がだんだんと煙になっていくように見えた。

「そりゃあね」

 なんとも重たい響きだった。

 保護区域がつくられて以来、人間がそこから抜け出したというニュースはまずなかった。それは保護区域を管理する職員たちの有能性の証左にはかならなかった。しかし、タツヒコが外に出してしまったという人間の話をマリーは聞いたことがなかった。

「それは、あなたがヘマをしちゃったってこと」

 タツヒコはしどろもどろな声でこたえた。

「そうであるとも言えるし、そうでないとも言えます。はい、そうでは、そうじゃないんです」

 マリーは試験官のような面持ちで問いつめた。

「つまり、どういうことなの」

「たぶん、わたしが、自分の意志で逃がしたんです」

 タツヒコはうつむいたまま白状した。

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